神の系譜 竜の時間 亡国 西風隆介 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)西風《ならい》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)西園寺|公房《きみふさ》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)[#地から1字上げ]西風《ならい》隆介 ------------------------------------------------------- 〈帯〉  都下の古城を模した  精神病院に現れた  〈神〉を称する異能者!  人の死を予言・予告する男。  大好評シリーズ  10万部突破! [#改ページ] 〈カバー〉 「おまえ! ポケットの中——!」  予想だにしなかった、きつい口調でいう。  中西が驚愕した顔で、あわてふためいた様子で、手を上着のポケットから、出した。  竜介はというと、その彼の顔を見たとたん、いわゆる既視感《デジャブ》におそわれた。それも目眩がするほどに激しい既視感《デジャブ》だ。  ——彼とは以前、どこかで会った。そして身の毛もよだつほどの恐怖を覚えた。  そんなありもしないはずの思いが頭の中をかけめぐって、竜介は、立ちすくんでしまった。[#地付き]〈本文〉より 火鳥竜介にオヌマ記念病院のオヌマユキエとなのる女性から電話がかかってきた。 どうやら、火鳥の研究が超知覚とか超感覚を対象にしたものだと、どこかで聞き及んできたらしい。 電話で説明できないので、とせっぱつまってる様子だ。 そこで、都下、八王子の尾沼記念病院を訪ねると、そこは灰色をした石造りのヨーロッパの古城そのものだった。 なんでもトランシルヴァニアだかの古城を移築してテーマパークにしたてようとしたのが、バブルの崩壊で計画が頓挫して病院が買い取ったらしい。 そして本題は病院で問題になっている患者の話だった。 年齢は二十一歳、まだ入院して三カ月。 その男性が自分は神であるといって人の死を予言しだしたのだ。 Character File ㈬ 【火烏竜介】かとりりゅうすけ オカルトの闇に挑む脳科学者。 独自の脳理論で世の不可思議を解く。 心霊、予知、超能力、神話に宗教、彼にかかると解けないものはない! が、大学では講師にあまんじ、極小の研究室『情報科』の室長。 大学には内緒で、銀座のクラブでピアノ弾きのバイトをしている。 まもなく四十歳だが独身で、麻生まな美は——実の妹。 [#改ページ] 書下ろし長篇超伝承ミステリー 神の系譜 竜の時間 亡国 [#地から1字上げ]西風《ならい》隆介 [#地から1字上げ]徳間書店 [#地から1字上げ]TOKUMA NOVELS [#改ページ]    目 次  第一章 「黄泉の国へ」  第二章 「彪」  第三章 「黄泉返り」 [#改ページ]  木花《このはな》の佐久夜毘賣《さくやびめ》  ——天津日高日子番能邇邇藝能命《あまつひこひこほのににぎのみこと》、笠沙《かささ》の御前《みさき》に、麗《うるは》しき美人《をとめ》に遇《あ》ひたまひき。ここに「誰《た》が女《むすめ》ぞ」と問ひたまへば、答え白ししく、「大山津見《おおやまつみの》神の女、名は神阿多都比賣《かむあたつひめ》、亦《また》の名は木花の佐久夜毘賣と謂《い》ふ」とまをしき。また「汝《いまし》の兄弟《はらから》ありや」と問ひたまへば、「我が姉、石長比賣《いはながひめ》あり」と答へ白しき。ここに詔《みことの》りたまひしく、「吾汝《あれいまし》に目合《まぐはひ》せむと欲《おも》ふは奈何《いか》に」とのりたまへば、「僕《あ》は得白《えまを》さじ。僕《あ》が父大山津|見《の》神ぞ白さむ」と答へ白しき。故、その父大山津|見《の》神に、乞ひに遣はしたまひし時、大《いた》く歡喜《よろこ》びて、その姉石長比賣を副《そ》へ、百取《ももとり》の机代《つくゑしろ》の物を持たしめて、奉《たてまつ》り出《いだ》しき。故ここにその姉は甚凶醜《いとみにく》きによりて、見畏《みかしこ》みて返し送りて、ただその弟《おと》木花の佐久夜毘賣を留めて、一宿婚《ひとよまぐはひ》したまひき。ここに大山津|見《の》神、石長比賣を返したまひしによりて、大《いた》く恥ぢて、白し送りて言ひしく、「我が女|二《ふ》たり並《なら》べて立奉《たてまつ》りし由《ゆゑ》は、石長比賣を使はさば、天つ神の御子の命《いのち》は、雪|零《ふ》り風吹くとも、恒《つね》に石《いは》の如くに、常《とき》はに堅《かき》はに動かずまさむ。また木花の佐久夜毘賣を使はさば、木《こ》の花の榮ゆるが如《ごと》榮えまさむと誓《うけ》ひて貢進《たてまつ》りき。かくて石長比賣を返さしめて、ひとり木花の佐久夜毘賣を留めたまひき。故、天つ神の御子の御壽《みいのち》は、木の花のあまひのみまさむ」といひき。故、ここをもちて今に至るまで、天皇命等《すめらみことたち》の御命《みいのち》長くまさざるなり—— [#地付き]『古事記・上つ巻・邇邇藝能命』 [#改ページ] 第一章 「黄泉の国へ」  O  今から、三ヵ月ほど前の話である。  世田谷《せたがや》区|成城《せいじょう》にある西園寺《さいおんじ》家の邸宅で、蕭《しめ》やかに密葬がとりおこなわれていた。  もっとも、密葬、その言葉がふさわしいかどうかは何ともいえない。一般に想像されるような密葬ではないからだ。  お棺《かん》もなければ、死体もない。  死んだのは、ある意味、人ですらもないからだ。  参列者もごくわずかで、長老格の老人の男たちが数名であった。  いちように沈痛な面持《おもも》ちで、 「どうしたものかのう……」 「どういたしましょうか……」 「いっそのこと……」 「いや、それだけは……」  嘆息《ためいき》とともに、そんなつぶやき声が、何度なく男たちの口からもれているだけだった。  読経《どきょう》の声が止《や》んだ。  僧侶が立ち上がって、男たちに軽く会釈《えしゃく》をすると、この奥座敷から廊下へと出て行った。かれこれ一時間以上も読経を続けていたので、僧侶にも相応の休憩は必要だろう。  男たちが、話し始めた。 「けれど、希美佳《きみか》さんのお体が無事であったのが、せめてもの救いでありましょうかな」 「して、毒は出たんですか?」 「いえ、まだわからんのですよ。何かの毒を盛られたことはまず間違いないでしょうが、検査でわからないような毒も、けっこうあるようだから」 「しかし、どこで……」 「わかりませんね。あれだけ注意をしておったのですが」 「まさか、家の中に敵が?」 「んー、そんなことは考えたくはありませんよな。使用人は、もう以前からずーっと仕えてくれている人間ばかりなので」 「けど、外食などはなさってないんでしょう?」 「ええ、家からは一度も出てはおらんのです」 「敵がわからないというのも、始末に悪いですよね。どう手を打てばいいのか、それこそわからない」 「……然様《さよう》ですよねえ」  話の中心になって応答している男は、西園寺|公房《きみふさ》、西園寺家の最長老・西園寺|公貴《きみたか》の弟である。  その公貴は、腕組みをして、寡黙《かもく》にただ座っているだけだ。  公貴は、ほんの二ヵ月前に、つれあいの靖子《やすこ》を病気で亡くしたばかりなのだ。靖子は西園寺家のある種の守り神のような存在であった。少なくとも夫の公貴はそう思っていた。そして、この惨劇《さんげき》である。その落胆ぶりは、言葉では到底いいあらわせない。  毒を盛られたらしい希美佳は、公貴の孫娘である。  そしてこの密葬は、希美佳が産《う》むはずだった子供のそれである。  毒が原因で、流産をしてしまったのだ。  その子供は、西園寺家のみならず他家も待望していた男子であることは検査でわかっていた。  名前も、すでに決まっていたのだ。  ——天目《あまのめ》マユラ。  位牌《いはい》には、その名がそのとおり書かれている。 「みなのもの」  公貴が重たい口を開いていった。 「孫娘は、もうこれ以上、危険な目にあわすわけにいかぬ。桑名《くわな》さまが何とおっしゃろうと、協力はせぬつもりだ」  そう毅然《きぜん》といいながらも、アマノメの御神《おんかみ》さまとともに長々とあった当家の繁栄の道程《どうてい》も、我が代でついえるか、そんな弱気なことを考えていた。 [#改ページ]  1 「せんせーが、そのしゅのけんきゅーをごせんもんにされているとおーかがいしたものですから」  竜介《りゅうすけ》に電話がかかってきたのは昨日のことだ。  電話の相手は、オヌマ記念病院の精神・神経科の医師で、オヌマユキエだと名乗った。  ——女医さんである。  精神科の女医は、特別めずらしいわけではないが、電話口から聞こえてくるその声に、竜介は眉をひそめた。鼻をつまんだようなくぐもった声で、なおかつ掠《かす》れぎみだから、きわめて聞きとりにくい。よくいえばハスキーボイスだろうが、お世辞にも美声とはいいがたい声だ。年齢も——判断がつかない。  それに、オヌマ記念病院という名称にも、竜介はこころあたりがなかった。 「その種の研究——といいますと? ぼくの専攻は、認知神経心理学ですよ。いわば、コンピューターの配線や仕組みを解き明かしていく学問です。オヌマさんの方は、そのコンピューターが故障したさい、治療《なお》すのがお仕事ですよね」  とぼけをよそおって、竜介は応対した。  この場合でいうコンピューターとは、もちろん、人間の脳であるが。 「ええ、それはぞんじてます……けど、せんせーはとくに、ちょーはんはくとか、ちょーひかくとか」 「すいません。今なんておっしゃいました?」  竜介は聞き返した。 「超感覚とか、超知覚とか」  彼女は、意識してはっきりと発音していい、 「そーいったことを、ごけんきゅーされていると、おーかがいしたものですから」  ——確かに。  けど、それはどこの誰から聞いたのだろう?  そんな看板をあげているわけではない。それに、その種の研究は公《おおやけ》には認められていないのが日本の大学の現状だ。ここT大学も、右へ倣《なら》え。 「まあ、やってはいますけどね。——で、どういった話なんですか?」 「それがーおでんわではちょっと、ごせつめいできないよーなじょーきょーでして。そのーできましたら、とーいんまでおこしねがえないでしょうか」  切羽《せっぱ》つまっているふうではないが、困惑している様子が感じられた。 「そうですか。まあ、ぼくでお役にたてるなら」  竜介としては、今ひとつ気乗り薄だったが、明日の午後にうかがうことを約束した。  電話を切ってからインターネットで調べてみると、『メンタルクリニック尾沼記念病院』で該当があった。教えてくれた所在地(八王子《はちおうじ》市の郊外)からいっても、ここで間違いなさそうだ。  ——精神科、神経科、心療内科がある。  ——ベッド数は三十とあるから、そこそこに大きな病院のようだ。  ——開業は一九六四年。精神医療の向上を目的とし、当時、貿易商だった尾沼康太郎《おぬまこうたろう》が、私財を投じて建てたとある。  ——院長は、医学博士・山口郁雄《やまぐちいくお》。  そういった簡単な紹介文から察するに、電話をかけてきた尾沼ユキエは、病院の創始者の娘さんか何かで、志《こころざし》を継いで医者になったのかもしれない。  さらに、その病院名の右横に、赤文字で「A」と打たれてあった。  画面には、同種の病院が箇条書《かじょうが》きに羅列《られつ》されていて、それらにも「C」とか「D」とかが打たれてある。何かのランクづけのようだ。  画面を前にスクロールさせていくと、竜介が見ていたのは、「入院治療が可能な精神病院」の一覧表であった。  その設備面や患者へのケアなどを総括して、ABCDEの五段階で評価した、との注がある。  ざーっとスクロールさせて見てみた。  すると、ほとんどの病院が「C」か「D」の評価で、たまに「B」があり、「A」は……真剣に探したわけではないが、関東圏では、その尾沼記念病院ぐらいしか見あたらない。竜介もよく知っている某国立大学の附属病院などにいたっては、「E」との酷評《こくひょう》だった。  けど、それは誰の評価なのだろう?  その誰だかは、それぞれの病院に、入院患者をよそおって果敢《かかん》に潜入取材でもやったというのか?  各種病院の中でももっとも暗箱閉鎖《ブラックボックス》的である精神病院すらも、ミシュランの星のごとくに、私的ランクづけの餌食《えじき》とされる時代になったようだ。しかも、インターネットで、それを万人にさらされる。患者にとっては、それなりに役立つだろうけど、病院側としては、迷惑千万な話。  そんなことをつらつら考えながら一覧表をながめていると、そのメンタルクリニック尾沼記念病院とは、いったいどんな病院なのか? 竜介には、それとなくわかってきた——  東京都下という立地だから、通院には不向きだ。けど、たまに訪ねる見舞い客にしてみれば、格別に不便な場所ではない。車をとばせば、都心からなら一時間かそこらで行けるだろう。入院治療が可能な病院とのことだったが、ここはおもに入院患者を扱う、それが正解のようだ。そして、おそらく、宣伝広告のたぐいなどはいっさい出していないだろう。それでいて評価は、めったにない「A」なのだ。  ——大都市の郊外に、人知れずひっそりと、金持ちや著名人ご用達《ようたし》の私立の精神病院があると噂《うわさ》に聞いたことがある。たぶん、そのひとつなのだろう。      ※ 「お金持ちだから、精神病には罹《かか》らない、そんなわけないですよね」  電車の中で、中西《なかにし》が、ひそひそ声で聞いてきた。  これから行く尾沼記念病院はたぶんこんな病院だろうと、竜介が推理をひけらかしたからだ。 「もちろんさ。精神分裂病を発病する危険性は、万人にある」  竜介も、顔を寄せぎみにして、ひそひそ声でいう。  ふたりは座っているが、車内は比較的混んでいた。 「ですが、あれは遺伝じゃないんですか?」 「そのあたりは難しい問題でね、せっかくだから、専門の尾沼先生に聞いてみるといいよ」  向学のためにもと、竜介は、院生の中西を同行させることにしたのだ。 「もっとも、遺伝する精神病もあるよ。たとえば、ハンチントン病などがそうだね」 「あっ、あれですね、ハンチントン舞踏病《ぶとうびょう》」  中西は、舞踏病の部分だけを地声でいい、 「体中のあちこちの筋肉が始終勝手に動いちゃって、踊ってるように見える。痴呆《ちほう》症も併発するけど、その不自然な動きが、中世ヨーロッパでは魔女とみなされ、魔女狩りされちゃった人も多くいたとか」 「そうそう。——呪《のろ》われた家系」  竜介は、ことさら魔《ま》が魔《ま》がしく囁《ささや》いてから、 「何歳かになると必ず気が狂う、そんな定めをおっている悲劇の主人公。ひと昔前の小説でよく題材にされていたけど、あてはまるのは、そのハンチントン病ぐらいしかない。親のどちらかがこの病気だと、五十パーセントの確率で、子供もそうなる。つまり優性遺伝をする。けれど、精神分裂病の場合は、家族に病歴があるのはその三分の一で、三分の二には、いっさい病歴はないんだ」 「ということは、その三分の二の患者さんは、親や兄弟や、おじいさんやおばあさんも関係なかったのに、突然、ですか?」 「そう。もっとも、家族に病歴があると、発病危険率はハネあがるんだけどね。確か、一・五パーセントが、十パーセントぐらいにはなる。けど、これはメンデルの遺伝法則には合致しない」 「えっ? 一般人の発病率が、そもそも一・五パーセントもあるんですか。それだと、百人にひとりを超えちゃってますけど?」 「いや、これは発病危険率。実際の患者数はもっと少なくて、その半分ぐらいじゃなかったかな」 「半分……でもけっこうな数ですよ。日本の人口があれぐらいだから、掛けることの」  しばらく暗算してから、中西は驚いた顔で、 「うわー、ざっと百万人。それほど多いとは知らなかったですね。それに、その三分の二のケースでは、突然なんでしょう」  我が身のことを思ってか、心配顔に転じていう。 「中西、いくつになったの?」 「自分の歳《とし》ですか、まもなく二十五です」 「だったら、そろそろ圏外だな」 「圏外……といいますと?」 「精神分裂病は、八割がたが、高校生から二十五歳ぐらいまでの間に発病するんだ。だからさ」 「あー、なるほど」  中西は二、三度うなずいてから、 「じゃ、もう少しの辛抱《しんぼう》ですかね」  ——ニッ、と白い歯を見せていった。 「いや、辛抱や我慢や精進《しょうじん》は、このさい無関係だ。罹る人は罹る」  竜介は、冷淡そうに囁いてから、 「こころ安らかなる生活をいかに送っていようとも、罹る人は罹るんだ。発病危険率に差はない。ストレス原因説も根強いんだけど、最近の研究でほぼ否定されたからね。あるいは、悪い母親がいると子供が罹ると、かつてフロイト学派が声高に主張していたんだが、これもまったくの虚説《デマ》。悪い母親、もしくは悪い父親を原因としているのは、解離性《かいりせい》人格障害、いわゆる多重人格症さ」 「幼児期における虐待《ぎゃくたい》が原因ですよね。こんなことはもう大学一年生でも知ってそうですけど」  自嘲《じちょう》ぎみに、中西はいい、 「それに多重人格症は、神経症の一種ですもんね。脳神経系に、これといって、異常は見られないはずですから」 「うん、比喩《ひゆ》的にいうならば、こころの病《やまい》だよね。かたや、たとえばハンチントン病は、脳の線条体細胞が壊死《えし》し、神経伝達物質のひとつであるGABAの欠乏をまねく。パーキンソン病は、脳の黒質《こくしつ》細胞が壊死し、同様にドーパミンの欠乏をまねく。またアルツハイマー病も、前脳底部細胞が壊死し、アセチルコリンの欠乏をまねく。これらは、明らかに脳に器質《きしつ》異常が見られるから、つまり脳の病気なんだ。ならば、精・神・分・裂・病は——」  言葉をゆっくりと発して、竜介が問いかけると、 「うーん話の流れからいっても、脳のどこかに異常が見られるん、でしょうねえ」  中西は自信なげに、あやふやにいう。 「これは全部が全部というわけじゃないんだが、脳脊髄液《のうせきずいえき》で満たされている側脳室と第三脳室に、軽度の拡大が見られることが多い」 「あー、あのチョウチョが羽をひろげている空洞の部分ですね。脳の真ん中にある」  MRI(核磁気共鳴)画像などで見ると、確かにそのように見える。 「その他にも、海馬《かいば》や扁桃核《へんとうかく》などで、やはり軽度の萎縮《いしゅく》が見られることが多い。なので、精神分裂病は、こころの病ではない。ましてや、気が狂ったから脳が萎縮した、などといったことでは断じてない。これも純粋に、脳の病気なんだ」 「ふん、ふん」  中西はうなずいた。 「どう、誤解はとけた?」 「はい、とけました」  中西は、神妙な顔つきでいう。  一般人が陥《おちい》りやすい誤解をとくためにもと、竜介は説明をしていたのだ。  中西は院生といえども、そのてん一般人と大差はない。ふたりが専攻している認知神経心理学では、精神分裂病の患者は、まず扱わないからだ。それは脳コンピューターを解析する『標本』としては、適さないからである。  一方で、かかってきた尾沼ユキエの電話から察して、病院で問題となっているのは、たぶん、その精神分裂病の患者のひとりだろうと竜介は踏んでいた。とくに妄想《もうそう》型のそれである場合、語られる言葉の中に、超感覚や超知覚的なものが含まれるケースが、稀《まれ》にはあるからだ。もっとも、竜介は過度な期待はしていない。語られる多くの言葉の中に——妄想型の患者は雄弁だ——ひと言やふた言、テレパシーや透視(もしくは霊視)めいたものがあったとしても、分析のしようがないではないか。それに、ESPテストなどには、素直に応じてくれそうにもない。  竜介が、電話を受けたときから今ひとつ気乗り薄だったのは、そんなわけもあったのだ。 「それとさ、さっきパーキンソン病を例にひいたけど、これの治療薬は知ってるかな?」 「L—ドーパですよね、たしか」  それは中西も知っていたようで、自信ありげにいう。 「パーキンソン病は、体中の筋肉が動かしにくくなる病気で、しゃべりにくくもなりますし、それらはドーパミンの欠乏が原因です。だったら、そのドーパミンを薬として与えればいい。——そんなわけにはいきません。脳には関所《せきしょ》があって、なかなか通してはくれませんからね。ところが、そのL—ドーパだと、すんなり通してくれるんですよね。そして脳の中で、うまいぐあいにドーパミンに変化し、欠乏をおぎなってくれます。画期的な奇跡の薬として、デ・ニーロの映画にもなってたぐらいで」  竜介は、その映画のことはよくは知らないが、 「もっとも、これで完治できるわけじゃないよね。症状はかなり緩和できるけど。それに、L—ドーパの投与量が難しいらしくって、患者によって全然ちがうそうだ。じゃ、たとえば、そのLードーパを過剰に投与したとしたら、どうなるだろうか?」 「過剰に……ですか……」  そうなってくると臨床医《りんしょうい》の範疇《はんちゅう》なので、中西はお手上げといった顔をする。 「どうなるかというとね、精神分裂病に非常によく似た症状が、あらわれるそうだ」 「……あ! 映画のストーリーも、たしかそんな感じでしたね。薬で奇跡のように治ったデ・ニーロの言動が、どんどんエスカレートしていって、変になるといったような……けど、ということはですね、精神分裂病は、ドーパミンの過剰によってひきおこされるんですか?」 「うーんその問題はさておき。これを逆向きに考えてさ、そのドーパミンの働きを抑制できれば、精神分裂病の症状が緩和できるのではないか、そんな発想も、ありだよね」 「ええ、たしかにありですね」 「そして知ってのとおり、神経伝達物質は、受容体と対《つい》になっている。ドーパミンはドーパミン受容体とだ。だから、この間に割って入ればいい。精神分裂病の治療薬のことを、抗精神病薬というけど、その抗精神病薬の代表的ないくつかは、実際、ドーパミンがドーパミン受容体へ働くのを、遮蔽《しゃへい》する」 「なるほど……」  中西は大きくうなずいてから、 「そうしますと、精神分裂病とパーキンソン病は、対極にあるような病気なんですね。パーキンソン病では、神経シナプスでの信号が伝わりにくくなって、動きづらくなり、精神分裂病では、逆に伝わりすぎちゃって、頭の中がわーっと混乱する。こういったイメージで、正しいんでしょうか?」 「まあ、初歩の理解としてはね。それに抗精神病薬の中には、別の神経伝達物質——受容体を遮蔽して、それで効果があるものもある。だから、ドーパミンにかぎった話ではないんだ。精神分裂病は非常に複雑らしく、ひと筋縄ではいかないようだ。それに、抗精神病薬も日進月歩で、新しい薬がどんどん開発されている。そのどの薬がどういった患者さんに効《き》くのか、手探りの部分も多いようだけど、今のところ、この抗精神病薬以外には、精神分裂病の治療に有効なものは、ない——」  竜介は、きっぱりといってから、 「なぜこんな話をしているかというとね、その抗精神病薬を、ほとんど処方しないような病院も、ないことはないんだ」 「え? じゃどうやって治療するんですか? それが唯一の方法じゃないんですか?」  その中西の声が大きかったらしく、周囲の客たちから怪訝《けげん》そうな目で、にらまれた。 「……そういうところにかぎって、精神分析療法などをやっている。自身のこころの中をのぞかせるようなやつね」 「あ……いわゆるカウンセリングですねえ」  ふたりは、いっそうひそひそ声になって話す。 「これに関しては、きちんとした臨床データがとられていてね、抗精神病薬のみの場合、抗精神病薬に精神分析療法をプラスした場合、精神分析療法のみの場合、といったふうにね。その結果からいくと、精神分析療法には、治療効果はまったくないんだ」 「ないのに……なぜやるんですか?」 「これはもう一種の宗教さ。フロイト学派の、悪い母親のような虚説《デマ》を、いまだにひきずってる連中が一部いるのね。尾沼病院は、まさかそうではないと思うけど。そしてさらに悪いことに、精神分析療法をやるとマイナスの効果がある。つまり、症状を悪化させるといったデータすら出ているんだ。専門書に、こんなうまい比喩で説明されてあった。患者に、洞察志向型の精神分析療法をほどこすのは、すでに暴風によって破壊されている町に、さらに洪水《こうずい》をおこすようなものだと」 「その比喩は、雰囲気がよくわかりますよね」 「さあ、ぼくたちは、これから病院へ行くよね。そこで精神分裂病の患者さんと、直《じか》に会うかもしれない。そのときにさ、カウンセリングに類するようなことを、ポロッと口走っちゃ、だめだよ」 「ああぁ……わかりました」  中西が、小太りぎみの上半身をゆすってから、頭《こうべ》をたれた。  彼も心理学者のはしくれだから、そのカウンセリングに類することができるのだ。できるから始末に悪く、竜介に、先に釘を打たれたのである。 「それと、各種ある抗精神病薬の効果は絶大らしく、その薬さえきちんと飲んでいれば、ぼくたちとなんら変わるところはなく社会生活がいとなめる。そういった患者さんが、おおよそ五割ぐらいはいるそうだ。どう、誤解はとけた?」 「はい、とけました」  中西は、凜々《りり》しい学者の顔になって、うなずいた。  竜介が、さらなる注意事項をいくつか述べていると、車内案内が流れてきた。 「——お客さまにご連絡いたします。武蔵小金井《むさしこがねい》であった人身事故のせいで、ダイヤが乱れております。後続の列車を待つ関係で、次の停車駅で三分ほど停車いたします。お急ぎのところ、ご迷惑をおかけいたします」  新宿駅から乗った竜介らだったので、その案内は何度となく聞いていた。  昼すぎの、こんな時間だというのに、中央線快速の下り列車が立ち客もいるぐらいに混んでいるのは、そのせいだった。  ……が、その案内に呼応するかのように、 「またかよ。三万分の一が、おこったよ」 「いやいや、今年は四万人に近いだろうって、話もあるよ」  男ふたりの声が聞こえてきた。 「ちょっと前は新聞によく出てたけど、最近は全然見なくなったね。どうして?」 「もう慢性化しちゃってるから、珍しくもなんともないのさ」  どうやら、彼らは自殺者のことを話しているようだった。 「いったいどうなってんだ、この国は?」 「政府が無能だからさ。そのツケをしょいこまされた庶民は、職もなく金もなく、黙って死んでいくしかないのさ」 「どうして怒らないの? おれが不幸になったのはおまえらのせいだ、てどうして石を投げないの? 死ぬぐらいだったら、ぶち切れればいいのにさ」 「電車を止めるぐらいが、庶民の精一杯の抵抗よ。そうそう、C型肝炎ってのを知ってるか? やがてはガンになってしまうことが多い恐ろしい病気な。そのC型肝炎が原因で死ぬ人も、毎年、おなじく四万人ぐらいいるそうだ」 「あれは注射針で感染《うつ》されたんだろう。それも国が悪いんじゃないか!」 「いやいや、落ち度を認める気なんてさらさらないよ。それにいつもの手で、患者があらかた死ぬまでは、ほったらかしさ」 「いったいどこまで腐ってんだ、この国は——」  男たちの声が、次第次第に大きくなっていく。  その男ふたりは、電車の中ほどのドアに、背中をもたれかからせて立って話していた。 「この国の大臣がこんなこといってた。福祉をヨーロッパ並にするんだったら、消費税が五パーセントというのはおかしい。ヨーロッパの消費税は、だいたい二十パーセントぐらいが相場なのだから、だそうだよ」 「それ前提が狂ってないか? 今この国の福祉は、どこ並だっていうんだよ? 年金すらも満足に払えねえくせに」 「しょせんは増税するための口実さ。どっちにしろ消費税は上げる気だ。それもちまちまとじゃなく、どかーんと上げてくるよ」 「タバコも、発泡酒も、それに介護保険に雇用保険に、医療費だって値上げじゃないか。庶民の給料はどんどん目減りしてるっていうのに、いったいどうやって食っていけというんだ!?」 「我慢だ。我慢だそうだよ。今しばらくは痛みを我慢してくれと、この国の総理大臣もおっしゃってたじゃないか」 「もう十分我慢してるぞ。これ以上どうやって我慢しろというんだ!?」 「いやいや、今までの我慢なんて、ほんの序の口さ。痛みの本番はこれからなんだからさ。それに、改革なくして発展はない、そう総理もおっしゃってたじゃないか」 「——耳だこだ。馬鹿のひとつ覚えみたいにいいやがって。それに、その改革とやらは進んでんのか? 大風呂敷、広げるだけ広げやがって」 「ちゃくちゃくと進んでるよ。十年後、二十年後、いや、俺たちが死ぬころには、ひょっとしたら、改革がされているかもしれないな」 「それまでずーっと我慢なのか!?」 「そう、痛みもずーっと続いていくのさ」 「あのふたり、いったい何者ですかね?」  中西が、竜介の耳元で囁いた。 「それにさ、先んじて改革をした特殊法人があったろう? 労働者の雇用促進の名目で、あっちこっちにホテルや保養施設を建てまくってた」 「あれだな! 雇用促進事業団! 庶民がなけなしの給料から積み立ててる雇用保険を勝手に使って、何千億とドブに捨てやがったところ!」  男たちの会話は、なおも続いている。 「あの特殊法人は、その後どうなったと思う?」 「あれこそ、完全にぶっつぶしたろ!? テレビや新聞で、あれほど叩かれたんだから」 「甘い甘い。誰ひとりとしてクビにならず、誰ひとりとして責任をとらず、そのまま別の仕事にくら替えしてるよ」 「な! なんだと?」 「建てたホテルや保養施設がいっぱい残ってるだろう、それを処分しないといけない。だから売る仕事にくら替えしたってわけさ。それに、きれーな庁舎に入って、逆に焼け太ってさえいるようだ。改革なんて、しょせんそんなものよ。役人のクビが切られ、彼らも職をなくして路頭に迷ってるだろう、彼らも庶民と同じように痛みを感じているだろう、そんなことは庶民の幻想よ。改革の青写真をひくのは、その役人なんだから、みずからを斬《き》って血を流すはずがない」 「庶民は、なぜ怒らないんだ!? よその国だったら、とーの昔に暴動がおきてるぞ」 「それはさ、きっと、今の大学生がふぬけだからよ。女の尻を追っかけてるか、テレビゲームでもやってるか、自分たちが遊ぶことだけで精一杯さ」 「ふーん……いわれてみれば」  中西が、小声でつぶやいた。 「それに、役人の天下《あまくだ》りもいっこうに直らない。年収が二千万超、なんてのはざらで、何年か腰かけて数千万の退職金をもらい、それだけじゃ満足できず、さらに数ヵ所をわたり歩いていく。中には、天下りで、三億円かすめ盗《と》っていくやからもいるそうだ」 「さっ、三オク——!」  車内に轟《とどろ》きわたるような尖《とが》り声でいい、 「そういった役人が、いったい何人いるんだ?」 「年金を食いものにしている天下り官僚だけで、ざっと二千三百人いる。もっとも、これは厚生労働省と社会保険庁のOBだけなので、他の省庁も含めると、一万人はくだるまい」 「——待てよ。その一万人が、かりに一億ずつ盗っていったとしても、トータルで一兆円じゃないか! 日本の国家予算は八十兆だぞ。いったいどうなってんだ!」 「いやいや、それですめばまだ被害は少ない。ただくれてやるわけにはいかないから、天下りの名目上の受け皿として、特殊法人と、その子会社・孫会社がわんさか作られてるわけさ。そして何倍も、いや何十倍もの経費が浪費されていく。ちなみに、年金関連だけで、そういった天下り先が、一千以上もあるそうだ。だから省庁全体だと、これまた一万ヵ所をくだるまい」 「それらの経費も、すべて国庫からなんだろ?」 「もちろんさ。そして彼らが湯水のごとくに浪費してくれたおかげで、国と地方をあわせた長期債務残高は、つまり借金総額は、なんと七百兆円。これは国民ひとり頭——寝たきりの老人から赤ん坊まで含めて——六百万の借金をしている計算だ。これは単なる机上《きじょう》の計算じゃない。そのツケを、実際に国民が背負わされるわけよ」 「そんな借金、おれはした覚えはないぞ! それにどう頑張ったって、返せる金額じゃない!」 「だから、総理が口をすっぱくしておっしゃってるじゃないか。改革だ——て」 「耳だこだ! できもしない大風呂敷を広げやがって。それに改革といっても、しょせん上《うわ》っ面《つら》なんだろ。先にやった何とか事業団がいい例だ。それより役人の天下りを禁止する方が先決じゃないのか? 天下りは——死刑!」 「そうだ、そうだ」  乗客のひとりから、合いの手がとんだ。 「誰もがそう思う。けど、そんな簡単な法律ひとつ作れないのが、この国の政府ってわけさ」 「むっ、無能な! おつむがない方の無脳だな」 「まさに。全国世論調査で、政治家を信用すると答えた人が、二パーセントだったのもうなずける」 「たったの、二パーセントか!」 「ある程度は信用するを含めても、十五パーセントにすぎない。その世論調査では、占いを信じる人は二十パーセントだったから、庶民としては、まだしも占いの方が信じれるってわけよ」 「世も末だ!」 「けど、そんな無能な政治家どもの頂点に君臨されている総理の人気は、意外と高い。他人が何といおうが、あくまでも改革を声高に主張される。そんな姿に、国民は好感をもっているのだろうか?」 「おれは好感なんかもってねえぞ!」 「けれどもだ、今の総理には、ビジョンというものがまったく欠けている。だから具体的なこととなると手下どもに丸投げよ。言葉だけは達者だが、図画工作は零点《れいてん》、きっとそんな子供時代を送ったんだろう。彼にかぎらず、政治家なんておしなべてそうよ。見てごらんよ。この国の田舎《いなか》が、そのいい例さ」 「田舎が、どうかしたって?」 「田舎の景色の、なんと汚らしいことか! 山をけずり、川をこわし、海岸をつぶして、どうでもいい人工物をそこかしこに作っている。こころの故郷《ふるさと》だなんていえそうな田舎は、もうこの国にはない」  ……そのてんは、竜介もまったくの同感だ。田舎を旅してて目に入ってくるのは、アスファルトで固められた道路と、剥《む》き出しの電柱や電線、そして豪華で奇抜な建物が立ってるかと思いきや、それはパチンコ店だ。田舎の人たちの娯楽はそれぐらいしかないそうである。そんな日本にしたのは誰だ? ビジョンや美意識にまるで欠けている政治家どもだ! 「大臣が例にひいたヨーロッパでは、とくにイギリスやフランスなどでは、定年でリタイアした人たちは、田舎にある古い家を買って、のんびりと田舎暮らしをするのが夢だそうだ。実際にそうしている。その夢がかなう美しい田舎が残っているから、それができる。けど、この国の人たちときたら、老後はオーストラリアだニュージーランドだハワイだと、外国に逃げ出すことを真剣に考えてる」 「そんなの、金持ち連中だけじゃないか! 庶民は、日々の暮らしだってままならないぞ!」 「国民に、愛想尽かしをされている国なのさ。けど、逃げ出せない大半の庶民は、それこそ、お絵かきのヘタクソな総理に一縷《いちる》の望みをたくすしかない。哀れな話よ。それに、この国はもう、治安のいい国ですらない」 「あっ、そうだ! ATM荒らしに、白昼堂々の現金強奪、豪邸への押し込み強盗や、一家皆殺し、凶悪犯罪が目白押しじゃないか!」 「けど、それ、犯人が捕まったって話を聞くか?」 「いや、そういわれてみれば——」 「それもそのはずさ。この国の犯罪件数は年々増加する一方で、逆に、犯罪の検挙率は下り坂一直線、今では、わずかに二十パーセントだとよ」 「なんだと! 八割も捕まってないのか?」 「そうよ。それも凶悪事件や組織犯罪などには、からっきしダメなのが、この国の警察ときたもんだ。だから外国人の悪党どもからは、やりたい放題の犯罪天国だと思われてんのも、やむをえんよな」 「なっ、なんてこった!」 「もう四方八方悪いことだらけで、明るいきざしなどは微塵《みじん》もない。庶民には職もなく金もなく、職があっても給料は目減りで、そのくせに増税で、国家財政はすでに破綻《はたん》しているというのに、役人どもはいまだにのうのうとのさばり、その傍若無人《ぼうじゃくぶじん》ぶりに歯止めをかける術《すべ》すらもなく、国土はコンクリートで固められ、こころのよりどころとすべき美しい田舎は、もはやない。さらには老後の保証もなく、身の安全すらも危うい。こんな国で、誰が子供を育てようなんて思う? だから少子化も、絶対に改善されない。それでありながら、総理も、政治家どもも、この国を将来どんな国にすればいいのか、何ひとつとして真っ当なビジョンを提示できずにいる」  列車が、駅のプラットホームに滑り込んだ。 「あとは神だのみぐらいか?」 「いや、もうこの国には、神さまはおられないさ。それこそ、貧乏神と悪鬼《あっき》のかっこうの棲処《すみか》よ」 「この国は、いったい、どうなろうとしてんだ?」 「ほろびようとしているのさ」 「亡国か?」 「そう、亡国だ——」  そんな不吉で乱暴な、けど、反面真実かにも思える捨てゼリフを吐《は》くと、タイミングを見計らったかのように列車のドアが開き、男ふたりはくるりと身を反転させると、駅のホームに降り立っていった。  その彼らが、何かの大道芸《パフォーマンス》らしきものをやっていたことは、まわりの乗客たちはとっくに気づいていた。そろいの黒いスーツ姿で、黒い帽子をかぶり、黒いサングラスをかけていたからである。  竜介は、ジョン・ベルーシの『ブルース・ブラザース』を連想したが、中西が、 「まるで『メン・イン・ブラック』でしたね」  宇宙人の映画を引き合いに出していった。  中央線快速の列車は、十五分ほど遅れて、目的の高尾《たかお》駅に着いた。  改札の前に、紺色のジャンパーをはおった出迎えの男が待っていた。きょろきょろと人を探していたので、すぐにわかった。男は三十歳ぐらいで、病院の事務をしている者だと簡単に自己紹介をしながら、車へと案内してくれた。 「今日も、すごく冷えますよねえ」  その彼がいうとおりで、まだ十二月の初頭だというのに、外は異様な寒さであった。ここ何日間か、まともに陽《ひ》は照っていない。今日もうす汚れた綿雲で空一面がおおわれている。  車は、甲州街道《こうしゅうかいどう》をしばらく西に走ってから、脇道に逸《そ》れた。  建物がまばらになっていき、やがて、まわりが単一の木々だけの道になった。その木々は寒空の下でも緑々《あおあお》としている。悪名高き……杉の林である。杉花粉は、もっぱら東京都下のこのあたりから、西風にあおられて都心に飛んでくるわけだ。これも、荒廃《こうはい》している田舎のひとつの象徴だなと竜介は思う。  車が、細い簡易舗装の道に入った。他の車は走っていない。ごくゆるやかな上り坂で、杉の林を切り開いた山道といった感じだ。  門が見えてきた。よくある形の、アーチ状をした両開きの鉄製の門である。褐色の煉瓦塀《れんがべい》が連なっていて、まわりの人工的な自然とうまくマッチしていた。けど、その煉瓦塀は(門もそうだが)、人が簡単に乗り越えられそうなほどの高さしかない。  車が、門の前に鼻っ先をつけるようにして止まった。……付近には、病院の看板らしきものは出ていない。塀の向こう側も常緑の木々におおわれていて、建物は見えない。  鉄製の門が、後方にゆっくりと開いていった。どこかから監視カメラで見張っているようだ。  門を抜けて右に折れ、塀の内側にそって少し走ると、広い駐車場があった。そこで車から降りた。  十数台の車が余裕で停《と》まっていたが(ベンツなどの外車もちらほらとある)、大半が従業員の車なのだろう。駅からここまでは十分もかからなかったが、かといって、歩いて来れるような場所ではない。  駐車場の先に、交番のような四角い建物があった。いわゆる守衛小屋で、そこに通用門がある。  そのあたりまで来てようやく見えたのだが、通用門に連なって、柵状のフェンスがそびえ立っていた。高さは三メーター以上はある。そのフェンスの色が深緑なので、木々にカモフラージュされて目立たないのである。ここは精神病院だから高い囲いが必要なはずだが、その気配り具合は、さすがに「A」ランクだなと竜介は思った。  守衛が、窓ごしに三人を確認してから、通用門の施錠《せじょう》を解いてくれた。電磁ロックのようだ。  そして、その門をくぐると、先には驚くべき景観が広がっていた。 「ありゃあ……」  中西が、ほうけた声を出した。  竜介も、我が目を疑った。  ほぼ平坦で開けた土地に、あろうことか、西洋の古い城が立っていたからである。 「……あれが、病院の建物なんですか?」  その中西の問いかけに、先導している事務の男は笑顔でうなずいた。  石畳の歩道が、ゆったりとした弧を描いて、その古城につづいている。  地面は手入れがいき届いた芝生で、ほどよく配置されている常緑の木々も、マリモのような形や、パラソルのような形や、円柱の形などに、乱れ葉ひとつなく剪定《せんてい》がなされている。  天候のせいか、散歩をしている患者さんなどはいない。何かの小鳥が、ちらほら飛んでいる程度だ。 「もう絵葉書の世界ですね……いや絵本といった方が……どっちにしても、国籍がちがってますよね」  中西が、精一杯の感想をつぶやく。  その城は、灰色をした石造りで、ところどころ石が欠けていて、見れば見るほど、いかにも本物の西洋の古城っぽい。高さは……窓の様子からいくと三階建というべきか、だからそう高くはない。円《まる》い塔が片側にだけあるが、全体的には四角い建物だ。  城の正面には、いわゆる跳《は》ね橋がおりていた。もっとも、それは形だけで、濠《ほり》などは掘られていない。それに城の入口は、現代風のガラス扉である。  中に入ると、見上げるほどに天井が高く、大理石のフロントデスクが正面にあった。まるでホテルのロビーさながらだが、人気《ひとけ》はない。 「しばらく、こちらでお待ちになってください」  脇にある応接の椅子を男は指さしていうと、フロントデスクの横にあるドアから、中に消えた。そこに病院の事務をする一室があるのだろう。 「へえー……」  中西があらためて感嘆の声をもらし、竜介ともども、ゆったりとした応接の椅子に腰をおろした。  フロントデスクの奥の壁には、西洋の王家の紋章を模《かたど》った大きなタペストリーが、天井から吊り下げられている。 「ヨーロッパでは、古い城をホテルに使ってる例が実際にあるそうですけど、まさしくそれですよね」  竜介も……うなずいた。  とても病院だなどとは思えない。が、ここは私立の精神病院なので、こういった特殊な形もありなのかなと、竜介はぼんやりと思う。  応接のテーブルには灰皿が置かれてあり、館内は禁煙、喫煙はこちらで、そんな注意書の札が添えてあった。  竜介が、さっそく一本ふかしていると、その火を消そうとしたあたりで、左の廊下の奥から、白衣をまとった女性が小走りにやってくるのが見えた。  長い髪を後ろに束ねていて、やや小柄だが、すらりとした若い女性だ。それに遠目に見ても、中西と竜介が思わず見惚《みと》れてしまうほどの、美人である。  彼女は、白衣のポケットに両手をつっこんでいたが、その手を出して、やや緊張した面持ちで、そして、男ふたりが座っている応接椅子のそばまで歩み寄ってくると、 「わざわざごそくろーねがって、すいません」  頭を下げていった。  その特徴ある声には、竜介は聞き覚えがあった。 [#改ページ]  2  放課後、麻生《あそう》まな美《み》が、いつものように旧校舎の木の扉をきしませて部室に入っていくと、土門巌《どもんいわお》が古びた木の大円卓にひとり座っていた。  ——挨拶《あいさつ》がない。  ——顔すらも向けない。  彼は、長々とした上半身を猫背にまるめ、両手で頬杖をついて一心に何かを凝視《みつ》めている。いつになく真剣な様子だ。その目線の先には、黄ばんだ小さな紙切れが、大円卓の上に置かれてある。  ひとつとんで隣の椅子に腰をおろしてから、 「何やってるの? 土門くん?」  まな美は小声でたずねた。  遠目にチラッと見たところによると、その黄ばんだ紙切れには数字が印刷されてあって、新聞か何かからの切り抜きのようだった。 「ふうー……」  ことさら仰々《ぎょうぎょう》しくため息をついてから、土門くんは顔をあげ、 「実験や! 超光速粒子とメタ相対論にもとづく、画期的な実験をやっとったんや。この実験がうまくいったら、うちら大金持ちやぞう」  わけのわからないことを喜色満面でいう。 「何の実験? ここは歴史部よ」 「そんなん今さらいわれへんかってわかってます。うちら歴史部にとって、あったらええなーいう機械が、ひとつあるやんか。SFなんかでよう出てくる。たとえば、H・G・ウェルズ。映画でいくと、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』」 「タイムマシンのこと?」 「そやそや、それがあったら歴史の謎《なぞ》なんか一発で解けるやんか。邪馬台国《やまたいこく》はどこにあったんやろか? 卑弥呼《ひみこ》は誰やったんやろか? 義経《よしつね》はジンギンカンになりはったんやろか? などなど」 「どうかしら。限られた資料から推理していって、真実にどこまで迫れるか、そこが面白いところじゃない。タイムマシンなんかがあったら、歴史部は用なしよ。それでなくても……廃部寸前なんだから」  まな美は、しおれぎみにいう。 「むむむ、その話はさておき」  大きな手をひろげて土門くんはいってから、 「あんな、本屋さんをうろうろしてたら、『タイムマシンの話』いう本が売っとったんや。ブルーバックスの一冊やから、まともな理科系の本な。その本によるとやな……未来へ行く。これは理論上も、現実的にも可能やそうや」 「未来に行くの? 未来の歴史なんて、わたしは興味ないけど」 「まあそういわずに。未来へ行く場合はやな、たとえば、光の速度に近い宇宙船に乗ると、その宇宙船の中ではゆっくりと時間がすぎるから、地球に戻ってみると、何十年も、何百年もたっていた。つまり未来へ行ける、いうわけや。これはいわゆる相対性理論やろ、アインシュタインさんの」 「浦島《うらしま》効果とかいうものでしょう。けど、それだと未来に行ったきりで、現在に戻ってこられないじゃない。タイムマシンとしては片手落ちよ」 「確かに確かに。そやけど、ほかにも未来へ行く方法はあるでえ。人間の体を冷凍するいうんがそれや。これはアメリカかどこかで実際にやっとって、死んだ直後に液体|窒素《ちっそ》で凍らせてしまう。そして科学が進歩した未来に生き返らせてもらう、そのときには、不治の病も治せるようになってるやろし……いわば他力本願《たりきほんがん》的な方法やな。それに、この冷凍保存会社は、お金をたくさん払《はろ》うたら、体をまるごと冷凍してくれるんやけど、お金が足らへん人には、首から上だけしか冷凍してくれへんねんて」  土門くんは、みじめったらしくいってから、 「ぎゃああぁー」  悲鳴をつけ加えた。  まな美も顔をしかめ、 「そんな、首から上だけ生き返るなんて、わたしはこんりんざい、絶対にイヤよ。まるで将門《まさかど》の晒《さら》し首じゃない。それを未来の人から、じろじろ見られるのよ」 「そんなん自分かて願いさげです。それに、これも未来への片道切符で、戻ってはこられへん。そやからタイムマシンいうんは、過去へ行けてこそ、なんぼのもんや。そやったら、どうやったら過去へ行けるんやろか……」 「過去に行く方法があるというの?」 「そのへんが、本に出てるねん。そこで問題になってくるんは、超光速粒子の存在やそうや。これは光の速度を超える粒子……いう意味な」 「そんなのがあるの? 真空中を伝わる光のスピードが、一番早いんじゃなかったかしら?」 「うーんそのへんは、かのアインシュタインさんも、超光速粒子の存在を、頭ごなしに否定しとったわけでは決してあらへんかったそうなんやでえ」  土門くんは、まどろっこしくいってから、 「その超光速粒子のことを、タキオンと呼ぶ。姫かて、名前ぐらいは聞いたことあるやろう。そして、このタキオンが存在すると仮定すると、相対性理論をさらに進めた、メタ相対論ということになり、そして途中の式はややっこしいから省くけど、というより、自分には理解も説明もでけへんねんけど、そして結論。過去へ行けるタイムマシンが作れるかもしれへん、いう話になるねん」 「仮定につぐ仮定って感じね」  まな美は、素《そ》っ気《け》なくいう。 「いや、あながち全否定されるような話でもないんやで。そのタキオンを見つけようと、実際に実験をやってる大学もあるぐらいやねんから。もっとも、見つかったーいう話は聞こえてけーへんけど」  その否定的な部分だけ、土門くんは小声でいい、 「ともかく、このタキオンさえ存在すれば、過去への扉がひらかれる。ところが、ここでひとつ問題があるそうなんや。自分らの体は、そのタキオン粒子では、でけてへん。そやったら、体をタキオン化できるかというと、それもまず不可能やそうや。そやから、映画の『ターミネーター』みたいに、過去の世界に人間を送り込むんは、現実的には、むずかしい話になってくる」 「だったら、話はすべてご破算じゃない。つまり、人間は、そのタイムマシンには乗れないって話なんでしょう」 「いやいや、ところがところが、人間や生き物なんかはあかんねんけど、別のもんやったら乗せられる可能性がある。タキオンも、一種の電波みたいなもんやろ。そやったら、それに情報が、乗せられそうやんか。つまりタキオンを使えば、過去に情報が送れる、そういった理屈になるわけや」 「過去に、情報を……」  まな美はうさん臭そうにいい、 「そうすると、その情報を受信した人は、未来からの情報を受けとったことになるの?」 「そや。さすがは姫、ものわかりが早い」 「なんとなくわかってきたわよ。今そこでやっていた画期的な実験とは、何なのか——」  まな美は、彼の前にちょこんと置かれている、黄ばんだ紙切れに目線を向けていった。 「わかりやしたあ」  土門くんは嬉《うれ》しそうにいい、 「これは『ヴォイジャー』にあった話も参考にしたんや。『スター・トレック』のひとつのシリーズな。宇宙艦ヴォイジャーは、未知の生命体に、はるかかなたのデルタ宇宙域に飛ばされてしもて、地球へ帰還《きかん》する途中な。そこで、スリットストリームという新しいワープ航法の試運転をするんやけど、それに失敗して、氷の惑星に墜落してしまう。それを十何年後かの未来、生き残っていたクルーが助けようとするんや。そのヴォイジャーには、ボーグの集合体から切り離された、セブンオブナインという女性が乗ってて」 「土門くん、なんのことだか皆目わかんないわよ」  その早口の話をさえぎって、まな美が不満をいう。 「まあまあまあ、そのボーグいうのは、抵抗は無意味だ、いうて他の生命体をどんどん同化していく、半機械化人間の集合体な」  土門くんはゆっくりと説明をし、 「そやから、そのセブンオブナインにも、ボーグ特有の装置が脳にインプラントされたままになっている。それはボーグトランスミッターと呼ばれ、ボーグどうしで意思疎通《いしそつう》をはかるための通信機みたいなもんな。そのボーグトランスミッターを、氷づけになっていたセブンオブナインの死体から引っぺがして、リンク周波数を割り出し……ともかくもやな、その彼女が生きていたころの過去へと信号を送るわけや。特殊な、時空トランスミッターいうんを使《つこ》てな。その信号を受けとった彼女は、間一髪のところで危機を回避し、宇宙艦ヴォイジャーは墜落をまぬがれる、いう話なんや」 「うーん……けど」  まな美は、古びた木の大円卓の上を見渡しながら、 「その時空トランスミッターとかいうのも、通信機の一種なんでしょう。過去へと通信するための。そんなのどこにあるの? 見あたらないわよ」  色あせた地球儀が、大円卓の真ん中あたりに置かれているだけだった。  壁に目を転じると、ガラス戸がはまった作りつけの木の本棚が並び、かび臭そうな歴史書で埋まっている。SFのハイテク装置などとはおよそ縁がなさそうな部室である。 「それはあくまでもたとえ話やんか。まあ強《し》いていうなら、ここん中かなあ」  土門くんは、自分のこめかみのあたりを人差し指でつっつき、 「あんな、自分はこう考えたわけや。未来を予知できるという超能力者が、たまにテレビに出てきたりするやんか。そういう人もやな、ただ突然に未来が見えてくる、わけやのうて、その未来になったら、ある特定の事柄に関して、一心不乱に念じる、そういったことをやってるから、その念が過去へと伝わり、その結果、過去の自分としては未来が見える、そんな理屈やないやろかと思たわけなんや」 「け、ど」  まな美は、とうてい承服しかねるといった顔で、 「土門くんが念じたとするわよね、すると土門くんの脳から、そのタキオンなりが放出されて、過去へと伝わる。そこまでの話は百歩ゆずったとしても、そのタキオン情報は、どうして土門くんにだけ伝わるの? 土門くんの脳には特殊な受信機がついてるの? そのボーグトランスミッターみたいな」 「いや、それもたとえ話やんか。それに、せっかく自分が念じとうのに、自分以外の赤の他人に伝わっても意味あらへんでえ。それにやな、自分の脳から出たタキオン情報は、やはり自分の脳に伝わる、相性《あいしょう》からいっても、そんな感じせーへんかあ?」  土門くんは、情に訴えかけるようにいう。 「しないわよ」  まな美は冷たくいい放ってから、 「で、実験の結果、うまくいったの? 土門くんが念じていたそれ! 宝くじの番号でしょう」  ——黄ばんだ紙切れを指さした。 「そやねんそやねん。ロト|6《シックス》の当選番号が、朝刊にのっとったんや。数字を自由に選べる宝くじな。もちろん、そのくじを、自分は前もって買うとったわけやけどな」  いいながら、土門くんは、学生服のポケットからもぞもぞと抽選券をとり出して、それを黄ばんだ紙切れ(新聞の切り抜き)の横に並べて置いた。 「それが、これや。そして予定どおりにことが運んどったら、過去の自分が当たり番号を買い、つまり、数字が変化してるはずやねんけど」  ふたりは顔を寄せて、のぞき込んだ。  そして……しばし見比べてから、 「土門くん、数字ひとつも当たってないわよ。かすりさえしていないじゃなーい!」  まな美は怒っていった。 「そうせかさんと姫。まだ実験は始まったばっかしやんか。何回かやってるうちに、そのうちに」 「それはいつのことよ。真剣に聞いてあげたのに、損した気分だわ」 「そやったら、姫かて、内心期待しとったわけですか? こんな途方もない仮説につぐ仮説を」  土門くんは小馬鹿にしたようにいい、 「それに、もうひとつ別の考え方もあるわけなんや。それはどんなんかというと、そのタキオン情報を受けとった過去の自分は、そのとおりに当たり番号のくじを買う。そやけど、今ここにおる自分には、はずれ番号のくじを買《こ》うたという確固たる事実があって、それは変えられへん」 「うん? どういうこと?」 「たとえば、『ドラゴンボール』でいくとやな」 「今度は……漫画なの」 「これぐらいやったら姫かて知ってるやろう。姫にあわせてるんやで、水準を」  土門くんは、あてつけがましくいってから、 「未来からタイムマシンに乗ってトランクスがやってくる、そんな話があったやろう。そのトランクスがいた未来は、人造人間たちによる殺戮《さつりく》と破壊で、悲惨な状況になっていた。そこで、過去へと行って、心臓病の特効薬を手渡し、悟空《ごくう》を死なせないようにとしたわけなんや。そしてトランクスは役目を終え、未来へと戻っていく。ところが、その未来の世界には変化はなく、あいかわらず、人造人間たちは暴れまくってて、悟空も死んだままやねん。はて、どうなってるんやろか?」 「それは、つまり、過去は変えられなかったってこと?」 「いや、そのトランクスから渡された特効薬のおかげで、悟空は命びろいをする、それがドラゴンボールの本筋のストーリーやから、過去はあきらかに変わっとうねん。そやけど、トランクスがいた未来の世界には、変化はない。つまりどういうことかというと、トランクスは過去に介入したんやけど、それによって、ちがった歴史を歩む別の世界ができてしもたんや。つまり平行宇宙で、パラレルワールド化した、いうわけなんや」 「パラレルワールド……」  そんなの歴史部と何の関係があるのよ、といわんばかりの不機嫌このうえない声で、まな美はいう。 「ともかく、そのパラレルワールドな」  土門くんは少したじろぎながらも、 「『スター・トレック』にも、この考え方はよう使われとって、たとえば、シャトルで遠出をしていたクルーのひとりが船に戻ってくると、宇宙艦エンタープライズの様子が微妙にちがう。他のクルーと記憶がかみあわへんし、親友だったクルーが、かつての戦闘で死んでいたりもする。そうこうしていたら、パラレルワールドの境界が崩壊《ほうかい》して、何百隻ものエンタープライズが宇宙に出現するんや。そのそれぞれの船が、それぞれにちがった歴史を歩んだ結果の産物やねん。ある船では艦長がちがってるし、またある船は宿敵ボーグとの戦いに敗れてズタボロやし、うわー自分はどの船に戻ったら正解なんやろか? この話はどう収拾させたのか忘れてしもたけど、ともかくも、過去のちょっとした分岐点《ぶんきてん》がもとで、パラレルワールドがわんさかできてしまうといった話なんや。それから、テレビ版『スターゲイト』にも、そのパラレルワールドの間を行ったり来たりできるいう、そんな装置が出てきたりもしたな」  土門くんは、ひとしきり例をひいてから、 「それと、未来を予知できる超能力者がいたとして、その人が過去へと念を送る、そういったことをやったがゆえに、パラレルワールドができてしまう。そんな考え方もありやろう。けど、この考え方でいくとやな、パラレルワールドの自分は、当たりくじを買うて大金持ちになっとんやけど、ここにいる自分には、ええことはなーんもない。そう考えると、みじめな実験やなあ」  情けない声でいう。 「けど、ただひとつだけ確かなことがあるわ。どんなにたくさんのパラレルワールドがあっても、そこにたくさんの土門くんがいると思うけど、その土門くんたちは皆が皆、きっと同じようなことをやってると思うわよ。その宝くじの紙切れに向かって、念じて——」  まな美は、きつい捨てぜりふを吐く。 「くっっ」  土門くんは、天井を見やってしばし絶句してから、 「そんなこというけどな姫、自分かて、伊達《だて》や酔狂でこんなことやってるわけやないねんで。切実な問題いうんがあるんや」 「何よ、切実な問題って?」 「あんな、自分ときどき店番するやろう。お客さんぜんぜん来《き》やはらへんねん。そやから暇《ひま》にあかして、衛星放送の海外ドラマばっかし見てるわけやねんけどな」  なるほど、それで詳しいのねと、まな美は納得した。 「それに、たまーに来るお客さんも、印判《いんばん》ぐらいしか買うてくれはらへんねん。幕末から明治にかけての、一枚千円ぐらいの皿な。そうこうしていたら、店の奥に陳列されてあった皿が、そういうとこには高価な古伊万里《こいまり》が置かれてるんやけど、それが一枚、また一枚、消えていくねん」  ……番町皿屋敷のごとくにいう。 「うん? どういうこと?」 「おやじが、こそっと交換会に出しとおんや。これは業者間の転売な。そやけど交換会では、二束三文に叩かれるねん。仕入れを下まわるような値段な。けど、そうでもせーへんと、店がもたへんのや」  土門くんは、真実、あわれっぽくいい、 「そもそも、神戸《こうべ》の本店から暖簾《のれん》わけしてもろて、上野広小路《うえのひろこうじ》に店を出したんは、二年ほど前やろう」  つまりそのころに、彼も関東圏に引っ越してきたのだ。家は埼玉県の岩槻《いわつき》市にある。 「その時点でかなりの不景気やったから、もう今が底で、これからは上昇するしかないで、となかば気楽にかまえとったみたいなんやけど、あにはからんや、前にも増して、世の中はすさまじい不景気なんや。姫とこはご商売されてへんから実感はないやろ思うけど、自分は、肌身にしみてわかる」  土門くんは、胸に長い両腕をあてがっていい、 「そやからな、なけなしの小遣いで宝くじでも買うて、どかーと一発当てて、おやじをちょっとでも楽させたろか、思てやな」  土門くんは、さも孝行息子のようにいい、 「それにやな、うちらの歴史部かて、部費がのうてきゅうきゅうしてるやんか。宝くじが当たったら、もちろん、どかーんと寄付するでえ。そうなったら、調査費はばんばん使い放題、大ネタをかませられるから、今度の春の文化祭こそは、これがもう最後のチャンスやと思うけど、新入部員獲得の道もひらかれるいうもんやあ」  さらに、殊勝なことを宣《のたま》う。 「うん、期待してるわね」  まな美も、その話には真摯《しんし》に応対していった。 「おわっ、神さんのお告げがあったぞう」  土門くんが突然いい出した。 「テーブルがぶるぶる震えてるやんか」  まな美は、何のことかと一瞬考えたが、大円卓のはしっこに置いてあった自分の学生|鞄《かばん》のふたを開け、ストラップ代わりにしている七福神のお守りをひっぱって携帯電話をとり出した。——マナーモードにしてあったのである。  まな美は、その液晶画面を見るや、席から立って、そそくさと窓ぎわへと歩いていく。  木枠のガラス窓ごしには大運動場が、その向こうには、新校舎や体育館などの真新しい建物群が、小さく見える。ここ私立M高校は、埼玉県|浦和《うらわ》市の郊外にあり、学校専用の裏山を有しているほどの、広大な敷地に立っているのだ。  しばらく小声で話しこんでから戻ってくると、 「じゃ、土門くん、わたしは先に帰るわね。あとはよろしく」  マフラーを首に巻いてコートをはおり、まな美はさっさと身支度を整える。 「そっ、そんな冷たーい! 姫、最近いつもそうやないですか。なんかええ人でもでけたんですか。この自分という人間がありながら」  そんな冗談《じょうだん》は聞く耳もたん、とばかりに、まな美はよそよそしい態度で、土門くんひとりを残して、そそくさと部室の木の扉をくぐった。  廊下に出ると、そこは凍りつくような寒さだった。  部室にしている旧・歴史準備室は、まだ南向きの窓があるからそこそこに暖かいが、この旧校舎には、暖房は通っていないのだ。授業には使われていないからである。  まな美は、旧校舎から出ると、大運動場に沿ってぐるーと半周ほどもある、葉が落ちきった桜並木を小走りに進んでいく。途中、何人かの学友たちとすれちがったけど、挨拶もそぞろに。  そして宮殿ふうの豪華な正門から出ると、真っすぐ先にある坂道をくだれば駅の方向だが、まな美はそちらには行かずに、右に折れ、学校の塀に沿ってある車道へと歩を進めた。  そのあたりの道には、下校の女子高生をさらうべく、彼氏の車やバイクが何台か、必ずといっていいほど停まっている。それは学校側としては、見て見ぬふりである。生徒の自主性を重んじてか、放課後までは束縛《そくばく》しない、それが私立M高校の教育方針だからである。  まな美は、停車している車の中でも、ひときわ異彩を放っていたシルバーメタリックの四ドア・セダンの横へと歩み寄っていく。——大排気量のエンジンを積んだベンツであった。  すると運転席から、いかにも運転手然とした紺色の背広姿の男がおりたって、後ろのドアをうやうやしく開けてくれた。  まな美は軽く会釈をすると、後部座席にするりとすべりこんだ。 「待たれました? 急なおさそいだったから、あわてちゃってぇ」  媚《こ》びた声をつくって、まな美がいった。  ベンツは音もなく、しずしずと動き出した。 [#改ページ]  3 「おどろかれたでしょう。この建物は、ほんとうのお城なんですよ」  その若い女医さんが、石壁の廊下を先導していきながら説明をしてくれた。 「ところどころに甲冑《かっちゅう》や、剣が飾られていますけど、これらも、建物についてきたものなんです。実際に使われたかどうかは、わかりませんけど」  石壁のくぼみに銀ピカの甲冑が、そして手は届かない壁の上部に、長短さまざまな剣や、槍や、三日月形の刃がついた大きな斧《おの》や、刺《とげ》つきの鉄球を鎖でつないだような武器、などが点々とディスプレイされている。 「八年ほど前なんですが、わたしがまだ高校生だったころに、祖父に連れられてここにやってきて、気にいった、て聞かれたものですから……こんなお城、誰だって気にいりますよね。だから、気にいったわ、て気楽に答えていたら、祖父が買っちゃったんです。さいしょ別荘にでもするのかしら、と思っていたら、この病院に変えてしまったんですね」  ということは、彼女は、メンタルクリニック尾沼記念病院の創立者・尾沼康太郎の娘ではなく、孫娘なのだろう。どうりで、若いはずだった。  玄関先でもらった名刺によると、尾沼由希靉、となっていた。これで——ユキエと読むはずだ。由希はありふれているだろうが、靉は、竜介としては初めて見る漢字だった。けれど、雲に愛、見た目には美しい。人の名前を覚えるのはとんと苦手な竜介だけど、彼女のその名前だけは、即座に頭にきざみ込まれた。 「以前は、高尾山をはさんで反対側に、つまり南側の方に病院があったんです。けど設備が古くなっていたから、そろそろ建て替えを、てそんな話があったことはあったんです。でも、いきなりお城に引っ越しちゃうとはね」  ……それに、竜介が電話口で感じた声の聞きとりにくさも、表情ゆたかにしゃべる彼女の顔をながめながら聞いていると、嘘《うそ》のように解消されていた。 「ほんとうの、とかいわれましたけど、これはもちろん外国の城ですよね? 中世ヨーロッパの」  彼女が同年代とわかってか、それに美人でもあり、中西は頬をゆるませて嬉しそうにたずねる。 「ええ、旧東ヨーロッパにあった国から、運んだって聞いてます。祖父は、トランシルヴァニアだとかいってましたけど、それはちょっと眉唾《まゆつば》っぽいですよね」 「ドラキュラがいた国ですねえ」 「いずれにしても、十……何年か前に、ベルリンの壁が崩壊しましたでしょう。そのどさくさにまぎれて、日本人の誰かが買って、国外に運び出しちゃったようです。ここには観光の名所・高尾山がありますから、その近くにテーマパークを作ろうとしていたらしいんです」 「あっ、なるほど」  中西は大袈裟《おおげさ》にうなずき、 「そしてバブルがはじけて、計画が頓挫《とんざ》しちゃったわけですね。いやー、もてあましてたんだろうなあ。こんな森の中に、シンデレラ城がぽつんとあっても、使い道ありませんからね」  気の利《き》いたことをいおうと、精一杯の背伸びをしていう。  竜介はというと、別のことを思い出して、ひとりニヤついていた。それは悪友のひとりが語っていた持論で、女性の声に関係する話である。——取引先の電話嬢に素晴らしく声のきれいな女性がいた。どれほどの美人だろうかと期待して会いにいってみると、その彼女はまるまると太っていたというのである。そこで悪友はハタとひらめき、テレビに出てくるアイドルや美人女優などを、その顔はいっさい忘れて、声だけに着目して聞いてみたそうだ。すると、そのほとんどの女性たちが、彼いわく、ボロ雑巾をしぼったかのような悪声だったというのである。声もある種の楽器だ。それなりの共鳴体がないといい響きはしない。そのてん現代の美人は、痩せぎすが条件だから、いい声が出るはずもない。なのに、魅惑的ないい声だと男が感じているとしたなら、それは顔にだまされているというのだ。だからもちろん、電話のきれーな声にもだまされちゃいけないよ、が彼の持論だった。尾沼由希靉は、逆の意味であたっていたのだ。——美人悪声、そのとおりだなと竜介は思い出し笑いをしていたのである。  由希靉が、 「エレベータはもちろんあるんですけど、階段を行きますね」  石壁のくぼみへと誘導する。  すぐ奥に、扉のない小さな開口部があった。それはダマし絵のようなもので、手前の似た作りの部分には甲冑が飾られていたからだ。くぐると、ステンドグラスで採光された上りの石階段があった。 「ほう、いかにも、キリスト教って感じですよね」  中西が見上げながらいった。  十字架をかかげもっている聖人、矢を射ろうとしている天使、バベルの塔のような絵柄もあり、そういった色とりどりの縦長のステンドグラスが、階段の壁面の上部に、ところどころはまっている。 「この窓の向こうは、中庭なんですよ。ここからは見えませんけどね」  ロビーにあった館内の見取り図によると、建物はでこぼこはしているが、ほぼ口の字形であった。その中央部が中庭なのだ。かつては、そこには井戸なりがあって、戦いにそなえていたのだろう。夜にはかがり火が焚《た》かれ、あらくれ戦士らの宴《うたげ》が、そこでくりひろげられていたのだろう。 「けど、これはぜんぶ石造りですよね。東京は地震が多いんですけど、大丈夫なんですか?」  中西が無粋《ぶすい》なことをいう。 「ええ、それはね、祖父が買うときに確かめたらしくって。この建物の基礎にですね、ゴムか、バネのようなものが入ってるらしく、だから少々の地震があっても、このお城の中にいると、ほとんどわからないぐらいなんですよ」 「ありゃ、いわゆる耐震構造になってるんですね。見かけ以上にハイテクなんだなあ」  それは当然だろうと竜介は思う。テーマパークの核ともなるような建物が、そうおいそれと壊れてもらっては困るのだ。 「けど、足元は気をつけてくださいね。階段の石はすりへっちゃってますから」  由希靉は剽軽《ひょうきん》そうにいって、二階をすぎ、三階へと誘導していく。  そして廊下を少しいった先にあった、木に鉄枠がはまった重厚そのものの扉を、予想に反して、きしみ音などはさせずに、すーと開けた。 「——どうぞ」  と彼女に招き入れられたそこは、まるい形をしたそこそこの広さの部屋であった。 「外からごらんになったときに、塔が見えませんでしたか。その最上階なんですよ」  由希靉は少し嬉しそうにいった。  城の中では、たぶん、ここが最上等な部屋なのだろう。それを彼女の個室にしているようだった。 「おかけになってください。お荷物やコートも、そのへんに置いちゃってください」  部屋のほぼ中央に、艶《つや》やかな緑のビロード張りの応接セットが置かれてあった。——男ふたりは、その長椅子に腰をおろした。  中西が物珍しそうに室内を見渡してから、 「あれはターナーの、ほんものですかね」  小声で囁いた。  それは竜介にわかろうはずもないが、印象派の、田園風景らしき絵が壁にかかっている。  壁の半面ほどを埋めている木の本棚といい、その前にある彼女の執務机といい、そして応接セットもそうだが、無骨《ぶこつ》さはなく、かといって過度な装飾もなく、上質な英国ふうの書斎といった趣《おもむき》だ。  由希靉が、受け皿にのった白地のカップを運んできて、ふたりの前に置いた。 「あっ、すいません」  中西が中腰になって、お辞儀《じぎ》をする。  そのカップにはコーヒーが入っていたが、角張ったラッパのような形をし、いかにも上等そうなうすづくりの表面に、淡い色調で花の絵が描かれていた。しかも大小二枚の受け皿にのっている。 「これ聞いたことありますよ。どちらかの皿にお茶をちょっとずったらして、それを、すすり飲みしたそうです。そういった時代の名残《なごり》でしょうかね」  中西がそんな蘊蓄《うんちく》を語っていると、彼女は自身のカップをもち、そしてバインダーを小わきに抱えて戻ってきて、ひとりがけの椅子に座った。 「あれ、デザインは同じみたいですけど、花の色がそれぞれちがいますよね」  中西が、目ざとく見つけていった。  竜介の前のカップは青い花だが、中西のは黄色、そして彼女のそれはピンクの花であった。 「スイートピーでしょうかしらね。イギリスのどこかだかの、アンティークのようです。それぞれ別のお店で見つけたようです」  由希靉は、それほど興味はなさそうにいってから、 「じゃ、わざわざおこしいただいた、本題に入らせていただきますね」  あらたまった口調でいった。  竜介は、そのコーヒーのカップには手をつけずに、腕組みをして、少し猫背ぎみになって長椅子の背にもたれかかっている。それが真剣に話を聞くときの、いつもの姿勢だ。 「問題になっている患者さんのお名前は、K・Y。当院では、すべてイニシャルでお呼びするんですよ。プライバシーの問題がありますから」  中西が、万事承知しているかのように、うんうん、とうなずいた。  バインダーに束ねられているのは、おそらくカルテで、彼女は、そのあちこちを捲《めく》って確認しながら語っていく。 「年齢は、二十一歳です。こちらに入院されて、まだ三ヵ月ぐらいなんですが、それ以前に、最初は名古屋市内にある病院、つぎが軽井沢、そして那須《なす》、といったふうに三つの病院を、もちろん精神病院ですが、転院されています」  竜介が怪訝そうな顔をした。  それを察してか、由希靉はいう。 「ご存じだと思いますけど、この種の病気は、よくなって退院されても、しばらくして再発する。つまり入退院をくりかえすケースが多いですよね。ですが、K・Yさんの場合は、純粋に転院なんですよ」 「純粋に?」 「ええ、その理由までは、カルテなどには記されてませんけど、当院で問題になっているようなことが、以前の病院でもあったんじゃないかしら……それが原因で、転院を余儀《よぎ》なくされた。そんな気もします。結論めいたことを先にいいますと、とっても、こわい話なんですよ」 「こわい話ですか」  竜介は、独《ひと》り言のようにつぶやいてから、うなずいた。 「順を追ってご説明しますね。それと申し遅れましたけど、K・Yさんは、男性のかたです」  愛おしむかのように由希靉はいい、 「彼は、二年ほど前に、事故に遭われまして……左の頬骨の亀裂《きれつ》骨折、左足首の骨折、そして外傷性頸部症候群、いわゆるムチ打ちですね……ですから、かなりの重傷だったようです。今でも、左足は少しひきずりぎみで、不自由のようなんですが、この事故のときの怪我《けが》は、外見上は完治しています。それは、一般の病院で治療をうけられ、そうこうしていたら発病されて、名古屋の精神病院に移られたというわけですね」 「すると、その事故が、原因ということですか?」  竜介がたずねる。 「いえ、きっかけになったとは思われますが、直接の原因だとは、考えにくいですね。たしかに、外傷後精神病、というのはあります。脳が損傷をうけて、分裂病と類似の症状を呈する場合があるわけですね。けど、これはどちらかといいますと、先生の方がご専門ですよね」  竜介は、まあ、と曖昧《あいまい》にうなずいた。  ——脳の特定の部位が損傷をうけると、それに呼応して、特定の機能障害が生じる。それを解析していって初めて、脳コンピューターの仕組みが解き明かされるのだ。竜介が専攻している認知神経心理学の、それが通常の手法である。そのてん健常人の脳は、役には立たないのである。 「ですけれど、K・Yさんの場合は、事故直後の精密検査などでは、脳には、何らの異常も認められていないんです。カルテによりますと、昏睡《こんすい》もありませんでしたし、脳震盪《のうしんとう》による記憶の混濁《こんだく》なども、いっさいなかったようです。もっとも、頬骨を骨折していたぐらいですから、かなりのショックがあったことは、あったはずですよね……脳にも。そしてですね、名古屋の病院における最初の診断は、短期精神病性障害、となっています」 「それは、一過性の、ということですか?」 「ええ、そのとおりです。これは強いストレスなどが原因でひきおこされ、妄想や幻聴《げんちょう》がおこって、分裂病とそっくりの症状なんですが、この診断が正しければ、ふつうは一週間たらずで治ったはずです。投薬するしないにかかわらず、ですね。そして再発することも、まずありません」 「けど、彼の場合、治らなかったわけですね」 「そうなんですよ。一ヵ月たっても、二ヵ月たっても、症状に改善は見られなかったらしく。そして、名古屋の病院がくだしたつぎなる診断は、分裂病|様《よう》障害、となっています」  バインダーに目を落としながら由希靉はいった。 「分裂病よう……ですか?」  中西が、聞き返した。 「これはですね、分裂病に酷似《こくじ》しているけれど、分裂病だと確定させちゃうのは、いかがかしら。自信ありません。そういった場合に使う言葉なんですよ。境界型、というのも同じような意味合いですけど、医者が逃げて、断定をさけちゃってるんですね」 「な……なるほど」  中西はうなずいた。 「そして、転院先の軽井沢の病院、さらには那須の病院、こちらにおける診断は同一でして、パラノイア、そう記されています」 「パラノイア、それは聞いたことありますねえ」  中西が、自信ありげにいう。 「まったく荒唐無稽《こうとうむけい》なことをしゃべるんだけど、その話はその話なりに、理路整然としていて、辻褄《つじつま》がビシッとあっている。そういった場合が、パラノイアですよね」 「ええ、純粋・妄想病、とでもいいましょうか。分裂病の亜型のひとつにも、妄想型分裂病というのがあるんですが、それとはちがうようだ、といった意味合いですね。知的な減衰《げんすい》などは伴わない、それがパラノイアの条件なんですが、K・Yさんの場合は、確かにそのとおりではあるんですよ。——けど、このパラノイアという症例は、実際にはそう多くありませんし、医者によっては、分裂病の初期症状だと考えている人もいるぐらいですし。ですから、こういった診断をくだしちゃうのも、逃げといえば逃げなんですね。分裂病様障害や境界型なんかと、似たようなものです」 「あっ、これもですかあ」  中西が、ほうけた声で相槌《あいづち》をうつ。 「ですけど、現状においては、K・Yさんの病状をあらわすに、このパラノイア以外には、ふさわしい用語がないのも事実なんですけどね」  竜介が、 「ひとつ、質問があるんですが」  ふたりの会話に割って入ってたずねる。 「事故直後に、脳の精密検査をされたとの話でしたよね。が、その後の精神病院の方でも、もちろんやってますよね。そちらの結果は、どうだったんですか?」 「ええ、当院にもMRIがありますから、検査はしています。その結果からいきますと、分裂病にありがちな、脳室の拡張や、脳の萎縮などは、まったく見られませんでした。そのてんにおきましては、健常人と変わるところは、ないんですね」  由希靉は、含みのあるような言い方をする。 「MRI以外には、何か?」  竜介はたずねる。 「ええ、脳波の測定は、もちろんやっています。けど、ご存じのように、あのたくさんの電極を、頭に長時間つけているのは、患者さんにとっては苦痛ですよね。ですので、こちらに転院されてきたときに、三十分ほど、測定したぐらいなんですよ」 「何か、異常はありましたか?」 「いえ、分裂病を示唆《しさ》するような脳波の異常は、とくに見られませんでした。……ですが、脳波のひとつの種類に、シーター波というのがありますよね。そのシーター波が、どうしたわけか、頻繁《ひんぱん》にあらわれたんですよ」 「つまり、シーター波、優位ですね」  竜介は、確認の意味を込めていい、 「そのときは、彼は、開眼の状態でしたか? つまり目は開けておられましたか?」  少し早口になって、たずねる。 「うーん、どうでしたでしょうかねえ」  由希靉は小首をかしげて、思い出しながら、 「彼が、目が覚めていたことは、間違いありませんよ。ベッドに横になった状態で、脳波をとっていたわけじゃありませんから。椅子に座ってもらっていましたからね。それに、シーター波っていうのは、通常、うとうと、と眠りかけたときにあらわれる脳波ですよね。ですから、疑問に感じたことは、感じたんですけれどもね」 「そのときの映像とかは、残ってないんですか?」 「いえ、これは録画などはとっていません。といいますのも、脳波測定は、通常のルーティーンですから。胃が痛いといって内科にいくと、X線撮影をされるのと同じです。先生がおやりになっているような、実験ではないんですね」 「ごもっとも、ですね」  竜介ははにかみながら、うなずいた。 「けど、シーター波優位ってのは、興味ひかれますよね」  中西が、小声で竜介に囁いた。 「それと、PETも測定しているんですよ。それは、那須の病院に入院されていたときに、一度だけなんですけどもね」 「ほう、PETをやってるんですか」  竜介は、別の意味で驚いていった。  それは陽電子放射断層撮影法のことだが、放射性同位元素を扱うので、手軽にというわけにはいかず、できるところは限られているからだ。 「すると、そのPETの結果、脳の代謝《たいしゃ》異常なりが、何か見つかったんですか?」 「うーん、これも異常といえるかどうか、わたしでは、ちょっと判断がつかないんですけれども」  由希靉は自信なげに、歯切れが悪くいってから、 「たとえば、分裂病の場合ですと、前頭葉《ぜんとうよう》への血流量の低下、それが見られるのが、ふつうなんですね。つまり前頭葉の機能が、低下しているわけですよね。けど、K・Yさんの場合は、そういった代謝異常は観察されていません。ですから、そのてんにおいても、正常なんですね。ところが、後頭葉においては、とくに右脳の後頭葉におきましては、逆に、活性化が見られているんですよ。それも、人並みはずれて、といったレベルで」 「ふむ——」  竜介は、腕を組みなおしてから、 「確か、分裂病の診断基準のひとつは、幻聴ですよね。自身の声や、他人の声が、頭に聞こえてくるといったような。そういった訴えが患者さんからあれば、まず分裂病を疑ってみる。これは精神科医としては、一般的ですよね」  由希靉は、うなずいた。 「じゃ、その幻聴ですが、意味のある声が、それこそ理路整然とした長ったらしい話が、聞こえてくる。そんな症例は、数多くあるんでしょうか?」  由希靉は少し考えてから、 「いえ、そのほとんどが、短い言葉ですね。叱られる声とか、命令される声とか、患者さんにとっては不快なものが多いようです。それらが、たて続けに聞こえる場合もあるみたいですが、脈絡はなく、ふつう物語にはなりません」 「ですよね。じゃ、K・Yさんの場合、そういった幻聴はあるんですか?」 「いえ、幻聴だけじゃなく、幻覚全般につきまして、その種の問診《もんしん》には、彼はいっさい答えてくれないんですよ」 「じゃ、一番最初ですが、彼は、何がどうだったから、発病だとみなされたんですか?」  竜介は、矢継ぎ早に質問をする。 「それはですね……」  由希靉は少し戸惑《とまど》いぎみながらも、カルテを見るなりして、答える。 「……被害妄想ですね。誰かに始終見張られている。その誰かが、もしくは医者が、彼を殺そうとしている。あるいは、食事に毒が入っている。そう激しくいって、治療に抵抗したようです。実際、病院から逃げ出そうとしたこともあったらしく、まだ骨折は治っていなくて、とうてい動けないような状態だったのに。それで、発病とみなされたわけですね」 「その、被害妄想は、今も続いてるんですか?」 「……続いているといえば、続いてるでしょうかね。わたしたち病院の関係者には、協力的とはいえませんので。ですが、今は、被害妄想というよりかは、誇大妄想ですね」 「うーん、なるほど」  竜介は、しばし思案してから、 「もうひとつおたずねしますが、彼の、目に関して、何か、変わった所見なりが出てますでしょうか?」 「目ですかあ……」  由希靉はバインダーの束をくりながら、 「事故直後に、眼底検査などは当然やってるでしょうけれど……これといって、カルテには記されてないようですね。わたしの見たかぎりでも、そうまじまじと、彼の目をのぞき込んだわけじゃありませんが、とくに異常があるようには……」 「そうですか」  竜介は、少し肩を落とした。 「先生が、何をおっしゃりたいのかは、わかりますよ」  由希靉は子供っぽい表情になっていい、 「活性化が見られた右脳の後頭葉とは、つまり、視覚野ですものね。だから、幻聴とは関係がないはずで、考えられるとするなら、幻視《げんし》の方ですよね」 「ええ」  竜介も、和《にこ》やかにうなずいてから、 「誰だったか忘れましたが、えらい学者が、こんなことをいってます。——宗教の幻覚はふつう視覚的であるが、分裂病ではおもに聴覚にもとづいている。つまり、幻視と幻聴を、どう区別するかといった話ですよね。それと、幻視のみの場合は、精神|疾患《しっかん》を疑うべきではない、そんなこともいってましたね。さらに余談ですが、古来から、多くの預言者が世にあらわれていますよね。旧約聖書の三大預言書のひとつ『エゼキエル書』を書いた、エゼキエルしかり。メッカ近郊の山の中で、アッラーの神の啓示《けいじ》をうけた、マホメットしかり。彼らは分裂病であった、なんて乱暴なことをいう学者もいます。が、これは理屈にあいませんよね。そういった長ったらしい神のお言葉が、分裂病による幻聴で、聞こえてくるはずはないんですから。宗教の摂理《せつり》は、よそさまから見ると、荒唐無稽ですが、それなりに辻褄はあっていて、理路整然ともしています。そういった神の摂理を説いた彼らこそ、まさしく、パラノイアじゃありませんか——」  へ理屈めいたことを、竜介は得意げにいい、 「ところで、そのK・Yさんの妄想ですが、多分に、宗教がかっているのではないでしょうか?」 「ええ、まさに、先生のご推察どおりです。彼の妄想の核となっているのは、自分は神である、それが大前提ですから」 「か……神さまですかあ」  中西が、ふたりの顔を交互に見て、驚きあきれたようにいう。 「いや、妄想の五割は、宗教がからんでいるといったデータもあるぐらいなんで、だから大それた推理じゃあない。が、そのぼくの推理よりも、ワンランク上だったようですね」  竜介も、少しお道化《どけ》ぎみにいう。 「そうしますと、先生のお話によりますと、K・Yさんのパラノイアは、幻視が原因、といったことですか?」  由希靉は、凜々しい顔になっていった。 「そう断定はできませんが、可能性はあるでしょうね。たとえば、さきほどのマホメットですが、その最初の神の啓示は、天使ガブリエルが忽然《こつぜん》とあらわれた。これなんですよ。つまり、彼には見えたわけですね。そしてつぎなる啓示は、そのガブリエルが、彼の顔に『書物』を押しつけ、誦《よ》め、というわけですよ。この誦めというのは、人々に宣教《せんきょう》しろという意味ですけどもね。じゃ、その『書物』の中身はといいますと、もちろん、神のお言葉が記されてあったはずで、けれど、その中身の本文は、彼が知恵をしぼって、考えたんでしょうけどもね。見えた幻視なりを参考にしながら。——カミのおコトバ」  竜介は強調していってから、 「それをとりつぐ人は日本にもいて、たとえば、古来の巫女《みこ》がそうですよね。けど、神のお言葉、あるいは、ご託宣《たくせん》、そう表現しちゃうから誤解のもとで、神の言葉が、直に聞こえてくるわけではなく、逆に、むしろほとんどの場合が、映像がもとになっているのではと、ぼくは考えています」 「映像……」  由希靉は、思案げに何度かうなずいてから、 「そういわれてみると、思いあたるふしはあるんですよ。K・Yさんがこちらに転院してきて、二週間ほどのことですが……ふだんの彼って、すごく無口なんですね、だからといって、分裂病でいうところの、陰性・陽性の、陰性といったわけでもないんですが……そんな彼が、部屋にいたナースに、突然、話し始めましてね。あなたの家には猫が飼われているだろう。その猫は、これこれこういった姿で、とことこまかく描写をされ、そして、その猫を黄泉《よみ》の国におくったのは、ほかならぬ、自分である。そんなことをいったんですよ」 「黄泉の国……」  中西が、いぶかしげにいう。 「その猫の描写が、ぴったしあたっていたらしく、だから、まさに映像的ではありますよね。そして驚いた彼女が、わたしに話してくれたんですけどもね。それによると、彼女の家では何匹か猫を飼っていて、そのうちの一匹が、一週間ほど前に、車にはねられて死んじゃったというんですよ。だから、話自体も、そのとおりだったわけですね」 「けど、彼が猫を殺したわけじゃないですよね」  中西はいう。 「もちろんですよ。この病院からは一歩も外に出ていませんから」  由希靉は、少し口をとがらせていい、 「すべてにおいて、彼はそういった表現をするんですね。さも、みずからが手をくだしたかのように。で、この猫の件が、最初なんですけどもね」 「ということは、その後にも、類似の話が?」  竜介は先をうながしていう。 「ええ、でもこれはしょせん、猫ですからね。猫だからいいってわけじゃないですけれど、その後の話は、すべて人に関してなんですよ」 「人……ですか」  中西は、鳥肌でもたってきたのか、上着の袖のあたりをさすっている。  由希靉は、バインダーの一番上の紙を見ながら、 「彼が、いつもいう決まり文句のようなものがありまして、——われは、人の生死|与奪《よだつ》をつかさどる神なり、そういったことをいいます。むずかしい表現を好んで使われますね。そして、十月十一日のことですが、お昼すぎにテレビ番組を見ていて……個室にはテレビがあるんですね、そしてドラマの再放送をやっていたらしく、すると彼が、ひとりの女優さんを指さして、彼女、彼女を黄泉の国におくろう。そんなことを突然いったらしいんですよ。このときは、ナースが新しいシーツなどを届けにいってたんですね。様子うかがいもかねて」 「あっ、それひょっとして、小田切《おだぎり》……なんとかという女優さんですか?」  中西が、急《せ》いていう。 「ええ、小田切|美子《よしこ》さんでしたでしょうかね。すると、三日ほど後に、わーっと騒ぎになって」 「けど、あれは自殺でしたよね、たしか?」 「テレビなどでは、そういってましたですよね」 「そうすると、その彼がいってから……死んだわけですかあ」  中西が、おそるおそるしゃべっていると、 「ちょっと質問」  竜介がいう。 「その話を聞いたナースと、猫のナースとは、おなじ人なんですか?」 「いえ、ちがっています。当院では、決まった看護婦・看護士が三人で、二十四時間看護ですからローテーションで、ひとりの患者さんを……正しくは、ふたりの患者さんを看《み》てるんですが、猫のナースはこわがっちゃいまして、担当を代えたんですよ」 「なるほど」  竜介は、納得したようにうなずいた。 「つぎは、これは日にちがはっきりとはしないんですが、十月の末のことですね。そしてこれも、夜にテレビを見ておられて、そのときは看護士が同室していたんですが、テレビに映っていた僧侶を指さしまして……けど、このときは、かなり乱暴な口調でいったらしく、このイカサマ坊主、きさまを黄泉の国におくってやるわい、といったふうに」 「それって、あの得川宗純《とくがわそうじゅん》のことですか? 僧侶でありながら希代《きたい》の霊能力者だとかいってた」 「ええ、テレビによく出ておられましたよね」  竜介も、その件は知っている。  得川宗純が殺されたのは、確か、文化の日(十一月三日)の前後ぐらいだったろうか。 「ワイドショーが騒いでましたよね。除霊《じょれい》とかやってたらしいから、悪霊《あくりょう》の祟《たた》りか……とかいって」  中西は、自身の鳥肌をまぎらわすためか、ことさらにはしゃいでいう。 「そしてつぎは……」  由希靉は、なおもバインダーを見ながら続ける。 「これは、日にちは確かでして、十一月十四日のことですね。お昼前に、院長先生が回診をしていまして、医者がもうひとりと、そしてナースもつきそっていたので、三人が聞いているんですが……その日は、彼はいつになく陽気だったようで、雑談に応じて、子供のころの話をしていたらしいです。それがおもちゃの話に変わって、そうこうしていたら、突然、おもちゃメーカーの社長を……と例によっていい出したんですね」 「あっ、それもなんか事件ありましたねえ」  中西が、ふるえぎみの声でいう。 「ええ、彼がその話をした翌日、テレビや新聞で報道されました。大手の玩具メーカーの社長さんが、自宅で殺害されたと……もっとも、その会社名や、社長さんの名前を、彼が口に出していったわけでは、ないんですけどもね」  竜介も、その事件はなんとなく記憶にある。  が、似たような凶悪事件が多発している昨今《さっこん》なので、とくに覚えているというわけではないが。 「人に関しましては、以上なんですが、ほかにも、不可思議な話がいくつかありまして……」 「いや」  由希靉の話をさえぎって、竜介はいう。 「再々、似たようなことをおたずねしますが、彼がそういったことを語っている様子は、記録されているんでしょうか? つまり録画とか、録音とか」  由希靉は、ニコッと笑ってから立ち上がると、執務机の方に歩いて、その端っこに置かれているコンピューターを(部屋にあわせてか、ヒューレットパッカードのシックな色合いのそれを)操作し始めた。そして液晶のディスプレイを、竜介たちに見えるようにと角度を調節してから、 「今、映ってますでしょう。これは患者さんがおられない、空《から》の個室なんですけどもね。こうやって、モニターできるんですよ」  ——大きめのベッドを中心にして、明るく居心地のよさそうな室内が、カラーで映し出されている。 「この映像は、自動的に録画されていまして、何時間分かは保存されているんですね。ですから、院長が回診したときの件だけは、気づいて、残してあるんですよ。ところが、これはありきたりの監視カメラですので、音は聞こえないんですね」 「あっ」  竜介が、頭をかかえた。 「ですから、こういったことが度々《たびたび》ありますので、彼の部屋だけ、音声も記録できるようにしようと、そんな話も出たんですが、それは簡単にできますからね……けど、異様に勘の鋭いかたですから、それに以前のように、監視されてる、盗聴されてる、と被害妄想がぶり返してもらっては困りますし」  彼女や医者たちが二の足をふむ気持ちも、わからないわけではないが、 「うーんできましたら、マイクをつけていただけないでしょうかね」  竜介としての、希望をいった。  由希靉が応接の椅子に戻ってきてから、 「その……神さまですが、彼は、その神の名前を、具体的にいってましたでしょうか?」  竜介はたずねる。 「ええ、らしきものは語られます。といいますのも、聞いている側の人間が、その種のことにうといですから、あやふやなんですね。わたしが聞いたとしても、おなじく駄目だったと思いますけど」  由希靉は自嘲ぎみにいい、 「それに、神の名前はひとつと決まっているわけではなく、そのときどきで、ちがうことをおっしゃるようなんですね。……たとえば、われは、タイサンクンである。あるいは、トウガクである。……マタラソン? そんな神の名前らしきものを聞いたナースもいます」 「ちょっと、紙かしていただけますか」  由希靉が、見ていたバインダーの束から一枚をはずし、裏返しにして差し出して、 「すいませんが、それに……」  竜介は、上着の内ポケットから愛用のモンブランの万年筆をとり出すと、さらさらと綴《つづ》りながら、 「えーこれで、泰山府君、タイザンフクン、タイサンブクン、濁ったり濁らなかったりしますが、それほどっちでもいいです。トウガクはそのとおりで、東岳大帝《とうがくたいてい》、が一般的ですね。そしてマタラソンは、たぶん、摩多羅神《またらじん》、だと思います」  由希靉はキョトンとした表情で、綴られた文字にしばらく見入ってから、 「先生は、こういったことにもお詳しいんですね。けど、わざわざ漢字まで書いて教えていただいたのに……なじみのない神さまたちですよね。わたしにとりましては」 「いや、そうでもないんですよ」  竜介は笑顔でいい、 「たとえば、いわゆる四十九日、ていうのがありますよね。七日ごとに七回、冥府《めいふ》の裁きの王があらわれるんですが、その最後の裁きの王は、つまり四十九日目は、この泰山府君なんですから」 「えー、閻魔大王《えんまだいおう》じゃないんですか?」  中西がおずおずとたずねる。 「それは、五番目なのね。だから七五・三十五で、三十五日目で喪《も》があける、とする宗派もある。仏教は中国経由で入ってるから、中国の神さまが混ざっちゃってるんですよ。泰山府君は、中国の道教《どうきょう》の神なんですね。日本でも、平安時代には、泰山府君祭を頻繁にやっていましたから、それなりに知られた神ではあるんですよ。そして、泰山、これは見るからに山の名前ですよね。中国には五つの聖なる山、五岳《ごがく》があって、東・西・南・北・中央、とあるんですが、その東の岳のことを、泰山と呼ぶんです。ですから、その山神である、泰山府君と東岳大帝、これはまったく同一の神です。それを日本ふうに焼き直したのが、摩多羅神、てところですかね。だから三つとも、おなじ神さまと考えていいでしょうね」 「へー、おなじ神さまなんですか」  由希靉は、ひとしきり感心してから、 「けど、裁きの王があらわれるのは、人が死んでからの話ですよね。地獄に行くのか、天国に行くのかを、裁かれるわけですから?」 「いや、それは仏教の考え方で、地獄・天国だけじゃなく、餓鬼《がき》・畜生《ちくしょう》・修羅《しゅら》・人間もふくめて、つまり、六道《ろくどう》のどこへ輪廻《りんね》するか、それを裁かれるわけですね。……けど、こんな話もあるでしょう。とある洞窟《どうくつ》にロウソクがたくさん立っていて、長いのや短いのがあって、その一本の炎を、ふっと吹き消すと、ひとりの人間がぱたりと死んでしまう。あるいは、人の寿命が記されている帳簿があって、それをひそかに書き換えて、死からまぬがれるといったような……こういった物語の舞台は、泰山なんですよ。そのロウソクや帳簿を管理しているのが、泰山府君です。それが中国の考え方なんですね」 「じゃ、まさに——」 「ええ、人の生死与奪をつかさどる神、まさにそのとおりです」  由希靉は、納得したようにうなずいた。  中西が、おそるおそるの声で、 「ですが、自分はそういった神であるといい、そして、ロウソクを吹き消してやる、といえば、実際にそうなるわけですねえ」  問題点を要約していう。 「それはきちんと調べないと、今は、何ともいえないな」  竜介は仏頂面《ぶっちょうづら》でいった。  由希靉が、小さくうなずいてから立ち上がると、再びコンピューターの方に歩いていって、ディスプレイの映像にしばし見入ってから、 「大丈夫ですね。K・Yさんは、今起きておられるようですから。じゃ、会いにいってみましょうか」  うながされて、ふたりも長椅子から立ち上がった。  竜介としては、待ちに待った、ご対面である。 「暴力的な側面などは、いっさいないかたですから、そのてんはご安心ください。けど、いいましたように、ふだんは無口なかたなので、何かしゃべっていただけると、いいんですけどもね」  中西が、いや、と小声で否定していった。  おまえのロウソクを消してやる! などといわれてはかなわない、そんな思いが口をついて出たようだった。 「彼の個室は、二階になりますので」  由希靉に先導されて、廊下へと出た。  廊下の角で、白衣をまとった中年の女性とすれちがった。由希靉が道を譲るようにして壁に寄りながら会釈をしたので、竜介たちもそれに倣った。  そして階段に入ってから、由希靉はいう。 「さっきの人が、お城の女主人ってところですね」 「うん?」 「院長先生の奥さまなんですよ。わたしの叔母でもあるんですけれど」  由希靉は、何かいいたげであったが、口をつぐんだ。  二階の廊下は、雰囲気ががらりと変わって、南国の花の絵などが壁に飾られ、床には絨毯《じゅうたん》が敷かれ、まさに高級ホテルの中を歩いているようだった。  左右に、たがい違いに、木目調のドアが並んでいる廊下に出た。——窓などはついていない。  その中ほどの、207、と表示のあるドアの前に立つと、由希靉がインターホンのベルを押してから、天井に顔を向けて、笑顔で手を振った。  見ると、天井には、丸いものが点々とついている。  ——カチャ。  施錠が解ける音がした。  その丸いものは、おそらく監視カメラで、どこかで集中的に管理しているようだった。  ドアを入ると、そこは控室《ひかえしつ》のような小部屋で、カウンターがあって、丸椅子が何脚か置かれている。  由希靉は、正面をおおっている白いブラインドに手をかけ(その向こうはガラス面らしく)、隙間《すきま》を作って中の様子をうかがってから、横にある内扉の前に立つと、さっきと同様にベルを押した。  施錠は解けたらしく、コンコン、と由希靉がノックをしてから、その内扉を開け、 「おかげんは、いかがですかあ」  ことさら朗《ほが》らかに声をとばしながら、中へと進み入った。そこは白を基調にしたゆったりとした個室である。 「今日はですね、わたしのお友達を連れてきたんですよ。ご一緒しても、いいですよね」  返事はないが、竜介たちも部屋に入った。  その彼は、空色のガウンをはおって、奥にある背もたれ椅子に、こちらに背中を向けて座っている。  由希靉は近くまでいくと、ベッドのふちに腰をおろしながら、 「外はとっても寒いみたいですよ。なんでも、雪が降るかもしれないって」  親しげに、話しかける。  彼は華奢《きゃしゃ》な体形なのか、ガウンがだぶつきぎみだ。それに聞いた年齢(二十一歳)よりも、どこか幼く、竜介には感じられた。  そうこうしていたら突然、彼が振り向きざまに、 「おまえ! ポケットの中——!」  予想だにしなかった、きつい口調でいう。  中西が驚愕《きょうがく》した顔で、あわてふためいた様子で、手を上着のポケットから出した。  竜介はというと、その彼の顔を見たとたん、いわゆる既視感《デジャブ》におそわれた。それも目眩《めまい》がするほどに激しい既視感だ。  ——彼とは以前、どこかで会った。そして身の毛もよだつほどの恐怖を覚えた。  そんなありもしないはずの思いが頭の中をかけめぐって、竜介は、立ちすくんでしまっていた。 [#改ページ]  4  夜の九時を廻っていた。  自宅マンションのドアの前まで来たまな美は、立ち止まって、制服の片袖に鼻を近づけて、くんくんと臭いをかいだ。  ちょっと……タバコ臭い。それはまあ、パパも吸うし、ママもたまには吸っているようだから、そう心配する必要はない。むしろ、お酒の臭いの方が気になった。自身は一滴も飲まなかったのだが、水割りのグラスがこけて、またたく間にテーブルにひろがって袖についてしまったのだ。新しいおしぼりをもらって拭《ぬぐ》ったのだけれど、ちょっと……臭う。  まな美は、長いマフラーを首からはずすと、片腕にぐるぐる巻きにして、それでつっきることに決めた。これは今どきの女子高生としては、そう不自然な装いではない。  呼び鈴は押さずに、鍵でドアを開けて、まな美は玄関に入った。そして靴を脱いで、自分専用のボアのスリッパにはきかえてから、 「ただいま——」  素っ気なくいい、いそいそと廊下を進んだ。 「まな美、遅かったのね」  居間《リビング》のドアごしにママの声がする。 「晩ご飯はとってあるわよ」  電話で、遅くなることは伝えたのだけれど、そのへんは曖昧にいったからだ。豪勢な食事を奢《おご》ってもらったので、お腹《なか》はすいていなかったが、 「夜食に食べるわ」  悪いと思ったのでいった。 「それと、大事な話があるんだけど」 「じゃ、後で——」  まな美は足を止めることなく、とおりいっぺんの応対をしながら、廊下の一番奥のある自分の部屋へとすべり込んだ。  セーフ……て感じだが、今時分は、ママは居間にある家具調コタツにくるまってテレビでも見ているのが常だし、それに、わざわざ廊下に出てきて、娘の帰宅を迎えてくれるはずもないので、なかば予想どおりであった。マフラーのぐるぐる巻きは、万が一を想定しての策だったのだ。  それにパパは……研究だか何だか知らないけど、こんな時間帯に家にいたためしはない。  まな美は、制服の上着をビニール袋に封じてからクローゼットに押し込み、寝間着《ねまき》兼用のジャージに着替えて、それでは寒そうだから上にフリースをはおって、ママが待つ居間へと向かった。  すると案の定、コタツと合体している、かのようにママは寝そべってテレビに見入っている。  娘は母親に似るというけれど、自分も将来はこうなるのかしら、と思うと、まな美としてはぞっとしない。 「何? 大事な話って?」  まな美もコタツに足を入れて座った。  ママ・麻生|紀子《のりこ》は、金曜夜のテレビドラマが気になる様子だが、体を起こしながらいう。 「それにしても……遅いわねえ。連日じゃない。歴史部って、そんなに時間かかるの?」 「今大変なのよ。歴史部は存亡《そんぼう》の危機なんだから。つぎの文化祭はどうしようかって、知恵をしぼってる最中なんだから」 「今日も、土門くんといっしょに?」 「うん、毎度のことだけど」  まな美は、悪びれずにいう。 「まあ、土門くんだったら、無茶なことはしそうにないし、冗談ばかりいってるわりには、どことなく信頼できる男の子ではあるけど……」  そーいったキャラクターがゆえに、まな美に頻繁に|身代り羊《スケープゴート》に使われているわけであるが。 「それで何なの? 大事な話って?」  まな美の方から、話題をそらしていう。  紀子が、あやしい、といった顔つきでひとニラみしてから、 「昼に、お客さんが訪ねて来られたのよ。慶蘭《けいらん》ゼミナールって、まな美聞いたことある? いわゆる進学予備校で、本部は大宮《おおみや》にあるそうだけど、漢字は、慶応の慶に、蘭学の蘭ね」 「うーんどうかしら、わたしそういったの、全然興味ないし」 「もっともなんだけど、そこの副塾長さん、とおっしゃる方が、家までわざわざ来られてね、菓子折りまでもって……用件はというと、あなたに、そこの生徒さんに是非《ぜひ》なって欲しいっていうのよ」 「うん」  まな美は露骨に不快な顔をし、 「わたし、成績悪くなった!?」  ——野太《のぶと》い声で、すごんでいう。 「逆よ、まったく逆の話なの。あなた全国模試とかで、すっごい点とってるでしょう。だから目立って、先方に目をつけられちゃったわけね」 「ええ? どういうこと?」 「つまりね、あなたが、その進学予備校に籍《せき》をおいてくれて、そしていい大学にうかってくれると、そこの株がぐーんと上がる、て話なのよ」 「けど、わたし医学部なんて、さらさら行く気ないわよ。それにロケットを飛ばす夢もなければ、遺伝子なんて操りたくもないし、そもそも物理や科学や数学は好きじゃないし、弁護士になるつもりもないから法学部もパスだし、経済学にも興味ないし」  まな美は立て板に水のごとくに、まくし立て、 「だから、有名大学のまともな学部には、行きそうにもないわよ」  除外方式で、将来の青写真を語る。 「それはそれでいいの。まな美の、好きな大学に行けばいいわ」  紀子は、さも理解者であるかのようにいい、 「全国模試の上位の人が、当予備校には在籍しています。それだけで、十分宣伝になるそうだから、それでいいのよ」 「けど……それで何かいいことあるの? わたしにとって」 「もちろんあるわよ」  紀子は満面の笑みで、 「支度金が、いただけるんですから」 「ええ? 予備校にかようんだったら、授業料とか払わなくっていいの?」  まな美は頓珍漢《とんちんかん》なことを聞く。 「何いってんのよ。そんなもの、誰が払うもんですか!」  紀子がコタツの天板を叩いた。  まな美はしばらく考えてから、 「ってことは、わたしがその予備校に籍をおくだけで、お金がもらえるってこと?」 「だからそういってるでしょう。支度金ってのは、そういう意味なのね」 「えっ」  まな美はパッと顔をほころばせて、 「それって、いくらぐらいなの?」  興味|津々《しんしん》でたずねる。 「そうね、車が一台買えるぐらいかしら」 「やったー!」  まな美は諸手《もろて》をあげて喜び、 「わたしって、そんなにお金になるのねえ。そんな価値があったんだあ、このわたしめに——」  まさに狂喜乱舞していう。 「それもこれも、わたしとパパから、素晴らしい遺伝子を授かったおかげでしょう。そこのところを、肝《きも》に銘じるのよ」  紀子にそう諭《さと》されたまな美は、コタツ布団のすそをめくると、その洞窟に顔をうずめて、 「わたしはできちゃった娘で、できちゃった婚のくせに」  鮮やかに切り返していった。  紀子は聞こえなかったふりをして、続きを話す。 「けどね、その支度金をいただくには、条件がひとつあるそうなのよ」 「なあに?」 「ただ籍をおくだけでは、ダメらしくって……先方がおっしゃるには、幽霊生徒であることがバレないように、せめて週に一度ぐらいは、予備校に顔を出して欲しいっていうのね」 「えー、週に一度でも、やーだー」  まな美は駄々《だだ》をこねていう。 「それも好きな授業を、一時間だけうけてくれればいいって。すると講師も心得ていて、授業中にあなたを指名するから、いつものようにまくし立てればいいのよ。すると他の生徒さんたちにも、印象深く覚えてもらえるでしょう」 「そんなできレースみたいなの、ますますやだー」 「週に一度じゃなくても、二週間に一度ぐらいでも、いいと思うわよ」  条件を勝手に変更して、紀子はいう。 「どっちにしてもやーだー、青春の二度とない貴重な時間を、そんな愚《ぐ》にもつかないことにー」  まな美は、しばらくごね続けておいてから、 「だったら、わたしの方からも条件があるんだけど、いい?」  意を決したかのようにいう。 「なあに?」  紀子は、不機嫌そうな声で応じる。 「その支度金だけど、わたしにもおすそ分けしてもらえる? 当然の権利だと思うわよ」  それが健全な青少年の主張……であるかのようにまな美はいう。  紀子は案の定だと思いながら、 「じゃ、お小遣いの値上げってこと?」 「そんなんじゃなくって、その支度金の何割かを、わたしめに——」  まな美は、みずからを指さす。 「そんな大金、いったい何に使うのよ」 「もちろん歴史部のためよ。調査費って、ばかにならないんだから、専門書の高いこと高いこと。わたしなんか、化粧品はひかえて、お小遣いはほとんどこれにつぎ込んでいるんだから」 「その使い途《みち》はいいとしても、それはパパと相談してみなくっちゃ」 「え? ママまさか、この話をパパにするつもり」  まな美が、急にひそひそ声になっていう。 「パパに話したら、悪いこと……何かある?」  紀子も目を左右に動かして、あたりを気にしながら小声でいった。あたかも、そのへんにパパの生《い》き霊《りょう》がうろついているかのように。 「そんなの絶対に、この話はママだけの秘密に、ちがう! ママとわたしだけの秘密に、しておくべきよ」  一転、声高にまな美は主張する。 「どうして?」 「だって、パパとはここ最近、顔を見てもいないし、話もしていないし、家にいつ帰っているのやら? こんなのママにいうことじゃないけど、外で何をやってるか、わかったもんじゃないわよ。だから、何かのときのためにも、これはママの秘密のヘソクリにしておくべき! だとわたしは思うわ」  まな美は、さも自分はママの味方ですよ、といわんばかりにいう。 「まあね……」  紀子は、とりあえずうなずいた。  娘のその話は、それなりに傾聴には値する。けど、だからといって、支度金の何割かをわたしめに、はまた別の話である。娘の巧みなレトリックにも、そうそうだまされるようなママではない。 「それと、その条件を呑《の》むとして、いつから行けばいいの?」 「それはね、できれば今月からって話なの。早ければ早いほど、支度金を多く出すそうなのよ」 「けっこう細かいのねえ」 「それにね、ボーナスも払ってくれるって……けど、これは、まな美にはねえ」  紀子は顔を伏せぎみにして、いいよどんだ。 「ボーナスって、何のこと?」 「あなたには興味ないと思うけど、いい大学にうかれば、それに応じて」 「ええー」  まな美は不快げにうなってから、 「じゃ、ちなみに、理㈽だったらどのくらい?」  参考までに聞いてみる。 「もちろんそれが最高額で、たしか、高いベンツが買えるぐらいだったかしら」  まな美はグラッと体を揺すり、実際こころも揺らいだようで、 「じゃあ、いったん理㈽に入ってから、よそに移っちゃうっていう手も、ありよね?」  小賢《こざか》しく知恵をはたらかしていう。 「それはもう、あなたの好きなように……」  まな美は、紀子の誘導|尋問《じんもん》にまんまとひっかかってしまったようだが、そんなことはさておき、母と娘は顔を見合わせて、ほくそ笑んでから、その後もそのボーナスの使い途などについて、あれこれと談笑した。  まな美は、すっかりいい気分になって部屋にもどると、さっそく土門くんの携帯に電話を入れる。  ……まだ十時すぎだというのに、眠たそうな声が聞こえてきた。 「あのさ、あしたかあさって、つまり土曜日か日曜日、土門くん時間ある?」  ……あしたは店番や、そんな言い訳をいっている。 「じゃ、日曜日は大丈夫よね」  まな美は強引にことを運び、 「ちょっとね、おもしろいものがあるのよ。つぎの文化祭に使えるかもしれないと思って」  ……自分もいかなあかんのですかあ、土門くんがごねている。 「会ったときに詳しく話すけど、神社があって、下に洞窟があって、そこにお像が置かれてあったらしいのね。それが誰も見たことないような、謎のお像らしくって、興味そそられるわよね」  ……そそられませーん。 「それにね、そのお像が今あるところは、ふつうのお家なのよ。だから誰が出てくるかわかんないし、ボディーガードが必要でしょう」  ……自分はみかけによらずひよわでーす。 「何いってるのよ。これはわたしが体を張って、見つけてきたネタなんだから」  土門くんが何をいおうが、まな美は、待ち合わせの場所と時間をいって、一方的に話をまとめる。 「それとさ、ママから問い合わせの電話がいくかもしれないけど、土門くん、わかってるわよね」  ……てきとうにこたえとけばええんでしょう。 「その適当がまずいのよ。ママはああ見えてもけっこう策士で、ひっかけたりするの上手なんだから」  ……それは姫さまでならされてまーす。 「ともかく、ちゃんと考えて答えるのよ」  まな美は念を押してから、 「じゃ、日曜日にね」  ……あっ、その日にはぴあののれっすんが。  そんな土門くんの最後の抵抗もむなしく、その声の途中で、まな美は電話を切った。 [#改ページ]  5  土曜日の大学だから、キャンパスに人影はまばらだ。  深夜にでも雪が降ったらしく、日陰にある植え込みの根元や、放置されたままの自転車のサドルなどに、わずかに白く残っている。  少し寝坊をした中西が、十時すぎに『情報科』の研究室におもむくと、小部屋の資料室の方に、竜介がひとりでいた。  情報科は、講師である竜介が室長、助手がひとりと院生がふたり、総勢で四人しかいない小さな研究室で、文学部・心理学科・認知神経心理学研究室の、さらに分室といった扱いだ。  助手ともうひとりの院生は、今日は来ていないようだった。土日祭日に来る来ないは、各人の自由である。  中西が、資料室の奥のせせこましい空間に、コーヒーの入ったマグカップ、ふたり分を運んできた。 「あれ、昨日もここに泊まられたんですかあ」  竜介の顔に不精髭《ぶしょうひげ》が見られ、一点豪華な鳩血色《ルビーレッド》のソファの上に、緑色の汚らしい寝袋がしわくちゃで横たわっているから、あっさりと推理できる。 「気づいたら、終電車の時間がすぎちゃってて」  それは毎度のことだが、竜介は徹夜明けのような充血した目で、顔にしまりがなく、 「調べものしてっと、ついそうなっちゃうよな」  それにしゃべり方も、どこか呂律《ろれつ》がまわらなく、いつもの竜介らしさはない。  中西は、寝袋をわきに寄せてから、ソファに座った。 「あの後は、どうだったんですか?」 「あの後……て?」 「いや、自分が彼におこられて、これはまずいと、病室から出ていった後ですけれども」 「あー、その後ね。彼女がいっしょうけんめい話しかけてくれたんだけど、彼はひと言もしゃべってはくれなかった」 「じゃ、やっぱり自分のせいですかね」  中西はしんみりと、うなだれぎみにいう。 「んー?」  竜介は何のことかわからないらしく、とろーんとした顔を、中西の方に向ける。 「おまえ、ポケットの中、と彼にいきなり怒鳴られたでしょう。そのおまえ、といわれた瞬間、つぎはロウソクの火を……ちがいますね。黄泉の国へ、といわれるんじゃないかと思って、心臓が止まりかけましたよ」 「それさ、けっきょく何だったの? おれよく覚えてないんだけど」  竜介は別のことで、自身で分析するに〈一過性妄想〉のようなもので、頭が占有されていたからだ。  それに昨晩も(正しくは明け方だが)、寝袋の中で何度も考えてはみたのだが、彼とは以前にどこかで会ったことなどは……ない! はずであった。 「尾沼先生との話のときに、記録は? 録音は? と先生が再々いわれてましたでしょう。だから、それに自分なりに、ご尽力しようかと思って」 「あー、おまえがいつもメモがわりに使ってる、あれか」  竜介は、形は頭に浮かんだが、名称が出てこない。 「ええ、ICレコーダーですね。あれ小っちゃいんですけど、百二十分も続けて録《と》れるんですよ。それがポケットに入ってたもんだから、ここでこそ、それに役立ってもらわなきゃーと思って」 「なんか、手をごそごそやったの?」 「いえいえ、ポケットに手を入れた瞬間、だったですね。まだスイッチなんか、全然いじってないんですよ。それに彼は、あちらを向いてましたでしょう。だから、頭の後ろにも目があるんでしょうかね」  中西は、意味深《いみしん》なことをいう。 「そうかそうか、そういうことだったのか」  竜介にしてみれば、謎でも何でもなかったことだが、とりあえずのところ、わかった。 「自分が思うにはですね、あれはいわゆる、現在知《げんざいち》ですよね?」 「さあ、どうだろうか」 「それと、ナースにした猫の話ですけれど、あれは猫は先に死んでいたんですから、いわゆる、過去知《かこち》ですよね?」 「まあ、そうかもしれないが」 「ですけど、現在知と過去知だったら、そう稀《めず》らしい話じゃないですよね。俗にいう霊能力者や、超能力探偵などは、もっぱら、これで食ってるわけですから。いかがわしいのを除いても、何千、何万って、似たような事例があるはずですから……ねえ?」  中西は、煮えきらない態度の竜介に、強く同意を求めていってから、 「ですが、そのほかの件は、尾沼先生が話してくれた事件ですけれども、あれらは、彼がそれをいった後で、おこってるようですよね。けどまさか、彼が念力《ねんりき》でも使って、それらの事件をおこしている、なんてことは、自分はこっから先も、ツメのアカほども考えてませんよ」  そうそう強く否定するところを見ると、頭のかたすみでは考えているのではと竜介は思う。 「ですから、これらは未来知《みらいち》で、いわゆる予知・予言のたぐいですよね。それも、人の死に関してなんですから、ちょっと尋常じゃありませんよね」 「まあ、予知・予言といっちゃうのは簡単だけど、それは一筋縄ではいかないからな」  竜介が、重たい口を開いていう。 「たとえばさ、航空機事故に関して、その飛行機に乗る予定にしていた人が、直前になってイヤな予感がして、乗るのをとりやめた。するとその飛行機が墜落した。そんな話って、ときどき聞くだろう」 「ええ、聞きますね。けど、ちょっと余談ですが、それをネタにしちゃってる教祖もいるそうですよ。事故があったときの航空券を見せびらかして、自分は乗らなかった、どうだ、おれの予知能力はすごいだろう……て感じで。けど、そんな航空券ぐらい、どっからだって手に入りますもんね」  竜介も同意して、うなずいてから、 「おれも興味あってさ、確かな話を一件だけ、調べてみたことがあるのよ。三十年ほど前に、松山から出た飛行機が落ちたんだけど、それに一家族、乗ってないのね。どうした理由かというと、飛行場で待っていたときに、子供が、泣き叫びはじめたというのね。それは、むずがる、といった程度をはるかにこえていたらしく、それで、つぎの便に遅らせたというわけさ」 「だったら、その子供が、予知能力者?」 「かもしれないと思ってさ、直に会ってみましたよ。愛媛《えひめ》県の宇和島《うわじま》まで行ってね。その子供は、もう立派な大人だったけど、その当時のいきさつは、当人は、ほとんど覚えてなくてね。であれこれ話を聞いてみたんだけど、その後は、これといって不思議な話はなく、何かを予知したことはないし、人の考えがわかるわけでもなければ、幽霊などもいっさい見たことはない、とおっしゃるのね」 「じゃあ、子供のときにだけ、そういった能力があった。その種の特殊能力って、大人になると消えるというじゃありませんか」 「うーんどうだろうか」  竜介は、ちょっと小馬鹿にしたようにいい、 「でさ、おれが思うにはだけど、そのように直前になって搭乗をとりやめるのは、子供がむずがったから、これが理由の場合が多いだろう?」 「ええ、この種の話は、だいたいがそうですよね」 「じゃあ聞くけど、子供が原因で搭乗をとりやめた、もしくはつぎの便に遅らせた、そういった件数って、そもそもどれぐらいあるのだろう? 多そう? 少なそう? それとも、ごく稀?」 「いやー、それはけっこう多いんじゃないでしょうかね」 「おれもそう思う。空港では、これは日常茶飯《にちじょうさはん》のはずだ。かたや、航空機事故はごく稀にしかおこらない。けど、もう片方は日常茶飯なんだから、両者が重なることは十分にありうる。なので、見た目には超常的な話にはなるけれど、実際は、いわゆる偶然の産物、以外のなにものでもない」 「はっ、なるほどねえ」  中西は何度も頭をふって、大きくうなずいた。  竜介が、 「おまえ、ホントにすぐだまされるよなあ」  罵倒《ばとう》ぎみにいう。 「えっ?」 「おれが今いったのは、いわゆる否定論者のロジックなの。おれが肯定《こうてい》派なのは知ってるだろう」 「ありゃ……」 「だぁら最初に、予知・予言は一筋縄ではいかない、といってんじゃないか」  竜介は江戸っ子のようにまくし立ててから、そして真顔に転じていう。 「航空機事故にも、いろいろあってさ。たとえば、ニューヨークの世界貿易センタービルにつっこんだろう。あの何機かの飛行機にも、直前に搭乗をとりやめた人がいるのね。……こういったテロのたぐいは、爆弾が積まれてあったとしても同様だが、現在知・過去知ができる能力者であったなら、十分に、予知もできるはずなんだ。未来は、すでに決まっているのだから」 「ですよね。因果関係は、はっきりしてるんですから、その原因部分を知ることができれば、結果の、未来もわかりますもんね」 「仮に、そういったのを、推理予知と呼ぼう。これは十分に、ありうる予知ね。それともうひとつありうるのが、字がちがう預言の方さ」 「それは預言書の、預言ですねえ。宗教が関係したやつ」 「そう、そして宗教がからむと、とってもヤバい話になる。ひとつの文明が、みずからの預言で滅んじゃうぐらいに」 「それはマヤ文明でしょう、有名な話ですよね。マヤの暦では、確か、五十二年をひとつの周期にしていて、その区切りの年に、銀ピカの神さまが降臨してくる。そんな預言になっていて、ちょうどその区切りの年に、スペインのコルテスが率いる、つまり白人があらわれたもんだから、あらー、神さまーとひれ伏しちゃって。ときのアステカ王なんかは、神から代々受け継いできたこの王国を、神がお望みとあらば、いつでも返上いたしまーす。なんて馬鹿なことをコルテスにいって、あっさり首を刎《は》ねられ、かくしてマヤ文明は、地球上から滅亡しちゃったわけですからね」  中西が勝手にしゃべるのに任せておいてから、 「何うんちくたれてるんだ! おれがいわんとしてたのは、今の我々の文明のことだぞ」  竜介は切り返していう。 「ええ?」 「新約聖書には『ヨハネの黙示録《もくしろく》』が入ってるだろう。いわゆるハルマゲドンだけど、聖書の一番最後が、これで、クリスチャンはおしなべて、その話を信じてるわけさ。聖書の都合のいいところだけを信じてる、わけじゃないのよ。すべてを盲目的に信じる、それが宗教なんだから。今のアメリカの大統領なんて、その盲目的の最たるもので、いつ核兵器のボタンに手をかけても、おれはまったく驚かない」  竜介は、一点宙を凝視《みつ》めてから、 「そうなると局地戦ではおさまらないよ。イスラムの方だって、すでに核兵器はもってるわけだから、必ず報復してくる。するとまさに聖書の預言どおり、ハルマゲドン、最終戦争に突入さ。クリスチャンは潜在意識下で、そうなることを望んでいるわけね。じゃ、今の日本の総理大臣はというと、我々とはかけ離れた、独自の宗教観をもってそうなのは見え見えで、お国のために死ね、英霊《えいれい》となれ、要するに、同じ穴のムジナさ」  ——歯に衣《きぬ》着せずにいう。 「いやあ、そういわれちゃうと、たしかにヤバい状況ではありますよねえ」  中西は居心地《いごこち》が悪そうに、手をついてソファに座りなおした。 「宗教がからむ預言は、人にゆだねられているといっていい。それが現実化する・しないは、人間しだいってことになる。そういった預言のことを、仮に、能動的予知と呼ぼう。だから、推理予知と、この能動的予知は、十分にありうる話なのね」  竜介が、本筋にもどしていった。 「その能動的予知って、ハルマゲドンみたいな世界的規模の話ではなく、小さなスケールでも、日本のどこかの町でも、おこりうるんですよね。神さまや宗教などがからめば……」  中西は、何やらひらめいた表情で、 「たとえばですね、あの病院におられる彼、その彼のことを神さまだと信じ込んじゃってる人がいて、その彼のお言葉を、現実化するようにと動いてしまう、なんて可能性も、万が一にはありますよね」 「その万が一なども考慮に入れて、調べものをしていたわけさ」  いってから、竜介は目頭《めがしら》を押さえた。  仕事机の上には、プリントアウトされた紙が乱雑に山積みになっていて、竜介はその中から何枚かをつまみ出すと、 「彼が予知したらしき事件は、三つだったろう。それをインターネットで調べてみたのさ。概要《がいよう》がのってるのが、それね」  ——中西に手渡した。 「いやー、こんなことをされてたんですか。こういうの、やり出すとキリありませんもんね。実はですね、ぼくも、昨日は早めに家に帰らせてもらったでしょう」  中西が住むアパートは、京王《けいおう》新宿線の沿線なので、彼は大学にはもどらずに直帰したのであった。 「で時間をもてあましちゃったから、おなじく調べものをしてたんですよ。けど先生とはちがって、あのお城につきましてね」  中西が顔をほころばせていうので、 「なんか、おもしろいの出た?」  竜介は聞いてやる。 「いやー、先生にとって、おもしろいかどうかわかりませんけど。あのお城はですね、十五、六世紀のもので、ルーマニアから運んだそうです。なので、トランシルヴァニアって話も、あながちって感じですね。ルーマニアの一地方の、古名ですから。それで移築費用に何十億もかかったそうで、バカげた、大事業だったようです。で、どんなテーマパークを作ろうとしていたかというと、まずあのお城の前に、庭園風の巨大迷路を作って……つまりこれはですね、映画の『シャイニング』をパクッてるんですよ。雪にとざされたホテルの前に、そのような迷路があり、気が狂ったジャック・ニコルソンに追われて、そこを逃げまくるといった名シーンがあったでしょう。じゃ、そのテーマパークのテーマはといいますと、ずばり、怪奇なんですよ。西洋のお化け屋敷の、すごいのを作ろうとしてたらしいんですね」 「あ! それで十五、六世紀なのか。それは魔女狩りの時代じゃないか」  竜介はあきれ顔で、はき捨てるようにいう。 「まさにそのとおりで、だから魔女裁判で使われた拷問具《ごうもんぐ》なども、その実物を、お城で展示する予定になっていたようです。蝋人形《ろうにんぎょう》などとともに」  それは逆に、やつら(バチカン)の過去の悪行《あくぎょう》を万人に知らしめることになるから、竜介としては大賛成であるが。 「なのでひょっとすると、あのお城の地下にでも、そういったのが、今でも転がってるのかもしれませんね。けど、もしこのテーマパークができていたら、自分は間違いなく行ってましたよ。先生はいかがですか?」 「うーん、一度ぐらいは行ったろうな」  竜介も正直にいう。 「だから、自分としては、ちょっと残念でしたね。それを企画していたのは、大手の商社も関係していて、複数の企業だったんですが、それが一抜け二抜けして、けっきょくポシャッちゃったようです。その中心となっていたのは、何とか興産とかいって、いわゆる不動産屋らしいですが、これはどうでもいい話ですけど、そこの代表者の名前が、すごく仰々しかったもので……大炊御門《おおいみかど》、ていうんですよ」 「あー、それは摂関家《せっかんけ》か、そのあたりだろう」  竜介は、うろ覚えのようである。 「ええ、大炊御門で検索してみますと、確か、平安時代後期の、公家《くげ》の五摂家《ごせっけ》につぐ七清華家《しちせいがけ》のひとつだと、出てきました。今も、こういった家柄が残ってるんですねえ」  それはそれで驚きだといったふうに、中西はいった。 「じゃ、先生の資料を、拝見させていただきます」  中西は神妙な顔でいってから、プリントアウトされた文面を拾い読みしながら、 「まず一枚目は、小田切美子、本名は佐々木喜子《ささきよしこ》、三十八歳。うーん女優さんとしては、微妙な歳ですかね。自分けっこうファンだったんだけどな」  感想もまじえて、ぶつくさ声に出していう。 「連絡がとれなくなったので、目黒区の自宅マンションに訪ねていったマネージャー氏が、マンションの管理人とともに、浴槽の中で死んでいた彼女を発見した。死後十二時間ほどたっていたと思われる。その死因は、睡眠薬の多量|摂取《せっしゅ》と、さらには手首をカミソリで切っての失血死《しっけつし》。うわー、その情景が目に浮かんじゃいますよね。けど、なになに……彼女は裸ではなく、パジャマと下着をつけて浴槽につかっていた。へー、女優さんとしての、最後の、何かでしょうかね。そして、遺書はなかったが、室内に争った様子などはとくに見られず、マンションの玄関の鍵もかかっていたため、それにマネージャーや親族の話などからも、最近元気がなく、ふさぎがちだった……とのことなので、警察は自殺と断定した。ふーん」  中西はしばらく考えてから、 「これだと、他殺の可能性もありますよね」 「うん、おれもちょっとそう思った。そこには出てないけど、睡眠薬は、病院からちゃんと処方されていたものなのね。だから彼女がそれを常用していたことは、親しい人だったら知ってたはずなのさ。なので、家にさえ入れれば、自殺に見せかけての偽装工作《ぎそうこうさく》をするのは、そう難しくはなかったろうな。それにさ、服を着たままで浴槽につかっていた……もちょっとひっかかるんだ。おれも似たようなことをやった経験があるんだけど、ジーパンをはいて風呂に入って、色落ちさせようとタワシでゴシゴシと、もちろん若かりしころの話ね。けど、そのときジーパンが足腰にへばりついちゃって、気色《きしょく》悪かったこと気色悪かったこと」 「あー、わかりますわかります。何を隠そう、自分も一度だけ、パジャマを着たままポチャーンと風呂につかっちゃったことがあって、これは完全に寝ぼけていて、そのときの身動きのできなさぶりは、表現のしようがありませんよね。自分がクラゲになったみたいで、体じゅうにまとわりついちゃってえ」  ふたりして、身もだえてから、 「だからさ、そういった極めて不快に感じることを、死にゆこうとしている人がするだろうか? いかに睡眠薬で意識が朦朧《もうろう》となっていたとはいえ。それにさ、おれは犯罪心理の方には詳しくないんだけど、死体に服を着せてあった場合の、なんか特記事項みたいなのがあったろう?」 「あれですね。そのような場合は、もと恋人だとか、身内の犯行を疑ってみるべき、て話ですよね。被害者の裸を他人に見せないようにする心理、なんかが、はたらくらしいですね」 「おれもそんなことを思って、彼女の交友関係なども調べてみたのね。すると三年ほど前の週刊誌に」  中西がプッと吹き出しぎみに、 「ちょっと待ってください。……先生、そんな探偵もどきみたいなことまで、やってたんですか?」 「いや、好きで探偵やってたわけじゃないんだぞ。おれは逆から推理してるわけさ」 「逆から、といいますと?」 「たとえば、自殺と他殺、これほどっちが予知されやすいだろうか? もちろん推理予知だが。——自殺は、だいたいが突発的なもので、いつどうやって死のうかなんて、決めてる人はそうそういないだろう。だから予知されにくいはずなんだ。他殺でも、無差別の通り魔殺人的なものは、同様だ。その犯人は予知されても、被害者は誰なのか、事前にはわかろうはずもない。それこそ、運命の悪戯《いたずら》なんだから。逆に、予知されるのに最も適しているのは、他殺の、しかも計画殺人の場合だ。その計画が練りに練られているほど、予知されやすいといった理屈になる。そういったことを前提にふまえて!」  竜介が、中西をニラみつけた。 「あっ、それで逆からなんですか。さすがは先生、考え方がちがいますね」 「それが、学問というものなんだ」  竜介はご大層にいってから、 「おれは事件そのものには興味ない。真犯人がいようがいまいが、誰であろうが、どうでもいい。それが予知の理屈にあってるのかどうか、その一点のみを見極めたいがため」 「もう究極ですね。探偵もどきだなんて、失礼なことをいっちゃいました。FBIの犯罪心理捜査官の、さらに上をいってますよね」  中西は、ほめ殺しのようなことをいってから、 「では、その三年前の週刊誌によりますと?」  つづきをうながす。 「些細《ささい》な記事なんだけど、どこかのパーティー会場での写真をもとに、一緒に写っていたマネージャーとの交際が、ほのめかされてあった。スーツをさっそうと着こなしていた、なかなかの色男さ。もちろん、死体の第一発見者のマネージャー氏と、おなじ人物ね。その彼だったら、彼女のマンションの鍵はもっていそうだよな。それともうひとつ、親族の話、てのがあったろう。彼女は鹿児島《かごしま》県の出身で、両親はそちらにいるのね。だから頻繁に会っていそうにはなく、最近ふさぎがちだった、て話も、おもにマネージャーからの聞きとりだろうと思うんだ」 「なーるほど。すると第一容疑者は、ずばり、そのマネージャーってことですよね。新しい恋人ができて、それも若い美人女優で、別れ話をきり出したが、彼女は聞いてくれず……」  中西は見てきたようなことをいい、 「けど、その程度にあやしかったら、警察は調べてませんかね?」 「さあどうだろうか。日本の警察には今、コロンボ警部はいないようだからね」 「そうだそうだ。検挙率たったの二割ですもんね」  中西が、くずれ落ちながらいった。 「じゃ、二枚目にいきますね。得川宗純殺人事件、本名は又吉晃彦《またよしあきひこ》、五十三歳。埼玉県は浦和市にある曹洞宗《そうとうしゅう》の寺、林鳥禅院《りんちょうぜんいん》の本堂で殺害されていた。死亡日時は十一月二日の夜の九時前後。死体の発見者は父親の又吉|嘉吉《かきつ》さん。その死因は……あれ? どうしたことでしょうか、警察は未発表。物盗りもしくは怨恨《えんこん》の両面から、捜査を継続中。これは……これだけですか?」  中西が不満そうにいう。 「なんか、警察が伏せちゃってる関係もあるようで、事件に関しては、それぐらいしか出てこないのね。得川宗純では大量にヒットしたんだけど、ほとんどが、彼が出演したテレビ番組の話さ。あのときの霊視《れいし》はウソだとかホントだとか、そんな話ばっかり」  竜介は、うんざりした顔でいう。 「あんなの、嘘に決まってますよね」 「いうまでもなく」 「そうそう、守屋《もりや》教授がおもしろいこといってましたよ。ちょっと前に、その得川さんとテレビで一緒になったらしく、ところが事件のせいで、その番組はお蔵入りになっちゃったとかで、でも出演料はもらってるからいいやー、て笑ってましたけど」 「彼らしい話よね」  守屋|汎《ひろし》はアジア文化史の教授だが、この研究室にもよく遊びにくるから、顔なじみなのである。 「じゃ、つぎに行きますね。ハマダ社長殺人事件。株式会社ハマダは、売上高約三百億、準大手の玩具メーカーで、創業は一九七〇年。現社長の浜田俊夫《はまだとしお》さんが創業者で、六十一歳。自宅は渋谷区|松濤《しょうとう》。ここは超高級住宅街ですよね。それに都知事の公邸があったはずだから、治安はいいはずなんだけど」  中西は、憮然《ぶぜん》とした表情でいい、 「浜田氏は、会社の車に送られて、夜の八時半ごろに帰宅した。そして死体が発見されたのは夜の十二時すぎ、帰宅した奥さんが……ええ? こんな遅くまで何やってたんでしょうかね」 「そこには出てないけど、友人らとともに、新宿コマ劇場へ芝居を観にいってたそうだ。けど、それはいわゆる公式発表で、週刊誌などによると、新宿のホストクラブにいっていたのでは、て説が有力」 「な、なるほど……そして、お手伝いさんがおられるんだけど、夜の七時に、その松濤の社長宅から出て家に帰った。これはいつものこと、て書かれてありますね」 「みたいだね。だから夕食の手伝いまで、てことなんだろうな。それと、その浜田氏は、お酒は飲めないらしくって、だから帰宅時間は、比較的早かったようだ」 「けど帰ってきても、奥さんが夜遊びしてるんだったら、大豪邸でひとりぼっちって感じですよね」 「いや、それには別の話があって、その自宅の地下に、鉄道模型の大ジオラマが組まれているらしく、時間さえあれば、そこに籠《こ》もっている。それが浜田氏の趣味だったようだ」 「あっ、このハマダって、鉄道模型を作ってる会社ですか?」 「そう、おもに欧米向けの輸出だそうだけど。日本はこういうのは元来強いんだが、最近は中国製に押されぎみ、とも書いてあったね」 「最近はなんでもかんでも、中国製だよな」  中西は文句をいってから、 「えーいよいよ、その殺害現場ですが……」  しばらく黙読をする。  竜介は、タバコに火をつけた。  内扉でつながっている大部屋の研究室の方は、中西もふくめて吸う人間はいないから、禁煙の状況だが、竜介が私室にしている資料室は、喫煙可である。もっとも、内扉は常時あいているので、煙はただよっていくだろうが。 「うわー、ひっどい話ですよね」  読み終えて、中西としてはめずらしく、怒りをあらわにしていう。 「盗られたのは、たかだか現金五十万と、貴金属類二百万ですよ。この程度で殺されてたら、うかばれませんよね」 「昨今頻発している、大豪邸をねらった押し込み強盗の、しかも、家の人を必ず殺していくといった、その類型的なやつだよな」 「この最後に、外国人の犯行も視野に入れて、などと書かれてますけど、こんなの堂々と、中国人、と名指ししてやればいいのに」 「まあ、誰しもそう思うんだけど、犯人を捕まえてみないことには……警察が捕まえられれば、の話だが、どっちにせよ、迂闊《うかつ》なことはいえないさ。似たような件で、都知事が口をすべらして、えらく叩かれたことがあったろう」 「あーありましたね。けど、あれは庶民の声を代弁してくれたようなもんで」 「それに、もうこうなったからには、警察もあてにならない以上、自衛するしか手はないだろうな。おれは鉄砲の解禁を指示する」 「せ、先生、それは都知事以上に過激ですよ」 「冗談はさておき。この事件は、事件そのものの解析は不能なので、予知が可能かどうかといった観点になるが」 「それは、可能でしょう。こういった豪邸をねらう外国人犯罪集団は、聞くところによると、けっこう下見をしているようですから。だからそれなりに、練りに練った犯行なわけで」 「おれもそうは思ったんだが、ちょっとちがうような気もするんだ。この種の事件は、物盗りが目的で、殺人はつけたしのようなものだろう。必ず殺すのが、やつらの流儀ではあるにせよ。だからいわゆる、行きがけの駄賃ってやつさ。その、駄賃なんだけれど、現実には、浜田さん個人が喰らっちゃったわけだが、奥さんだって、そう連日夜遊びしてるわけじゃないだろうから、別の日だったら、もしくは当日も、早い時間に奥さんが帰宅していたなら、彼女も、その駄賃を喰らっていたはずなんだ」 「ええ、確かにそうではありますけど」  竜介が、仕事机の紙の山から、一枚をとって中西に手渡しながら、 「これは尾沼先生が、帰りぎわにコピーしてくれたやつね。彼——神さまの発言と、事件との関係を、彼女なりにまとめてくれている。その最後の方に、ハマダ社長殺人事件に関して、彼がいった言葉が書かれてあるだろう」 「えーどれどれ……おもちゃメーカーの社長を、黄泉の国におくらん、となってますけど?」 「つまり、社長を、と個人を指定していってるじゃないか。もっとも、これは伝聞なんで……が、聞いていたのは三人のようだから、それなりに確かだと考えて」  竜介は、考えろと中西にうながす。 「うーんそうしますと、その夜は、奥さんは遊びにいってて、不在だということも予知できた。だから死ぬのは社長さんひとりであると、予知できた」  いかがですか、といわんばかりに、中西は竜介の顔を見る。 「そういった、いくつかの要素をかみあわせての予知だけど、推理予知とはいったが、自身の頭の中でそのように考えて結論を導き出している、わけではおそらくなくって、最終結果だけが、パッと見えるんじゃないだろうかと、おれは考えてるんだけどね。それにさ、この事件では浜田氏が、金庫の場所やダイヤルの番号などを犯人に教えて、その後に殺されたわけだよな……推察するに。けど、彼がとっても強情な人で、もしくは、どうせ教えたって殺されるに決まってるんだからと、なかば一か八かで黙《だんま》りを決め込んでいたとしたなら、犯人は、どんな行動をとったろうか?」 「あっ、そうそう、それだと奥さんの帰りを待ったでしょうね。別の似たような事件では、家にいた夫か妻かを縛っておいて、もうひとりの帰りを待ったという例が、実際にありましたから」 「だろう。だから現実には、彼の言葉どおりにはなったんだけど、いわゆる不確定要素が、あれこれとあったのも事実なわけさ。そういった不確定要素を、どうやってのりこえているのだろう? おれはとっても疑問に思うわけね」 「うーんですが、それこそ脳の不思議、予知・予言の不思議といったことでは、ないのでしょうかね」  中西が、テレビのナレーションのごとくに、意味のない、わかったようなことをいう。 「それだと、ミもフタもないわい」  竜介は、すねたようにいってから、 「話は変わるが、その浜田氏は、岡山県の出身だ。そして得川宗純こと又吉さんは、その本名から察するに、沖縄がルーツだろう。沖縄に多い名前だから。そして小田切美子さんは、鹿児島県の出身だ。そして年齢も、三十代、五十代、六十代……つまりこれといって、共通項はない」 「えっ?」 「つまりどういうことかというと、三つの事件に、何か共通項はないか、そういったことも調べたわけさ。彼は、事件をアトランダムに予知したのかもしれないけど、反面、それなりのつながりがあってのことかもしれない、と思ってね。けど、事件そのものは、てんでばらばらって感じだらう」 「そうですね。ひとつは自殺のように見える、他殺かもしれない事件。ひとつは明らかに外国人犯罪。もうひとつは……これは外国人はからんでそうにないですしね」 「なので、犯人側に共通項がないのであれば、被害者側に、何かあるのかもしれないと思って」 「何か、ありました?」  中西が身をのり出してきてたずねる。 「それが見つかってれば、もうちょっとは晴れ晴れとした顔をしてるよ」  竜介は弱々しい声でいい、 「けどね、小田切さんと得川さんは、いわゆる芸能人という枠ではくくれるので、どこかで接点があった可能性はある。……が、小田切美子って、バラエティー番組などには、まったく出てなかったよね」 「ええ、見たことはありませんね。よくいえば、純粋な女優さんで、自分の小《ち》っちゃいころは、トレンディードラマの、主役クラスを演《や》ってたぐらいだったんですが……」  その後は下り坂一直線だと、竜介が調べた資料にも書かれてあった。 「ですけどもね、得川宗純は、自宅の寺で、霊視とかやってたはずですから、あとのふたりは、その客であった可能性はありますよ」 「うん、おれもそうはひらめいた。が、得川さんの顧客名簿などには、アクセスできるはずもなく」  それは当然だと、中西が笑っている。 「けど、中西がいうように、その線が、もっともありそうなつながりではあるよな」 「あっ、もう一個ひらめきましたよ。得川宗純が、一種の中継基地のような役割をはたして……これは先生のインターネット仮説ですが……そして、病院にいる彼に、三人の未来におこるべき情報を、つぎつぎと伝えた」 「うん? それだと、あの世で中継基地をやらなきゃいけないよ。得川宗純は、浜田氏よりも先に死んでいるんだから」 「あっ……」  中西がほうけたように大口をあけ、竜介ともども煮詰まりぎみになっていると、  ——ジリジリジリジリジリ。  仕事机の上の電話が鳴った。鳴り具合からして、外線電話である。  竜介が出てみると、 「あっ……昨日はどうも」  尾沼由希靉からの電話であった。 「ええ、時間はあいてますけど」  電話をとおしての彼女の声は、 「えっ? 何議員ですって?」  相変わらず聞きとりにくい。 「国会議員ですか、その議員さんが?」  それにひどく急《せ》いているらしく、 「今から会いに行くんですか? ぼくも一緒に」  話に要領をえない。 「——え? 何ですってえ!」  竜介の顔が激変し、 「ですけど、そんなこと相手に話したって、誰が信じてくれます」  かん高い声でいう。 「けど、ぼくが一緒に行ったからといって、何の重みもありませんよ」  竜介は、守屋教授の顔が頭に浮かんだ。 「院長先生とかは?」  テレビで顔を売っている守屋を立てれば、相手も話を聞いてくれるかもしれない。 「——不在」  しかし守屋にいきさつを説明するのに時間を食いそうだ。 「わかってます、時間ないですもんね」  確かハマダ社長の死は彼がいってから約十二時間後である。 「仕方ないですね。もしものことがあったら寝覚めが悪いから」  竜介はやむをえず承諾《しょうだく》をし、都心に出てきてから再度かけなおすと彼女がいうので、 「じゃ、待ち合わせの場所とかはそのときに」  ——電話を切った。  すると中西が、 「ひょっとして、国会議員に、黄泉の国へといっちゃったんですか?」  間髪《かんはつ》を入れずに聞いてくる。それも興味津々の顔で。 「それ以外、何が考えられるっていうんだ!」  竜介は怒っていい、 「山梨県選出の、サトウだか、サイトウだとかいってたけど、聞いたことある?」 「いやあ……そんなありふれた名前は」  中西は首をふっていう。 「テレビで、国会の様子がながれていたらしく、それに映っていた男を、例によって指さしたわけね。今回は、尾沼さん本人が聞いていて、それに、その国会議員と、彼女は面識があるらしいんだ。だから必ずアポはとれるってわけよ。けど、おれにそれをふられてもなあ」  言葉とは裏腹に、竜介はまんざらでもない様子ではあったが。 「自分には、ふられてないですよね」  中西は達観《たっかん》したようにいってから、 「じゃ、これはぼくからの餞別《せんべつ》です。ぼくの分身だと思って使ってください」  ポケットから何やらとり出すと、竜介に手渡す。 「うん? これで国会議員との会話を録音しろってか?」  ——彼愛用の、手の中にすっぽり隠れるぐらいの超小型のICレコーダーであった。 「もちろんですよ先生。こんな大チャンス、みすみす逃す手はありませんよ。そしてもし万が一、その議員先生が死ぬようなことがあってごらんなされませ、その録音は一大証拠で、予知の事例として学界に燦然《さんぜん》と輝きますよ。これこそ、まさに研究者|冥利《みょうり》につきるというものです」  中西は一席ぶってから、 「使い方は、いたって簡単ですから」  ——教えてくれる。 [#改ページ]  6  彼女とは、六時に、赤坂のみすず通りにある喫茶店で待ち合わせをした。  竜介が、約束の五分ほど前に店内に入ると、先に来ていた彼女が、笑顔で手をふってくれた。  由希靉は、蜜柑《みかん》色のざっくりとしたニットのカーディガンを着ていて、椅子から立ち上がると、 「すいません。先生まで巻き込んでしまって」  ていねいに頭を下げていい、 「それに斎藤《さいとう》先生は、夜にならないと体があかないとおっしゃるものですから……」  座りながら、さらに申し訳なさそうにいった。  が、竜介としては、時間があったので助かった。  大学の近くにあるサウナに行って一日分のアカを落とし、ヒゲを剃《そ》り、この間に死んでもおれは知らないぞ、うらむなよ、などと思いながら仮眠をし、夕方に研究室にもどって、新しいシャツなどに着替え、もういつもの竜介に変身できていたからだ。  それに大学にもどると、中西が、その議員先生のことを簡単に調べておいてくれた。  サトウでは該当がなかったらしく、斎藤|信介《しんすけ》とのこと。山梨県富士吉田市の出身で、与党の衆議院議員である。当選は二回。歳も四十一歳だから、竜介とほぼ同年代といっていい。 「それで、どういったお知り合いなんですか?」  竜介はたずてみる。 「それはですね、まず、わたしども尾沼の実家が、山梨県の大月《おおつき》市なんですよ。遠くに感じるかもしれませんけれど、あの病院からだと、車で三十分とかからないんですよ」 「なるほど、高尾山って、もうずいぶんとあちら側ですもんね」  竜介は東京人の感覚でいう。 「そして、斎藤先生のお父さまも、以前は議員さんでして、そのころからのお付き合いなんですね。つまり、わたしの祖父が、そのお父さまの方の、後援会か何かに入っていたらしく……」  そういわれてみれば、二世議員と書かれてあったのを竜介は思い出した。すると信介という名前も、おそらく、戦後一の豪傑首相にて佐藤栄作《さとうえいさく》の実兄でもある岸《きし》信介(こちらは、のぶすけ、が正しい)にあやかったのだろう。父親の地盤を継いで政治家になるべく宿命づけられていた人のようだ。 「……もっとも、今の斎藤先生には、政治献金などはもうしてないと思いますね。ところが、その斎藤先生の最初の選挙のときに、わたしがたまたま実家に帰っていたら、祖父から呼び出しをうけて、選挙事務所に大急ぎで来なさい、きれいな服を着てって。何のことかしらと思って行ってみると、花束をもっていく役をしろ、ていうんですね。それも当選確実が出て、全員でバンザイをやっているときに。そして東京にもどってみますと、あんなとこで何やってたのって大学の皆からからかわれて。考えてみると、あの選挙速報って、すごい視聴率ですものね」  竜介は、彼女のドタバタ喜劇のような面白い話に笑いながらうなずいてから、 「全国全局、おなじ番組ですよね。それも二世議員の初当選だから、何度となく再放送も……」 「ですから、わたしの電話をことわるなんてことは、できないはずなんです」  由希靉は剽軽に、笑顔でいった。 「あっ、そうそう、今回はわたしが部屋にいて聞いてましたでしょう。そのとき彼は、やはり神さまの名前をいったんですよ」 「今日は、どんな神さまでした?」 「とはいっても、聞きとれた自信はまったくないんですよ。いつも一度しかいわれませんし、それに聞き返しても知らんぷりですから」  由希靉は先に言い訳をし、 「それに、笑わないでくださいね」  さらに念を押してからいう。 「われは、ンラムージンである。そんなふうに聞こえたんですよ。頭がンだなんて、そんなのありえませんよね」 「ンラムージンですか……」  竜介は顔をふせて笑いをこらえながら、 「ムージン、フージン、風神、けど風神は、なんとか風神っていないしな、ンラムジン、イラブジン」  口に出してブツクサといいながら、しばらく考えてはいたが、あきらめていう。 「これはちょっと、あてはまるのが思いつけませんね。けど、その最後のジンは、神のジンのはずですから、神の名前であることに、間違いはないでしょうけどね」 「先生が何度もおっしゃってたように、やはり部屋にマイクをつけておくべきでしたよね」  竜介も(顔では)うなずいたが、内心ドキリとしていた。  中西からの餞別が、膝においてある帆布製の小型の仕事鞄《ブリーフケース》の中にしまわれているからだ。その鞄にはタバコも入っている。つまり、タバコをとり出すさいに録音のスイッチを入れよう、そういった段取りなのだ。——研究者はかくあるべき、中西の言葉にすっかり賛同してしまっている竜介であったのだ。  ふたりはコーヒーを飲み、しばらく雑談に花を咲かせてから、斎藤信介との約束の時間(七時)がせまってきたので、喫茶店から出た。  由希靉が、茶色革のざっくりとしたトートバッグの中から紙切れをとり出して、 「一ツ木通りの……向こう側なんですよ。わたしも行ったことがないお店なんですけどもね」  それはFAXで送られてきた地図らしく、その紙を片手に、彼女は少しこころもとなさそうに道案内を始める。  竜介としては、事務所か議員会館にでも行くのだろうかと思っていたが、あてがはずれた。  みすず通りから、一ツ木通りに出た。  この時間帯にしては道ゆく人は少ない。ここにも閑古鳥《かんこどり》が鳴いているようだ。それに、赤坂の目抜き通りだというのに、バイアグラ販売! の大看板が目にとび込んできた。すぐ近くに大民放テレビ局があり、東に十分も歩けば国会議事堂だったはずだが、日本人の美意識や美徳などはどこかに雲散霧消してしまったようだと竜介は思う。  一ツ木通りのアーケード門が立っているところから、左の脇道に入った。  車一台がやっと通れるぐらいの細い道だ。  飲食店が立ち並んでいたのは入口付近だけで、五十メーターも歩くと、ふつうの民家が目立ってきた。道ゆく人も、ごくまばらである。  右手に、階段の坂道があった。  いかにも赤坂で、町がでこぼことしているから、そこかしこに坂があるのだ。江戸時代には大名屋敷が多く建っていた場所である。  由希靉はその階段坂を地図で確認してから、先へと進む。  左手に、古びた旅館のような和風の建物があった。  ——泉クラブ。そんな看板が出ている。  政治家が密談に使うような、いわゆる料亭だろうかとも思ったが、もとよりその種の知識は竜介にはとんとない。  さらに道を進むと、外壁をしっかと固めた、いかにもそれらしき高級店もあったが、おなじく推測の域を出ない。  そうこうしていたら、歩いている道そのものが、ゆるやかな上り坂になってきた。その坂の頂上付近にあるらしい、日本コロンビアのビルの電飾が見える。  由希靉が、横に入る路地を気にしながら、 「このあたりなんですよ……」  のぞき込んでいる。  が、そこはちがっていたらしく、さらに進んで、一本先のかどで由希靉は立ち止まると、 「あそこに見えているのが、そうみたいですね」  路地の奥を指さしていった。  あたりは、すべて民家のようである。  それに確かに、店の明かりらしきものは見えてはいるが、遠目には、そこもふつうの家っぽい。  が、瓦屋根の小さな木の門があり、その扉が開いたままになっているから、ふつうの家であるはずがない。それに近くまでいくと、その門の軒下に、藍《あい》一色の小さな暖簾がかかっていた。  屋号はどこに……と見てみると、暖簾の右すそにごく小さく、ゆきえ、と白く染め抜かれてあった。 「あれ? おなじ名前じゃありませんか」  気づいて竜介はいう。 「そうなんですよ。わたしも地図をいただいたときに、あれっと思ったんですけれど、これは斎藤先生のシャレなんでしょうね」  由希靉は気恥ずかしそうにいう。  それにしても、なかなか気のきく男だと、竜介は思った。  門をくぐると、右手に和風の小さな庭があり、石畳を五つほど歩くと玄関だ。そこの戸も開いている。  そして玄関に入ると、ごめんくださーい、と声をかけるまでもなく、横手からすーと和服を着た女性が姿をあらわした。 「あのう、尾沼というんですけれども、斎藤先生との待ち合わせで」 「はい、おうかがいしております。先生も、つい先ほどお見えになられまして」  竜介はあわてて腕時計を見たが、約束の時間にはまだ七、八分間がある。けれど、なぜおまえたちの方が先に来ないのか、そう責められているようにも竜介には聞こえた。  その和服(紺一色の仲居《なかい》服)の女性が、玄関のあがり口のところに、スリッパをそろえてくれた。  竜介が靴を脱ぎながらあたりを気にしていると、 「おくつは、そのままでけっこうでございますよ。こちらでおあずかりいたしますから」  見透かされたようにいわれた。  ふむ、こういったところでは細かいことは気にせず、不遜《ふそん》不遜でいるのが一番なんだろうなと竜介は思った。  その仲居さんに案内されるがままに、廊下に進み入った。奥にけっこう広い家のようで、かどを何度か曲がってから、二階への階段を上がった。  宴会ができる大部屋は一階、個室は二階、そんな作りのようで、二階の廊下にそっては格子戸《こうしど》が点々とある。……が、声は廊下にまでは漏れてこない。  そして格子戸のひとつを開けると、 「こちらでございますが、少々お待ちくださいね」  そういうと仲居さんは、奥にもう一枚あった板戸に耳を近づけて、中の様子をうかがう。  そこは畳一枚ほどの控えの間で、つまりスリッパを脱ぐ場所だが、そこに二組のスリッパがあるのだ。  仲居さんは大丈夫だと察したのか、 「先生、お連れのかたがお見えになられました」  明瞭に声をかけてから、床に膝をつき、その戸を開けた。  明るい光とともに華やいだ雰囲気が、わーとあふれ出してきた、かのように竜介には感じられた。  由希靉が先んじて部屋に入ると、 「いやーひさしぶりだねえ。何年ぶりかなあ。けどますます美人になったねえ」  朗らかな男の声がひびいてきた。 「先生こそ、貫禄がお出になられて、お父さまの方かと、一瞬見まちがえちゃいましたわよ」 「何いってんだ、あんなよぼよぼと一緒にしないでよ。今は山梨でひっくり返ってるんだから」  そんな口さがない冗談を飛ばしているところをみると、事前の説明よりも親しそうだな、とも感じながら、竜介が遅ればせながらで部屋に入ると、  ——ジロ、と彼にニラまれた。  その気持ちは男としては重々わかる。これが逆の立場だったら、竜介も不快な顔をしたにちがいないからだ。  斎藤は、上着こそ脱いでいるが、白のボタンダウンのシャツにIVYふうの濃紺のネクタイをきちっとしめていて、テーブルの向こう側に座っている。 「今日はですね、大学の先生をお連れしたんですよ。わたしたちのような医者では、ちょっとラチがあかないような問題ですので」  由希靉が仲をとりもち、簡単に紹介をしてくれる。  竜介は近くまでいって名刺を差し出した。 「ほう、認知神経心理学の、情報科の室長さんね」  その名刺には、講師、といった大学の序列に関する肩書は入っていない。 「まあ、どうぞどうぞ、お座りになって」  斎藤はあきらめたかのように、力ない声で、竜介に座布団をすすめる。  その彼の横には、浅黄《あさぎ》色の和服を上品に着こなしている三十歳ぐらいの女性が座っていた。戸が開いた瞬間にただよってきた、華やかさの原因だろう。店の若女将《わかおかみ》といったところか。  黒漆《くろうるし》のテーブルの上には、すでに人数分の料理が並んでいて、その彼女に食前酒をつがれて(ガラス製の酒器に入っているので冷酒だろうか)、斎藤は先に一杯やっていたようだ。  その若女将がいう。 「それでは、おビールでおよろしいですか」 「うん、そうしてくれるかな。皆もいいよね」  竜介と由希靉も、うなずいた。  すると彼女は立ち上がって、出入口の襖《ふすま》の前までいってから、こちらに向いて座りなおすと、 「今しばらく、お待ちくださいませ」  そういって頭を下げると、部屋から出ていった。  その襖は、廊下側から見ると板戸だったはずだ。  部屋には床の間があり、雪景色の水墨画がかかっていて、見事な生け花が飾られている。広さはそれほどでもないが、純和風の高級旅館のくつろげる一室といった感じだ。  斎藤が、 「だからもうちょっとしたら、もどってくるからさ。ややっこしい話はそれからね。そしていったん飲み物を運んできたら、その後はこちらが呼ばないかぎり、部屋には絶対に入ってこないから」  段取りを説明をしてくれる。 「それとさ、ここに出てる料理は、冷たいものばっかしなのね。だから熱いもんでも欲しくなったら、あの柱んとこにインターホンがあるだろう、あれで頼めばいいわけさ」  そのてんは旅館とはちがうなと、竜介は思う。 「ともかくこういったところは、客の邪魔をしない、それが決まりなのね。けどさ、ここは派閥の領袖《りょうしゅう》が使うような料亭じゃなくって、われわれ一年坊主が集まってクダ巻くところなのよ。だから値段も安くって、せいぜいひとりこれぐらいだから」  指を一本立てて、斎藤はいう。  まさか十万ってことないだろうから、してみると、そう高いわけではないなと竜介も思う。 「だから気兼ねなく、飲んだり食ったりしてってね。けどいっとくけど、料理はそう美味《おい》しいわけじゃないからね」  手を口にそえて、表情たっぷりに彼はいう。  もちろん、おもに彼女に向かってしゃべっていたわけだが、想像していた、ありがちな議員像とはちがって、気さくな人物だなと竜介は思った。  もっとも、一般人に対してはそうでないと、選挙のさいに票が集まるはずもない。  そうこうしていたら、 「失礼いたします。ビールをおもちいたしました」  襖の向こうから声が聞こえて、さきほどの若女将が姿をあらわした。  彼女は、編みカゴに入ったビールを運んできて、それもちょっと特殊なカゴだが、それを竜介の横に置いた。そこからビールを一本とり出して栓を抜き、まず斎藤、つぎに竜介、そして由希靉につぐと、そのビールをカゴにもどしてから、 「では、ごゆっくりと」  満面の笑みでいって、おなじく襖の前で座って頭を下げてから、部屋から出ていった。  竜介は、そのカゴをしげしげと見てみたが、中に銀色の袋状のものが入っていて、そこにビールの大瓶が五本すっぽりと納まっている。あー、保冷のためだと竜介は納得した。  けど、それをおれの横に置いたということは、この後は、自分がビールをつげってことか……? 「じゃ、とりあえず」  グラスを手にもって斎藤がいうので、三人で乾杯をした。  が、その切り子のグラスは、非常に小ぶりなしろもので、ひと口か、ふた口で飲み干してしまう。  仕方なく、カゴからビールをとり出して、竜介がつごうとすると、 「先生、そういったことはわたしが」  由希靉が横合いから手を出して、そのビールを奪いとった。  なるほど……竜介は理解した。  女性(由希靉)のそばにカゴを置くと、おまえが女給をやれ、と露骨にいっているようなものなのでそれはさけ、気のきく女性ならばほってはおくまいと、竜介の横に置いたのだ。いやー、いっぱしの心理学者としても、こういった店にくると、けっこう勉強になるものだなと竜介はあらためて思う。 「今だから告白するけどさ」  斎藤が、いかにも冗談っぽく、由希靉に顔を向けていう。 「おれが大学出たぐらいのときだったけど、あなたの康太郎おじいさまに、自分の孫娘を嫁にどうだ、ていわれたことがあったのよ」 「もしかして、それはわたしのことですか? そのとき、わたしいったい何歳なんですか?」 「そりゃーもう、小学校に行くか行かないかぐらいじゃなかったか」 「そんなムチャな……」 「おれもそう思ってさ、笑い飛ばして、いや、ていねいにご辞退もうしあげたんだけど、今にして思うと、道をあやまったよなあ」  心底、後悔しているようにいい、 「あのときにウンとさえいっておけば、別の人生がひらけたのにねえ」  いってから斎藤は、あらぬ方向を見つめる。  彼は、由希靉をくどいているわけではなさそうだ。  同年代の竜介としても、その気持ちには同感を禁じえない。人生の半ばをすぎた四十男がわずらう、あのときこうしておけば病、一種の妄想のようなものだからである。  由希靉は笑顔で、彼の話をうけながしてから、 「それでですね、今日は、おいそがしい斎藤先生にわざわざ時間をさいていただきましたのは……」  いよいよ本題に入る。  竜介は、テーブルの下に置いてあった仕事鞄の中から、タバコをとり出した。斎藤もタバコを吸っているので、万事、問題はない。 「わたしどもの病院に、三ヵ月ほど前から入院している、男性の患者さんに関してなんですけれど」  由希靉は、竜介たちに昨日しゃべった話を、さらに要領よくコンパクトにまとめて、説明していく。  猫の話はなしで、自称神である彼が、黄泉の国へおくろうといえば、そのとおりに人が死んだ、三つの事件を中心にして語った。  斎藤は、ひととおり聞き終えてから、 「けどさ、その彼が黄泉の国へおくろう、とはいっても、直接手を下しているわけじゃないよね。だから、人の死を予知している、予知できる、てことだよな?」  由希靉は、うなずく。  竜介も小さくうなずいた。 「それとさ、あなたからの電話があって、それを事務所の誰かがうけたんだけど、すぐに会いたいそうです、ただ事ではない雰囲気でしたよ、てそんなこともいってたんだな。そのへんから類推するに、その神さまは、とんでもない人間を、黄泉の国へ、といったの?」 「……そうなんですけれども」  由希靉が、いいにくそうにしていると、 「それ、ひょっとして、※※首相あたり?」  斎藤は聞いてくる。  竜介も一瞬、不謹慎なことが頭をよぎったが。 「いえ、そのようなお人ではありませんでして」  由希靉が、真顔で否定する。 「じゃあ、ひょっとして……これは一番最初に頭にひらめいたんだけど、いいたくなかったからいわなかったんだけど、ひょっとして」  斎藤は、テーブルに身をのり出してきて、 「その神さまは、このおれのことを、黄泉の国へ、といったの?」  食いつかんばかりの形相《ぎょうそう》でいう。 「ええ、実はそうなんです」  由希靉は、明瞭な声でいった。 「うーん」  斎藤は背伸びしてから、腕を組んで座りなおすと、目を開けたままでしばし沈黙をする。  そして、やおら竜介の方に顔を向けると、 「——先生。つまり先生は、こういったことのご専門なわけですね。予知とかいった話?」  竜介はうなずく。 「じゃ、おたずねしますが、この話には、どの程度の信憑性《しんぴょうせい》があるんですか?」  斎藤に問われ、このテーブルについてから初めて、竜介はまともに口を開く。 「信憑性は、あると考えていただいた方がいいですね」  その断定口調に、 「あ……あるんですか?」  斎藤は戸惑っていう。 「ぼくもですね、きのう初めて、この一連の出来事の説明をうけたんですよ。ですから、まだ解析途中で、彼の予知・予言に関しては、結論は出せないんですが、別角度からご説明しましょう」  竜介は、よどみのない口調でいう。 「きのう病院におうかがいしたときに、ぼくの弟子をひとり連れていったんですよ。大学の院生なんですけどもね、その彼が」  ——おまえ、ポケットの中、のいきさつを簡単に説明してから、 「もっとも、ぼくは与《あずか》り知らなかった話で、今朝聞いてわかったんですけどもね。つまり、その神さまは、そういったことも見とおせるわけですよ」 「あれは、そんな話だったんですね……」  由希靉も驚いたふうにいう。 「それって、透視したんですか? ポケットの中が見えたんだとすると、そういうことですよね。それとも、その院生の考えてることがわかった、つまりテレパシーですか? いわゆる——」 「いえ、以心伝心《いしんでんしん》、人のこころや考えが伝わるテレパシーや、中が透けて見えるような透視は、基本的には、ないと考えてください」 「ええ?」  斎藤は怪訝そうに、 「テレパシーや透視がないんだとすると、予知なんか、ますますないんじゃないんですか?」  ——語気を強めていう。 「いえ、別のものがあるんですよ。テレパシーや透視や予知などは、ものごとの表象《ひょうしょう》にしかすぎません。つまり表《おもて》にあらわれた現象を、そう呼んでいるだけのことなんですね。そのほかにも、過去透視《サイコメトリー》だとか、遠隔透視《リモートビューイング》だとか、あるいは霊視だとか、皆さん好き勝手なことをおっしゃいますが、もとになっている原理原則は、ひとつしかないんです」 「その、原理原則とやらは?」  斎藤は、なおも、うさん臭そうにいう。 「ぼくが今こうやってしゃべってますよね。するとぼくの脳では、そのしゃべりにふさわしい、さまざまな記憶を活性化させて、準備万端ととのえてくれています。だから表象だなんて難しい言葉が、ひょいと口から出せるわけですね。虚仮威《こけおど》しのために」  竜介は、種明かしをするようにいい、 「こういった、そのときどきの、その人の意識の裏で、脳がとっている反応、つまり活性化している記憶ですが、それが伝わるわけですよ。もっとも、すべてが伝わるわけではなく、人の考え、つまり意味記憶などは伝わりません。言語記憶も、ごく一部しか伝わりません。長文はダメなんですね。逆に、伝わりやすい最たるものが、映像記憶ってことになります」 「そうなんですよ。あの病院にいる神さまも、右脳の後ろ側が、そこは視覚野といって、おもに映像を管轄している場所なんですが、そこが異様に活性化していることが、脳の検査で確かめられているんですよ。だから、彼には、絵が見えているんじゃないか……それが、先生のご判断なんですけどもね」  由希靉が、補足説明をしてくれる。 「ふうん、絵が見えるってことね」  斎藤は、それはそれで納得したようにいう。 「ですから、院生のケースでは、彼の意識が考えていたことと、裏の脳の反応が、たまたま一緒だったらしく、だから表面的には、テレパシーのように、かつ透視のようにも、みえるだけのことなんですね。伝わっているのは記憶、映像記憶なんですよ。じゃ、さらに別角度からご説明しましょう」 「うっ、ちょっと待って。先生のご名刺によると」  テーブルのはじっこに置いままになっているそれを、斎藤はのぞき込みながら、 「文学部の心理学科の、てことになってますよね、先生のご専門って、理科系みたいですけど?」 「ええ、文学部には属してますが、いわゆる鬼っ子なんですよ。脳の解剖だってやりますし、もちろん死んだ脳ですが」 「どうりで、いやね、話がスパスパとしてるもんだから、疑問に思ったんですけどもね」 「あっ、今のスパスパ——これは、ぼくが脳の解剖といったから、連想で出てきた言葉だと思いますが、その最前の瞬間に、斎藤先生の脳をスキャンしたとしたならば、どんな絵が見えたでしょうか?」 「あー、それはもう、おれが包丁かなんかで、人の脳をスパッと切ってるところの絵でしょうね」  斎藤は、ちょっと楽しげにいう。 「つまりそういうことなんですよ。会話していると、脳は、言語記憶だけじゃなく、関連する映像記憶も、活性化させているわけですね」 「なるほど……」  斎藤はあごに手をやって、大納得したようにうなずく。 「そこまでご理解いただけると、つぎの例題は、いたって簡単です。たとえば、霊能力者がいたとして、目の前に座っている相談者のことを霊視し……老婆の姿が見えます。あなたの死んだおばあさんの霊ですね。これこれこういった顔をしていて、生前は、こんな食べ物が好きで……などと次々とあてていく。よくある話ですよね。じゃ、その霊能力者は、いったい何を見ているのでしょうか?」 「あー、そういわれてみれば、それは相手方の記憶ですよね。単純に——」 「そういうことです。それに、老婆とか、おばあさんとか、そういった単語に相談者の脳が反応しちゃいますから、より見えやすいといった理屈です」 「それはさっきのおれと一緒だ。けどそれって、誘導尋問っぽいですよね?」 「ええ、形を変えた、そういうことですね。そして、自身の記憶をのぞき見られて、怖がったり嬉しがったりしてるわけですから、まさに愚《ぐ》の骨頂《こっちょう》ですよね。もっとも、テレビに出てくる大半は、ニセモノですからね。……ですが、ホンモノも実在するようです。理論上も、実在できますし」 「じゃ、ちなみにおうかがいするけど、誰がホンモノなの?」 「たとえば、最近あまり出てきませんが、宜※※子さんなどは、間違いないでしょうね」 「ふうん、あの人ね。けど、どこかの教授に、けっこう叩かれてたじゃないですか?」 「それは、真実を見抜く目が、くもっちゃってるからでしょうね。それにその彼は、ひょっとしたら、クリスチャンではないのかと、ぼくはうすうす疑ってるぐらいなんですけれども……」  竜介は、尻すぼみの声でいう。 「クリスチャンだと、つまり、霊能力者は否定なんですか?」 「ええ、一個人の否定にとどまらず、この種の能力は、存在そのものが否定なんですよ。存在されてしまうと、キリスト教の教義が、根底からくつがえっちゃいますから」 「ほう——」  斎藤が、その竜介の話に関心があるように、強く声を発した。 「そうしますと、こういった現象や能力は、すべて、他人の記憶を見ている、それが結論なんですか?」  由希靉が、本筋にもどしていう。 「ええ、そうなりますね。けど、他人の記憶が見える、この結論部分だけをとり出すと、にわかには信じられませんよね」  竜介はいってから、彼女と、そして斎藤の顔を見る。 「いや、おれは信じますよ。先生の話は理路整然としていて、論旨にも破綻はないし、そこいらの政治家よりも、はるかに説得力がある」  お世辞半分だろうが、その斎藤の言葉を鵜呑《うの》みにして、竜介は先へと話を進める。 「では、予知なんですが、これも、原理原則の枠内にあるはずで、その延長上といった方が適切かもしれませんが。じゃ、どのような場合なら予知が可能なのか……たとえば、空から隕石《いんせき》が落ちてきて、それにあたって、特定のひとりの人が死ぬ。これはどう考えたって、能力者がどう頑張ろうが、予知不可能ですよね。これは極端な例ですが、つまり偶発的な事故死は、予知できないと考えた方がいいですね。逆に、予知ができそうな人の死は」 「あっ、なんとなくわかってきましたよ」  竜介の説明にわり込んで、斎藤はいう。 「予知も、他人の記憶がベースなんだから、つまり未来の記憶のようなものが、構築されていればいいわけですね。てことは、人殺しの計画が練られているような場合、てことですか?」 「ええ、そのとおりだと思いますね。たとえば、ケネディー大統領の暗殺のさいに、ダラスは危ないと、事前に予言をした女性がいたんですけれど」 「ジーン・ディクソンですね」  間髪を入れずに名前が出てきたので、竜介は、少し驚いてから、 「その事件も、狂信者ひとりの犯行というよりは、多人数がかかわった、練りに練られていた大がかりな暗殺事件であった。そう考えた方が、辻褄はあいますよね。その方が、予知しやすいですから」 「うん、もっともだな」  斎藤は軽くうなずいてから、 「けどさ、それをいったん我が身においてみると、これはおれの問題だからさ。そんなご大層な暗殺計画なんて、どうしておれが、そんなのの標的になったりするの? それに天地神明《てんちしんめい》に誓っていうけど、人の怨《うら》みをかったような覚えは……」  しばらく考えてから、 「人から殺されるほどの怨みをかった覚えは、おれにはないよ。それに尾沼さんはご存じだと思うけど、おれは三十すぎまで、サラリーマンをやってたんだから、ふつうの、とまではいえないけど」 「たしか……広告代理店でしたよね」 「そうよ。おれはCM作ってたんだから。だからそのときだって、怨みをかうような仕事内容じゃないよ」  そうないよないよと連発されても、竜介としては、同意も否定もできかねる。原因はみずから見つけていただくしかない。なので、竜介は黙っていると、 「おれはもともと、政治家になるつもりなんて全然なくって、だからサラリーマンやってたんだけど、親父が……病気になっちゃって、それも脳梗塞《のうこうそく》ね。会話がしづらくなったのよ。これは政治家としては致命傷だろう。それで急遽《きゅうきょ》、かつぎ出されちゃったわけね。もっとも、おれはうかろうなんてつもりは毛頭なくって、事前の選挙活動なんか、いっさいやってないんだから。だから一度落ちたら、まわりもあきらめてくれることだろうし、会社にもどってきてもいいと、裏約束までしてたぐらいなんだから。それがどうしたことか、同情票を集めて、うかっちゃったのね」  斎藤は早口で、今にいたっている経歴を(それは彼女はある程度は知っているのだろうから、竜介に教えるために)まくし立て、 「おれも二世議員であるにはちがいないんだけど、そういった人の場合、先輩議員の秘書を何年か経験してから、政界にデビューをはたす、それがふつうなのね。おれはそういったことも全然やってないの。この世界のどろどろとしたのは……親父《おやじ》はあったろうが、おれも知らないとはいわないけど、直接は関係ないのね。年数も、ごくごく浅いことだし。だから、おれには思いあたることがないのよ。どう過去をふりかえったってえ」  首をかしげ、怒り泣いたような声でいう。  竜介としては、相変わらずコメントのしようがなく、黙りこくっていると、 「それはもう、斎藤先生にかぎっては、人から怨みをかうようなことはないと思いますけど、万が一にそなえて、厳重に警護してもらう、それをなさっていただかないと、わたしたちが今日おうかがいした意味がありませんわよ」  由希靉が、しごく現実的なことを提案する。 「いや、そう簡単にいうけど……」  斎藤は困った顔で、 「これが山梨だったらなんとかなるけど、今いるのは東京だろう、わがままきかないのよ」 「先生には、いつも何人ぐらい護衛がついておられるんですか?」 「そ、そんな……」  斎藤は顔を両手でおおい、 「SPは、衆・参議長と大臣以上、そして元首相と各党の党首ぐらいにしかつかないのよ。ペエペエのおれにひとりだってつくわけないだろう」  泣き笑いながらいう。  由希靉は驚いた顔で、 「ええ? そんな状態なんですかあ」 「そうよ。それで電車に乗って国会にかよってる議員もいるんだよ」 「うそっ……」 「ほんとさ!」  斎藤は絶叫ぎみにいった。  竜介としても、そういったのは初めて聞いた。  アメリカの上院議員ともなると、SPが何人もついている様子を映画などでよく見るが、日本は、まだしも治安はいいといったとこなのだろうか。 「もっとも、おれは電車じゃなくて車だけどさ、防弾ガラスでもなければ、ましてや爆弾よけがついてるわけでもなく、ふつうの車だよ」  ふつうを強調し、嘆き声で、斎藤は愚痴《ぐち》をつづける。 「それにさ、東京にある家も、親父の代から使ってるやつだからボロッちくて、最近物騒だから気にはなってたんだけど、だからといって、即座にどうすることもできんだろう……」 「あ、そうか、家の前に護衛が立っているようなのも、大臣クラスの家なんですね」 「そう、そういうこと……」 「もちろん、警備会社とかには入ってますよね?」 「いちおうはついてるけど、あんなのダメさ。プロの手にかかれば、あっさり切られちゃうよ」  斎藤はかなり悲観的で、 「そもそも暗殺計画なんだろう。そんな手抜かりがあるわけないじゃんか!」  なかば自棄《やけ》になっていう。 「じゃ、斎藤先生、こういったのはどうですか」  由希靉が、なだめ諭すようにいう。 「先生のところに、何度も脅迫《きょうはく》電話がかかってきている、だから護衛をつけてくれっていうのは?」 「んーん」  斎藤はふたりの顔を見まわして、 「おれにウソをつけってか、しかもお上《かみ》に対して。そんなこと、ほんとにやっていいと思う? というより、やるべきだと思う?」  真剣な顔で聞いてくる。 「それはもう、それで護衛がつくんでしたら、やるべきだと思います。わたしは——」  由希靉は断固として主張する。 「ちょっと考えさせて」  冷静な声でいうと、斎藤は目をつむった。  由希靉が、竜介の方に顔を向け、 「きのう、いいそびれてしまった話があるんですけれど、廊下ですれちがった女性がいましたでしょう。わたしの……叔母」  ささやき声でいう。 「その彼女に向かって、彼が、こんなこともいったんですよ。あなたは、船が嫌いなのか? いえ、正しくは、おまえは、でしょうけどもね。そして、真っ白の船が停泊している様子を語って、その船が火事で燃えている。そこに男がひとり乗っていて手をふっているけど、おまえは、助けようとはしない。そんなことをいったらしいんですね」  ふむ? いったい何の話だろうかと竜介が思案していると、 「それって、満子《みつこ》おばさんのことじゃないの?」  斎藤が、話に加わってきていう。 「ええ。それに叔母は、一度失敗しているのご存じですよね」 「うん、聞いて知ってるよ。けどたしか、前の旦那さんは、高級クルーザーかなにかを輸入してた会社の若社長じゃなかったの」 「まさか……」  竜介が口をすべらし、 「まさかじゃないですよ。叔母が離婚したときには、その若社長さんは生きておられました。その後は知りませんけれど、亡くなられたという話は、ましてや火事で死んだなんて話は、聞いてません」  由希靉に訂正をされ、 「ですが、まさに、叔母のこころの中を彼によみとられた、て感じはしますよね。もっとも、こころは見えないでしょうから、そういった願望でもあって、願望というのもあれだから、葛藤があって、構築されてしまった記憶……なりを」 「へー、その彼は、そんなものまで見えるのか」  斎藤は、今さらのように、驚きあきれたふうにいう。  なぜ彼女が今こんな話を(しかも身内の恥をさらしてまで)したのか、竜介にはわかった。  ——神さまの、そら恐ろしさを斎藤に知らしめ、相応の決断をうながすためだ。 「もっとも、これは叔母から直接聞いた話じゃないんですよ、当然ですけども。ナースが一緒に聞いていて、わたしにこそっと教えてくれたんですね」  由希靉はうちあけ話をしてから、 「そうそう、このときにも、彼は神さまの名前をいったらしく、それが、あのマタラソン。先生から、摩多羅神だと訂正をうけたあれです」 「あっ!」  ——竜介が手を叩いた。 「なんですか……?」 「いや、摩多羅神というのはですね、天台宗《てんだいしゅう》の僧侶の円仁《えんにん》が、唐に渡っていて、その帰りの船で大嵐に遭《あ》い、船が沈没しかかって三途《さんず》の川に片足をつっ込みかけたとき、われは摩多羅神なり、とあらわれた神なんですよ。だから、船とは、縁があるんですね」 「なるほど。そうすると状況にあわせて、神の名前を使い分けているわけですね」 「みたいですね。なかなか、賢いですよね。神さまにそんなこというのは失礼だけど……」  竜介は冗談めいたことをいいながらも、あの『ンラムージン』が解ければ、何かしらわかるかもしれないとは思った。 「じゃあ、おれの場合、どんな神さまだったの?」  斎藤が、当然のこととして聞いてくる。 「それが……聞きそびれてしまいまして」  由希靉は顔を伏せていいながら、横目でチラッと竜介を見る。 「じゃ、さっきのマタラジンとやら、おれは初耳なんだけど、これはどんな神さまなんですか?」  斎藤が聞いてくる。 「それは、さらに話の続きがありまして、船の上にあらわれた摩多羅神が、おまえの胆《きも》を食ろうてやる、食らわれたものは往生《おうじょう》を遂げられるが、そうでないものは往生ができない、だからわしのことを崇敬しろ、と円仁にせまったわけですね。そして円仁が承諾すると、不思議にも、船は港についていた、といった逸話なんですよ。こういったのを、障碍《しょうがい》の神、ともいいますが、障害物とおなじで、さまたげの神、そんな意味ですね。つまり、人の往生をさまたげるわけです。が、これは正反ふたつの考え方になり、この世に未練がある人は、その摩多羅神に、胆は食われたくはないわけで、けれど往生、すなわち極楽《ごくらく》往生できる、と考える人にとっては、どうぞ自分の胆を食ろうてください、そんなありがたい神さまにもなります。そして、円仁は、その神の信仰を広めたわけですが、もっとも、これは天台宗の中だけのマイナーな話ですね」 「ほう……」  斎藤はいたく感心した様子で、 「往生ねえ。じゃ、それにちょっと関係して、ひところバカな教祖が、ポアしろポアしろと、盛んにいってましたよね。あれはどういう意味ですか?」 「もちろん、人を殺せ、なんて意味はありませんよ。漢字をあてるなら、転移、がふさわしいでしょうかね。異世界に転移する、六道に転生《てんしょう》する、そういったのがポアですね。もちろん、これはチベット密教《みっきょう》の用語です……たとえば、『ポアの瞑想法』と呼ばれるものがあって、チベットの最終|奥義《おうぎ》のひとつでもあるんですが、皆さんもご存じだと思いますよ」  竜介は、人を食ったような言い廻しをする。 「ええ? そんなの知りませんよ」  由希靉も、首をふっている。 「その、さっきの教祖のところで、息を止めて水中に長時間もぐっている、そんな修行をやっていたの、記憶にありませんか?」 「あー、テレビで見ましたね。ひとりの信者が水ん中にもぐって我慢してて、やっとの思いで水から顔を出すと、うーん七分か、おまえはまだまだ修行がたらんな、一時間ぐらいは入っとかんと……とかバカなこといってたはずですよ」  そんな細かなところまでよく覚えているなと、逆に竜介は感心しながら、 「そう、それが『ポアの瞑想法』なんです。が、どれだけ長時間もぐっていられるか、時間をきそうのが目的じゃないんですよ。ああいったことをやっていると、当然、酸素欠乏になりますよね。脳にも、酸素がいかなくなります。すると、ちょっと不思議なことがおこるんですよ」  由希靉が、知っているかのようにうなずいた。 「人が、死にゆくとき、先に心臓が停止したとすると、おなじく、脳は酸欠になりますよね。そうすると、いわゆる臨死《りんし》体験、もしくは幽体離脱《ゆうたいりだつ》、そういった感覚をあじわうはずです。つまり、それを生きながらにして体験しよう、それが『ポアの瞑想法』なんです。もっとも、水中にもぐらなくっても、首をしめても……やり方はさまざまにありますが」 「なるほど! あれはそういうことだったんですねえ」  斎藤は積年の謎がとけたようにいい、 「それと、せっかくだからおたずねしますが、金縛《かなしば》りになったら、枕元に幽霊が立っているのが見えて、すると知り合いの人間が死んでいた。こういうのはどういう理屈なんですか?」  ——さらに聞いてくる。 「それは、かなりむずかしいですよ。まず大脳生理学的な、脳幹網様体《のうかんもうようたい》における上行システムと下行システム、およびバイパス回路の存在。そして、いわゆる金縛りは、入眠時幻覚ですから、シーター波の真の役割。さらには、見えている幽霊は反転映像ですので、ネガ・ポジの幽霊のメカニズム。それらを説明しなきゃなりませんから、はしょっても一時間はかかりますよ」  竜介としては、めんどくさいものだから、あえて難解な言葉を並べる。 「じゃ、それはまた別の機会にでも。それらとはちょっと毛色がちがうんですけど、どでかーい仏像に、頭からミルクやらなんやらをぶっかけているような、あれは何の宗教なんですか? たぶんインドだったと思いますけど」  斎藤は、さらに聞いてくる。 「それはですね、ジャイナ教ですね。虫一匹、いや、細菌すらも殺さないような不殺生《ふせっしょう》が教義の中心で、開祖の名前は……忘れましたが、釈迦《しゃか》と同時代の人ですね。インドでは仏教は滅んじゃいましたが、そのてんジャイナ教の方が優秀なようです」 「じゃ、くっだらない話ですが、映画の『インディ・ジョーンズ』で、火を崇《あが》めていた、おどろおどろしい邪教の神が出てきましたよね。あれは何かもとにしている宗教があるんですか?」  斎藤は、なおも聞いてくる。 「それはですね……火を拝むと書いて、拝火教《はいかきょう》。すなわちゾロアスター教で、紀元前のササン朝ペルシアの国の宗教ですね。それプラス……ゾロアスター教から派生したところの、マニ教。これは三世紀ごろで、開祖はバビロンの出の、マニさん。このあたりをモデルにしてるんでしょうね」  竜介も、さすがに疲れぎみにいう。 「はっはーん」  斎藤は高らかにうなずいて、 「いや、ちょっと前にですね、先生がキリスト教に関して、えらく独断的なことを、さも当然であるかのようにポロッと口に出されたので、あれ? この人は、その種のことにめちゃ詳しいのかなと、ふとひらめいて、そしたら案の定でしたねえ」  ひとりで合点《がてん》してから、 「いやね、おれが選挙にうかった直後、ここだけの話として正直にいいますけど、政治家としてのビジョンが、自分にはいっさいないことに気がついて。実際的には、国政の場で、おれはいったい何をやったらいいのかって話です。で……おれの地元は山梨じゃありませんか。そこでは、大変な事件があったでしょう?」 「あー、まさに地元ですもんね」 「そうなんですよ。だから山梨県人のためにも、ここはひとつ、カルト撲滅《ぼくめつ》委員会でも立ち上げてやろうじゃないか! それならおれでもできそうだ、とそうひらめいたわけですよ」  竜介は、なんとなく話が見えてきた。 「それで、とりあえず付け焼き刃で勉強しましてね、先ほどの失礼な質問の数々は、そのへんからひねり出してきたんですが、もちろん、想像だにしていなかった、はるかに深い答えがかえってきましたですが……何人かの高名な宗教学者とも会って、話を聞いてみたことがあるんですよ。そのカルト撲滅委員会の、ブレインになっていただこうと思いましてね。ところが、たしかに詳しいんですけど、話がにっちりくっちりしてまして、こう……おれが想像してたような、切れ味ってもんがないんですね。悪いとこは悪い、いいところはいい、この理屈はああなってて、だからダマされるなよ、ときっぱりといい切れる専門家なんて、いないんだなーと思っていたら、こんなところにいたじゃありませんか!」  ——竜介を指さす。  竜介がのけぞっていると、さらに斎藤はいう。 「どうやったら、カルトを撲滅できるのか? おれなりにも考えてみたんですが、たとえば、やつらの教義の誤謬《ごびゅう》をつく。けどこれは、ほぼ不可能なんですよ。カルトの教義なんて、もともとウソやデタラメで構成されてるんだから。それに既存の大宗教だって、そのてん大差ないですからね。じゃ、やつらが犯罪をおかすまで待って、警察に叩いてもらう。けどこれも、山梨のように、あそこまで大事件にならないと、警察は動けないんですから。それに逮捕者が出たからといって、教団そのものはつぶれません。じゃ、どうすればいいんだ? そこでおれが思うには、要するに、信者をなくせばいいわけですよ。その信者たちは、何が楽しくてカルトなんかに入るのか? その目的はひとつ、不思議、それが体験できる。もしくは、体験できるかもしれないと、だまされる。これにつきると、おれは思うんですよ。だったら、その不思議をぶっこわせばいい。そんなの不思議でもなんでもないと、理屈を説明しちゃえばいい。——先生、まさにぴったしなんですよ」  由希靉も、 「それに先生の本来のご専門は、認知神経心理学で、人の脳ですからね。それでいて、予知とか霊視とかの研究もなさっていて、なおかつ宗教にもお詳しいとなると、もう鬼に金棒《かなぼう》じゃありませんか」  一緒になって、ヨイショしていう。 「いやー、尾沼さんも、いい人紹介してくれたよな。このカルト撲滅委員会は、まだ生きてますからね、おれの中では。ですから、そのおりには、先生には是非、ブレインになってくださいね」  斎藤は、頭を下げていう。  会った瞬間はニラんだくせにと思いながらも、 「いやいやいや……」  竜介が恐縮していると、 「あっ、それもこれも、おれが先々まで生きていての話だよなあ」  斎藤は、風船がしぼんでいくかのように元の木阿弥《もくあみ》にもどり、 「さっきさ、考えてたときに、聞きたいことをひとつふたつ思いついてて、まずさ、今までの予言では、神さまがいってから何日ぐらいで、現実化して、人は死んじゃうの?」  力ない声でたずねる。 「それは……まちまちなんですけれど、長くても、一週間以内だと思っていただいた方がいいですね。一番短い場合ですと、午前中に彼がいって、事件がおこったのは、そのおなじ日の夜でしたから」 「あちゃー……」  斎藤は頓狂にいい、 「ここに来るときさ、この前の道って車が入りづらいだろう、だからコロンビア通りで降ろしてもらって、とろとろと店まで歩いてきたのよ」  由希靉が目を見開いて、 「もしかして、おひとりでですか?」 「そうよ。……あぶなーい!」  斎藤が、彼女が発するべきことをいった。 「そんな危ない話、冗談じゃありませんわよ。せめて秘書の方とでも一緒に行動していただかないと」  由希靉は真顔で、怒っていう。 「そういわれてもな、おれの秘書のうちの男ふたりは、親父の代からの秘書なのね。だから議員活動では頼りになるけど、親父とおなじくよぼよぼなのよ。おれの方が、よっぽど強い」  二の腕を前につき出して、斎藤は誇示する。  そういわれてみると、彼は小太りぎみではあるが、体育会系の体つきだ。学生時代には何かのスポーツで鳴らしたのだろう……かく思った竜介の方は、見るからに優男《やさおとこ》で、喧嘩など端《はな》から考えになく、一目散《いちもくさん》に逃げるタイプであろう。  由希靉が、あらたまった口調で、 「斎藤先生、先ほどの、わたしの脅迫電話のアイデアですけれども、どうなりました?」  確認の意味を込めて聞く。 「いや、それはさすがにできない。けど、別のことをちゃんとやるつもりだから……それとさ、それに関係するんだけど、その神さまの予言は、こちらがガードを固めて防いだとした場合、時間切れ、いわゆる時効といったことになるの?」 「それは……」  由希靉が、竜介の顔を見る。  竜介としても、それは正直いって、考えてはいなかったことであるが、 「こちらがガードを固めていると、敵は手が出せませんよね。けど、スキをずーっとねらっている可能性も大で、けっきょく、時効はないのかもしれませんね。その原因となる敵を見つけ出して、排除しないかぎりは……」 「ですよね。おれもそう思ってさ、だからあなたの、脅迫電話の狂言《きょうげん》では、時間がもちそうにないのよ。それで護衛をつけてもらっても、せいぜい一ヵ月が限度だと思う。だから別の手しかないのね」 「別の手といいましても、どんなのをお考えなんですか?」  由希靉は、心配そうに聞く。 「いや、おれさ、武闘系の知り合いがけっこういるのよ。会社勤めのときの友達には、外人部隊にいた猛者《もさ》もひとりいるし。そいつは銃器、狙撃《そげき》、爆弾、さらには神経ガス、それらの専門家だから、その彼にも助けてもらう。そのあたりを考えられるかぎり集めて、私設SPを作る。それに家にもひとり、必ずいてもらうし、車にはもちろんだけど、そうやって厳重にガードしてもらう。これ、ほんとにやるからね、心配しないでね」  斎藤は念を押して、やさしく由希靉にいい、 「だってさ、ちょっと運命の歯車がちがってたら、嫁さんになっていたかもしれない人を、悲しませたりは、したくないからね」  そんな冗談をいうと、すっと席から立ち上がって、どこへ行くのか……と見ていると、インターホンの前まで行って、なにやら小声で注文をした。  若女将が、大皿に盛られた料理と、そして、なんとシャンパンのボトルをもって部屋に入ってきた。 「それ、尾沼さんが抜いてね、景気よく、天井ぶっこわしてもいいからさ」  その斎藤の上機嫌ぶりに、 「なにか、おめでたいことでも、おありになったんですか」  若女将はにこやかにいう。 「それがそれが……実は、まったくの正反対なんだけどさ……」  斎藤がバカ笑いしながらいうので、竜介も笑った。  ——ポーン!  由希靉が、若女将に手伝ってもらって、シャンパンの栓を勢いよく飛ばした。そのコルク栓は斎藤のご命令どおり天井にあたり(蛍光灯の明かりはさけて)、壁にはねかえってから座敷にころがった。  ——厄《やく》落とし、といった感じか。  三人のシャンパングラスを、若女将がテーブルにととのえていると、 「これが、この店の名物料理ね」  斎藤が、大皿のそれを指さしていう。  ひと口大の魚の切り身の、唐揚げか、天麩羅《てんぷら》か、その中間のような揚げ物である。 「ほうら、三人とも、刺し身を食べ残してるだろう。それを裏にこそっと下げて、揚げてるんだとおれは思ってるんだけどね」  若女将が大きく首を横にふって、 「たしかに、お刺し身に使うお魚なんですけれど、お刺し身には、形のいいところしか盛りませんよね。その使い残しがもったいないでしょう。ですから、もともと賄《まかな》い料理なんですよ」  いわれてみると、魚の尻尾の部分などが多い。 「そこに絵の具みたいに、塩、カレー粉、胡椒《こしょう》、唐辛子、いろんなのが並んでるだろう。その好きなやつをつけて食べるのね」  斎藤が、食べ方を伝授してくれる。 「ちなみに、おれは塩とカレー粉のミックスが一番なんだけどさ。このサクサク、とした感じが、美味しいんだよな」 「これはすごく単純でして、片栗粉をまぶして揚げているだけなんですよ」  ふうん……それでこんな感じになるのだと竜介も理解した。自身で作れるかどうかは別として。  若女将がシャンパンをつぎおえ、細身で薄っぺらいシャンパングラスを銘々が手にもって、 「カンパーイ!」  その儀式を笑顔で見届けると、若女将は部屋から出ていった。  男ふたりはいうに及ばず、由希靉もけっこういける口のようで、その口あたりのいいシャンパンをまたたく間に空にし、 「もう一本たのもうか——」  などと斎藤は豪気なことをいい、 「そうそう、名前、竜介さんですよね、おれ信介なんですよ。介介どうしじゃありませんか、今後ともよろしく——」  そんな漫才コンビのようなことまでいって、場は大いに盛り上がり、すっかりほろ酔い気分になった三人だが、気がつくと、時間は十時をすぎていた。      ※  帰りは、斎藤もさすがに、店の近くの道まで車を呼びつけた。それは彼専用の送迎車である。  斎藤は、後部座席に座るや、携帯電話をとり出してメモリーを探してみたが……やはり記憶されていなかった。連絡をとりたい相手は、友人の武闘家である。酒の席でもちらっと語ったが、そのてん、彼も本気なのだ。が、名前は熟知しているのだが、道場の名称はうろ覚えで……天神《てんしん》なんとか流……それでは一〇四でも、ちょっと無理っぽい。  そうこうしていたら、手に握りしめている携帯電話の着信音が鳴った。出てみると、 「あー、親父……」  父親の斎藤|信之輔《しんのすけ》からの電話であった。  が、彼は、妙なことを口走る。 「ええ? 何のこと?」  再度おなじようなことをいうと、一方的に電話を切られてしまった。  何馬鹿なこといってんだ、あの親父、それをいいたいのはこっちの方だ。そうも斎藤は思ったが、父親は、こんな奇妙なことをいったのである。  ——自分にもしものことがあっても、心配無用。 [#改ページ]  7  ——日曜日、午後二時、大宮公園駅の改札。  それが約束だったはずなのに、その二時をすぎても、土門くんはいっこうにあらわれない。  何度か彼の携帯電話にもかけてみたのだが、電源が入っていないか電波が届かないところに……の一点張りだ。切ってやがるのかもしれない。まな美は不審に思いながらも、約束の場所と時間をいい間違えたかしら、と一抹《いちまつ》の不安も感じつつ、じりじりしながら待っていると——  二時半になって、ようやく姿をあらわした。遠くからでも目立つ、真っ黄色のスタジャンを着て。 「なにやってたのよ! 土門くん家《ち》がある岩槻駅は、たったの三つ先でしょう」  まな美が、かみつかんばかりにいうと、 「やー、姫わからへんかった? 自分、反対側の電車に乗ってきたんやで」  わけがわからない言い訳を、土門くんはする。 「どうして反対側なんかに乗ってるのよ!?」 「そやから姫から電話があったときにいうたやんか、今日はピアノのレッスンやって」 「なに馬鹿なこといってるの——」  そんな冗談とはつきあってられない、とばかりにまな美は急ぎ足で駅の階段をかけおり、わずかな商店街を抜けて、町中へと入っていく。 「そやそや、ここは盆栽町《ぼんさいちょう》やんか。かえで通り、けやき通り、もみじ通りとかがあって、盆栽公園とか盆栽村とかもあんねんでえ」  土門くんが近所のよしみで説明してくれる。  そういわれてみれば、家並みもどことなく風流で、ちょっと変わった町のようにも見える。  歩きながら土門くんが、 「ド、ミ、ソ、ミ、ド……」  なにやら口ずさんでいる。  いかにもって感じなので、まな美は聞いてあげる。 「ちょっとは上手《うま》くなったの?」 「そう急には無理やで、まだ始めて二ヵ月ぐらいやねんから」  平然と土門くんはいう。 「ええ?」 「姫、自分の話ぜんぜん信じてへんでしょう。自分そんなに姫さまに嘘ついてきたかなあ? そんな記憶もぜんぜんあらへんぞう」  土門くんは咎《とが》めるようにいってから、もっていた手提《てさ》げ鞄の口をひらいて、中をまな美に見せる。  歩きながらのぞき込んでみると、 「あれ? それバイエルじゃないの……」  まな美も幼少の砌《みぎり》に、その薄緑色をした楽譜をたずさえてピアノの先生の家にかよった覚えがある。 「そやから何度もいうたやろ。今日はピアノのレッスンがあったんや!」  土門くんは勝ち誇ったようにいう。  まな美も、ようやく信じたらしいが、 「へー、ほんとに習っていたの、いったいいつごろから始めてたの?」 「それさっきいうたやんか! 二ヵ月前やいうて! 姫、健忘症《けんぼうしょう》ですかあ。それとも、自分のいうたことなんかぜんぜん聞いてへんねやろう、右の耳から左の耳やねんなあ」  すねて土門くんはいい、道の上のありもしない石ころをける。 「いつも聞いてあげてるじゃなーい。このあいだのスター・トレックの話だって、ちゃんと覚えてるわよ。セブンオブナインとかいう女性の死体の頭から、トランスミッターを剥《は》ぎとったんでしょう」  その話の印象が強かったので、まな美は覚えていたのであったが。 「おう、そうやそうや。そのセブンオブナインって、すっごいグラマーで美人やねんで。そやけど、その女性は生きとんねんで、過去を変えたからな——」  土門くんはあっさりと機嫌をなおしたようで、 「けど、どうしてまたピアノなんか習う気になったの? それもこんな歳になって?」  まな美は聞いてみる。 「それにはやな、実は、すんごいおもしろい話があんねん。いつか姫にせなあかんあかん思とったんやけど、姫とは最近ご無沙汰ぎみやったし」  土門くんはひがみっぽくいってから、 「あんな、ある夜の夢に、ある人が出てきはって、そのある人がやな、自分の手を見るなり、きみのその巨大な手はなんだ。今からでも遅くない、シューベルトの例もある、ピアノを習いなさい! いわれたんや」 「要するに、夢のお告げってことね」 「単なる夢ちゃうぞう」  いいながら土門くんは、その巨大な片手をパーにひらいて、歩いているまな美の鼻先につき出す。 「今さら見せてくれなくっても」  その手をよけながら、 「それが正夢《まきゆめ》だったとでもいうの? そんなの大きな手であることは、土門くん自身が一番よく知ってるじゃない」 「いや、そういうこととちゃうねん。ピアノを弾《ひ》くには大きな手が有利やいうことを、自分はまったく知らんかったんや。そんなん興味もあらへんしな。そやけど、この夢自体がおもろかったから、それをおかんに話したんや。おふくろが家で、和服の着付け教室をやってんの知ってるやろう。そこで、この話をまたしよったんや。すると生徒の中にピアノの先生がいてはって、坊《ぼん》ちょっと来てみー、どれどれ手え見してー、いわれたもんやから」 「それで坊は手を見せたのね、先生に」  土門くんの話がにっちりくっちりしてるものだから、まな美は短気をおこしていう。 「そうやねん。するとその先生が、目え丸うして驚きはって、これはリストの再来かもしれないー、それに手の大きさだけちごうて、才能もあるかもしれへんから、一度うちに習いに来なさいーいうて、話がとんとん拍子に進んだわけや」 「けど、どこか、悪いセールスにつかまっちゃったような気も」 「なにいうてんのん。レッスン料はただやし、このバイエルかて古いのん借りてんねんで。才能がありそうかどうかを見極めてもらってから、習うんやったらちゃんと習いましょ、そういう話やねん」 「すると才能はあるって、でたの?」 「そんな結論を早う、ださんといてえなあ、たかだか二ヵ月やぞう」  きみには才能はないと見切られるのをおそれているかのように、土門くんはいう。 「ちなみに聞くけど、指をいっぱいにひらいたら、鍵盤《けんぱん》はどのくらい届くの?」 「えーとね、ドからソぐらいかな」 「うそっ……」 「自分昔バスケやっとったやろう、そのときにボールをわしづかみにしとったから、その関係で指がひらくんや。これもなんかの思《おぼ》し召しやでえ」 「……わたしなんかどう頑張ったって、一オクターブがやっとだったのに」  まな美は歯ぎしりしていう。 「姫もピアノ弾きはるん?」 「それこそ昔の話よ。親戚にピアノの先生がいるから、代々みんな習わされてるのね」  土門くんは、なーるほど、とうなずいてから、 「さあて、その夢に出てきて自分にピアノを習え、といいはった、ある人、その人がすごいんやあ」 「どうすごいの?」 「その人は誰あろう、驚いたらあかんで、姫のパパさまやったや」 「なにいってんの土門くん?」  まな美はあっけにとられて、一瞬、歩くのを忘れる。 「これはほんまの、ほんまの話やねんでえ」  土門くんは力説していい、 「そやけど、自分の夢に姫のパパが出てきはったということは、やっぱり、ふたりのこれからのバラ色の人生を暗示しているのかも」  まな美は素知らぬ顔をしながら、 「最近パパが家に寄りつかないと思っていたら、そんなとこで油売ってたのねえ」 「なっ、なにいうてはんのん姫……」  そうこうしていたら、目的の家が見えてきた。  駅から歩いて四、五分で道順もいたってわかりやすいと、まな美が電話で教わったとおりであった。 「あのお家《うち》ね」  車道に面して、四つ辻の一隅を囲んでいる石組みの塀を、まな美が指さす。 「ほう、お屋敷っぽいですよね。庭も広そうやし」 「そして目印が、これ——」  薄紅色《うすべにいろ》をした八重の花をたくさん咲かせている木が、塀から頭を出していて、それが何本も立ち並んでいる。 「これ見たことあるな、冬にときどき切り花で使うんや。たしか、乙女椿《おとめつばき》いうたんちゃうかな」  父親は骨董商《こっとうしょう》、母親は着付けの先生といったお家柄、土門くんはあれこれと知っている。 「うわー、ぴったしの名前だわよね」  まな美が嬉しがっていると、 「そやけどこういうのはだいたいが、ぼてっと落ちるんやで」  いわなくてもいい悪口を、土門くんはいう。  ちょっとした花見気分を味わいながら塀に沿って行くと、立派な構えの家の表門があった。  まな美が表札を確認しながら、 「……見城《けんじょう》さん。間違いないわね」 「そやけど、時間けっこう遅れてるぞう」  他人事《ひとごと》のように、土門くんはいう。 「大丈夫。二時半のお約束だから」 「ありゃ、最初から鯖《さば》よまれてたの?」 「当然じゃない。だって、土門くんに事前説明しなきゃと思ってたから、お茶でも飲みながら」 「なるほど、じゃ、その事前説明とやらは?」 「なし——」  まな美はこわい顔でいうと、インターホンのボタンを押した。  返事が聞こえたので、まな美が顔を寄せていう。 「あのう、電話でお約束していた、M高校の歴史部のものなんですが」 「はいはい、お待ちしておりましたよ。すこし待ってくださいね」  かすれぎみの嗄《しわが》れた男の声であった。 「……おじいさん?」  土門くんが小声でたずねる。 「うん、電話の感じでもそうだったわね。でも歳なんて聞けないでしょう、顔も見ていない人に」  三十代とおぼしき普段着姿の女性があらわれて、門の扉を開けてくれた。 「どうぞこちらへ」  案内されるがままに、ついていっていると、 「大旦那さまはですね、お体のぐあいが……少々あれでございますから、興奮なさるようなお話は、さけてくださいね」  その女性から注意をうけた。  土門くんが、 「ぼでぃーがーどが、なんで要《い》るんや」  ごくごく小さな声でつぶやく。  家は煉瓦タイルの壁のどっしりとした外観の二階建で、少し古びているようだが、玄関も洋風だ。  靴をぬいでスリッパにはきかえ、そして、ふたりがとおされたのは、陽の光が燦々《さんさん》と入ってきている、広くて明るい応接間であった。  その窓を背にしている長椅子に、焦《こ》げ茶のガウンをはおった痩身の老人が、座って待っていた。 「わざわざ、よく来ていただきましたね」  見城老人はにこやかに顔を向け、ことのほか嬉しそうな声でいう。かたわらには洒落《しゃれ》たステッキが、長椅子に斜めに立てかけられてあった。 「いえいえ、こちらこそ、無理なお願いを聞いていただきまして」  まな美が頭を下げていい、土門くんも、なんだかわからへんけどお辞儀をした。 「まあ、どうぞどうぞ、お楽になさってください」  そうすすめられて、ふたりも応接の椅子に(大きなテーブルを囲んで椅子はたくさんあり、どっちがどこに座るのかとぶつかりながら)腰をおろした。 「コーヒーがよろしいですか、それとも、お紅茶がよろしいでしょうか」  先ほどの女性が、部屋の扉付近に立っていて、問いかけてきた。  ふたりは顔を見合わせてから、 「コーヒーを——」 「お紅茶を——」  それぞれ別のことを同時にいう。  女性が、え? と聞きかえしたようなので、 「お紅茶をいただきます、ふたりとも」  土門くんが折れていった。  ふたりが座った正面には、乱舞しているがごときの乙女椿の花が、窓一面に見えている。  が、土門くんは部屋の中が気になる様子で、右手の壁に置かれている洋風の飾りケースに顔を向けながら、 「やー、さすがにええもん置かれてはりますよね。あの絵付けの大皿はマイセンですよね。横の花瓶は、たぶんセーブルかな、その下はロイヤルコペンハーゲンの花のシリーズですよね」  さっそく目利《めき》きをしていう。 「おっ、天井にはなんと、ガレのシャンデリアが」  わざとらしく、さらにいう。  見城も驚いた顔で、 「歴史部さんというところは、そういったことをお勉強なさるんですか?」 「いえいえ」  まな美が大きく手をふって、 「彼は、骨董屋の坊なんですよ。けど土門くん家《ち》は、日本のものじゃなかったの? 古伊万里とか」 「いや、こちらに置かれてはるのは、洋ものでも有名中の有名なもんばっかしやから、自分でもわかるんや」  見城は、どうりで、とうなずいてから、 「だけど、これはガレじゃなかったはずですがあ」  と天井を見上げる。  それは、ひとかかえほどもある白く濁った半球状のガラスに草花が茶色で描かれていて、それが三本の錆《さ》びたような鎖で吊られている……だけのもので、そう美しいとはまな美には見えないが。 「あっ、ドームのサインが入ってましたね。このへんは、ガレかドームかどっちかいうとったらあたるんやけど……確率五割」  土門くんは手の内を明かしていう。  見城も、そうそう、と笑いながら、 「じゃあですね、そこの台の上にのっかっているランプ、あれはなんだと思いますか?」  ふたりが座っている斜め後ろあたり(つまり部屋のほぼ中央)に置かれている、色とりどりのステンドグラスをちりばめた傘の、それであるが。 「これは、この部屋に入った瞬間に目についたんでですが、たぶんティファニーの」  といったきり、土門くんは黙る。 「……そうなんですよ。あれはいけませんですよね。ティファニーの真っ赤なニセモノなんですから」  憎々しげに見城はいい、 「二十年ほど前に、こういった趣味を始めた当座に、ひっかかってしまったんですよ。その戒《いまし》めの意味もこめて、目立つところに置いてあるんです。それにそんなところにあると、うっかり倒してしまいそうですよね。それを楽しみにしておるんですが、まだどなたも、ひっかけて壊してくれないんですよ」  ……茶目っ気を出していう。 「そ、そんな壊すだなんて、すごく奇麗《きれい》じゃありませんか」  まな美が目を輝かせぎみに見ていると、 「そやから、ひっかかんの」  土門くんに冷やかされ、 「それ形はようできてるんやけど、ガラスの色が全体的に鮮やかすぎるのね。そやったら姫、天井のこれ、うすぎたないと思ってるんちゃう? 実は!」 「うーん」  まな美は小刻みに首をふりながらも、あきらめて、正直にうなずく。 「これな、あたりが暗うなってきてから、中の明かりをともすと、ふわーとええ感じに光るんや。そのランプもおんなじで、こういったのは照明器具やろ、色がどぎつかったら疲れてしまうねん。やわらかーな明かりの方がええわけね」 「ふうん、そうかもしれないわね」  まな美も、半分ほど納得した。 「それと、あそこの台に置かれてはる女神の像、あれは誰が見たってラリックですよね。オパルセントガラスやから」  土門くんは調子にのって、さらに目利きをする。 「そう呼ぶんですか、あの手のガラスのことは」 「ええ、フッ素やアルミニウム、そしてコバルトなんかを混ぜると、あんな感じに乳白色に濁るそうですよ。それと、あそこの壁からつき出ているランプ、あれはたぶん……ミューラーあたりかな」 「ええ、たしかそのはずですね。あれも素朴で、使い勝手がいいですよね」  けど、それこそ、白いガラスに胡麻《ごま》をふってるだけじゃない、とまな美は思う。  男ふたりが骨董談義に花を咲かせていると、お茶が運ばれてきた。  見城は日本茶を飲むようで、志野《しの》の湯呑み茶碗である。かたや、ふたりの紅茶《ティー》カップはというと、無印良品のような何の変哲もない真っ白の陶磁器だ。 「……知ってましたなら、もっとましなのをお出しするよういっときましたのに、そのへんにいくらでもありますのにねえ」  笑いながら見城はいう。 「そやけど、それは見るからにええ志野ですよね。絵志野ともいうんやけど、ギャグちがいますよ。形といい色ぐあいといい」  お世辞かもしれないが、土門くんは、よだれをたらさんばかりの顔でいう。 「ええ、これは分厚いですからね。もっていても手が熱くならないので、ちょうどよくって」  実用本位だとばかりに見城はいい、 「和ものは、二階の和室の方に置いてあるんですよ。あとでご覧になりますか?」 「できればできれば、目の肥やしにー」  土門くんは嬉しそうだ。  だったら、本日の目的のものはその和室の方にでもあるのかしら、とまな美が思っていると、 「あのすみに、布がかかっている箱がありますでしょう。さっき、二階から下ろしておいたんですよ」  そういうと見城は、ステッキを手にもって、椅子からゆっくりと立ち上がる。 「あっ、なんか、自分がやりますよう」  土門くんが、ゼンマイ仕掛けのようにぴょこんと椅子から立った。 「これは、立つときと座るときだけなんですよ」  ちょっと怒ったように見城はいうと、ステッキは椅子に置いたままで、実際すたすたと歩いていく。やや見栄をはっているのかもしれないが。  そして、その白い布がかぶさっている箱の前まで行くと(土門くんも近くまで行っているが)、 「この布はもう要らないので、とっちゃって」  見城が、そのおおい布をとって適当にたたむ。  すると出てきたのは、まだ新しい感じがする四角い桐《きり》の箱であった。 「それを、どうしましょう? テーブルの上にでももって行けばええですか?」  土門くんが気をきかせていう。 「すみませんね、じゃ、そうしていただければ。それは軽いんですけれどもね」  土門くんが両手でそっともち上げ、 「あ、ほんまや」  などと軽口をいいながら、そのまま運んできて、応接テーブルのほぼ真ん中に、そうっと置いた。  遠目には小さくも見えたが、こうやってテーブルの上に置かれると、かなりの大きさだ。高さは五十センチ以上はあるなと、まな美は思う。  見城ももどってきて、 「蓋《ふた》はこちら側ですからね」  ふたりに見えるようにと箱の向きをととのえ、 「これは上にスライドするんですが……」  その蓋に手をかけようとすると、 「あっ、ちょっと待ってください」  止めて土門くんがいう。 「自分、こん中に何が入っとうかよう知らへんのですよう。そのへんのいきさつを、できればー」  とまな美の方を見る。  仕方なく、まな美はもってきていた手提げ鞄の中から、一冊の古びた大学ノートをとり出して、頁をひらいてから土門くんに差し出す。 「あっ、新聞の切り抜きですねえ」  その大学ノートは、まな美のいわゆるスクラップブックであるが、 「その記事に出ていることぐらいしか、わたしも知らないんだけど」 「えー、浦和市郊外で、マンション建設に地元住民が大反対! 業者とニラみあいがつづく中」 「その最後の方の、囲みの記事を読んでくれる」 「どれどれ……マンション予定地の一角に、小さな浅間《あさま》神社があったので」 「そこは、せんげん神社と読むらしいわ。どちらでもいいんだけど」 「そんな神社があったので、それを別の場所に移したところ、その神社の跡地から洞窟が見つかり、その洞窟の中から、正体不明の仏像? らしきものが発見された。そのことを業者が隠していたことが最近明るみに出て、その神社の跡地も本格的に調査すべきだと、地元住民はさらに怒りを募らせている。へー……」  土門くんは軽く驚いてから、 「そやけど、この新聞の日付、今から八年前やんか。うちらが九歳のときのもんやで!」  そちらに、驚きあきれていたようで、 「そんな時分から、姫はこういったことに興味もってはったんやなあ。さすが年季入ってますねえ」  揶揄《やゆ》するようにいう。 「悪かったわね」  捨て台詞《ぜりふ》のようにまな美はいうと、その思い出や空想がいっぱいに詰まっているノートを、奪いとった。 「ほう、そういったいきさつだったとは、わたしも、今の今まで知りませんでしたね」  意外なことを見城はいい、そしてステッキを手にすると、長椅子にゆっくりと腰をおろした。どうやら、長い話になりそうだ。 「いやね、わたしは建設会社を営《や》ってまして、今は子供たちの代に譲って隠居ですけども、思い出しますに、そのちょうど八年前ぐらいに、とある大きな会社の、会長さんを訪ねたときに……ですから、そこの会社が、そのマンション建設に関係していたんでしょうね。その会長さんは、名前はいっても差し障りはないと思いますので、大炊御門さんとおっしゃるんですが」 「ありゃ、それは七清華家のひとつのですか?」  土門くんは歴史部だから、すぐにひらめく。 「ええ、まわりの皆さんも、そのようなことをおっしゃってましたですけどもね」  ——まな美は、確信があるようにうなずく。 「その会長さんの個室を訪ねると、デスクに、黒塗りの箱が置かれてあったわけですよ。それは年代物の箱で、傷《いた》みがひどかったので、その後に新調したんですけどね。その箱の蓋を開けられて、おい見城、これはいったい何だと思う? とたずねられたものですから。わたしは……仏像とかには不案内なので、ただただ首をかしげてますと、すでに、何人かに鑑《み》てもらったとのことで、知り合いの僧侶とか、それに神社の関係者とかにもね。けど、わからないってことらしく。わたしはてっきり、その会長さんが、どこかで掘り出しものでも見つけてこられたんだろうと、そういう認識だったんですけどもね。これギャグじゃありませんよ。掘り出しもの、て」 「あっ……洞窟やもんな」  土門くんは気づいて、すこし笑う。 「そうこうしていたら、その会長さんが、見城、これ貰《もら》ってくれんか、といい出されましてね。わたしも、それには驚きまして」  見城は、心底驚いたという顔でいい、 「たしかに正体は不明なんですが、骨董好きの人間だったら、ひと目見て、それが半端じゃなく高価でありそうなことぐらいは、判断はつきますのでね。それに、実際に見ていただければわかりますが、こわい顔をしているんですよ。お不動《ふどう》さんだったら、目をひんむいて、怒った顔をしてますよね」 「いわゆる忿怒《ふんぬ》の形相ですよね、瞋怒《しんど》ともいいますけれど」  まな美はさらりと注釈していう。 「ええ、そのような顔ともちがってまして、なんともいえない独特のこわい顔なんですよ。異形《いぎょう》の相とでもいいましょうか。そんな不気味なの、欲しくありませんよね。それに、貰ってくれとはいわれても、それをよそさまに売るなんてことはさらさらできませんから、要するに、あずかってくれ、とおなじことなんですよ。……けれど、わたしどものような極小の会社にとりましては」  それは、この家を見ると大謙遜というものだと、まな美・土門くんともどもに思うが。 「大炊御門さんのお言葉は、もう絶対ですからね。変に逆らおうものなら、仕事をまわしてもらえなくなって、会社が立ちゆかなくなりますから……そんな事情もあって、その日のうちにいただいて帰り、そのまま、今にいたっているわけですよ。その帰りぎわに、見城、ねんごろに祀《まつ》ってくれよ、ともいわれたんですが、正体不明ですから、どうお祀りしたらいいのかわかりませんよね。それで、わたしの骨董仲間にも、その方面に詳しいのが何人かいますから、鑑《み》てはもらったんですが、やはり異口同音に、わからないってことで。ですから、この箱を開けるのも、何年かぶりなんですよ。その骨董の友人に見せたのが最後ですから」  土門くんが、ふーん、とわかったようにうなずいてから、 「ふたつの話が、ぴったし合いましたよね。たぶんその会長さんは、こんなん会社においとったら住民が騒ぐもとやから、どっかに雲隠れさそー、そう考えたんちゃうでしょうか?」 「はい、今にして思えば、そのとおりだったのかもしれませんね。その……正体がわからないって話を彼としていたときに、わたしが、だったら大学の先生にでも鑑定を、とそんなことをいいますと、それは断じてできん! と言下《げんか》に否定されましたから。つまり、火に油をそそいじゃいますよね」  見城は、苦笑いしながらいった。 「じゃあ土門くん、今までの話から想像するに、この箱の中は、どんな謎の仏像だと思う?」 「うーん思いつくんは、隠れキリシタン系ぐらいしかないなあ。そやけど、これはありふれてるよな。じゃあ姫は?」 「わたしは見てからね」 「ひ、卑怯者《ひきょうもの》……」  土門くんが小声でうめいていると、見城がステッキを手にし、立ち上がろうとする。 「あ、よろしければ、自分が開けますよ」 「……そうですよね。お扱いには慣れてらっしゃるでしょうから」  見城は椅子に座りなおした。 「蓋は……上にスライドですよね。そやけど、ええ箱ですよね。このために特注なさったんでしょう。これ箱だけでも値打ちもんですよう」  土門くんは、何かにつけてお世辞をいいながら、その蓋を上に引き抜いた。  そしてふたりがのぞき込もうとすると、 「それは下の台ごと、前に出せますから。仮止めをしてありますので、倒れませんから」  見城が教えてくれる。  土門くんが、その厚板の台に手をかけて、ゆっくりと箱から引きずり出した。  正体不明の仏像(?)は、テーブルの上で、三百六十度まる見えの状態だ。  それはあぐら座りをしている老翁の木像で、高さは四十センチ弱といったところだろうか。ほどこされてあった彩色が、まだところどころ残っている。  見城が、 「いかがですか?」  しばらくしてから、問いかけてくる。  まな美は小首をかしげて、ただひたすらに凝視《みつ》めているだけで、言葉を発するような気配がない。  仕方なく土門くんが、 「まず、隠れキリシタンはぜんぜん関係あらへんでしょうね。けど、自分にも正体は皆目ですが、時代は十分にありますね」  骨董屋がよく使う言い廻しでいう。 「どのぐらい、あると思いますか?」 「うーんと、江戸時代なんか問題じゃなくって、まあ最低でも、室町はあるでしょうね」 「そうそう、わたしの骨董の友人も、おなじようなことをいってましたですね」 「えーそうなんですけれど、この室町はある、ていうんは、ひとつの決まり文句のようなもので、えらい古いぞう、といってんのと大差ありません。それに実際は、もっともっと古いのかもしれません」 「すると、鎌倉、さらには平安後期あたりまで?」 「可能性はあるでしょうね。それに、時代があるいうことを除いても、これを美術品として見た場合も、超一級の品物ですね。それほど大きくはあらへんのに、このただよってくる雰囲気が、ちょっと尋常ちがいますからね。これは重文です、重美です、いわれても自分やったら納得しますね」 「ふうん」  見城も同意するかのようにうなずいていると、 「その……手のところなんですけど」  まな美が、ようやく口をひらいていう。 「手の上に、宝珠《ほうじゅ》がのってますよね。それがちょっと気になるんですけれど」 「あっ、ほんまや、作《さく》ゆきがちがうな」  土門くんも気づいていう。 「手の上にのってる、その桃みたいなやつ、それは本体よりも新しいですね。後の時代になって、のっけたんやろうな」 「のはずよね、見た目にも、どこかバランスが悪いと思って。それに、この宝珠が手にのっていたから、仏教系だろうと考えて……これは元来、お釈迦さまの骨ですからね。なので、正体不明の仏像、クエッション、とされたんだと思うんですよ。けど、その宝珠がなかったことにしちゃうと、どこからどう見たって、これは仏像なんかじゃありませんよね。天部《てんぶ》や明王《みょうおう》にも、こんな姿の神さまはいませんし」 「てんぶ……て?」 「大黒天《だいこくてん》とか、梵天《ぼんてん》とか、帝釈天《たいしゃくてん》とか……なんとか天と呼ばれる、古来のインドの神さまだったような存在」  まな美は独特の節まわしをつけていい、 「だから、そういうのじゃないってことね。わたしは最初、これを見た瞬間、こんなことをいうの失礼ですけれど、猿じゃないかしら、とも思ったんですよ」 「あっ、自分もちょっと思た」  土門くんも正直にいい、 「目はどよーんとたれてはるし、口は……なんともゆえへん半びらきやし、耳もふつうより大きいし、それに鼻は……天狗《てんぐ》の鼻とちごうて、天狗の口を、ひしゃげたような鼻ですよね。そやけど、こんなふうにじっくりと観察できるんも、真っ昼間で三人もおるからですよね。こんなん暗いところでひとりでは、絶対に見られへんぞう」  と、顔をそむける。 「だから、わたしは、豊臣秀吉《とよとみひでよし》のお像じゃないかとも思ったんですよ」 「あーいえるいえる。醜男《ぶおとこ》やったいう噂やもんな」 「けど、さっきの土門くんの話を聞いていて、それは撤回したのね」 「な、なんでです?」  ほうけた声で土門くんは聞く。 「だって、時代|考証《こうしょう》があわないじゃない。さっき自分でいったくせに——」 「あっ、ほんまや、秀吉はまだ生まれてへんですねえ」  土門くんはしなだれていう。 「いやー、おふたりの話を拝聴していますと、とっても勉強になりますよね」  見城が真面《まじ》な顔をしていい、 「そのさっきの秀吉説ですけれども、わたしも聞いた瞬間、あっ、と思いましたからね。たしかに時代はあわないのかもしれませんが。それに、そのお像は服を着てますでしょう。それは高い官位の人が、正装で着るような服にも、見えるんですけどもね」 「はいはい、たしかに」  土門くんはうなずいてから、 「それに部分的に色が残ってますよね。濃い青ですよね。ひょっとしたら、最上位の紫だったのかもしれませんね。それに金色も入ってますから、どっちにしても上等な服ですよね」 「その金はですね、それと銀もあって、銀は黒ずんでいて見えにくいんですけど、金や銀の小さな板を、象眼《ぞうがん》のようにはめ込んでいるらしいんですよ。その一部が、ぽろっとはがれ落ちたことがあって、それでわかったんですけどね。ですが、もうあらかた落ちてしまっているようですね」 「うわー、ますますすごい作りやなあ」  土門くんが驚き感心していると、 「けど、この服って、日本の服?」  まな美がしごく根本的な問いかけをする。 「うーんいわれてみると、どことなく中国っぽいかなあ。そやけど、唐人の服、とまでいいきれるかどうかは……」  土門くんは大首をかしげてから、 「うん! ひらめいたぞう。これが唐人服やったとして、そして猿だったとすると、これは孫悟空《そんごくう》ちゃうやろか?」 「そっ、孫悟空……」  それだけは許してとばかりに、 「だって、頭に輪っかしてないわよ」  まな美は反論する。 「それはやな、三蔵法師《さんぞうほうし》に輪っかはめられる前の、勝手気ままにあばれまくっとった、こわかったころの孫悟空」  ……見城も笑っている。 「それに輪っかどころか、頭には冠《かんむり》をかぶってるじゃない。それもすごく立派そうな」 「立派というよりは、異様やぞう。そやけど、このツノが三つもついてる帽子は、いったいなんやろか。黒い色がずいぶん残っとうけど……」  土門くんは腕組みをして、あらためて見入る。 「……わたしはね、この冠からは、どことなく星をイメージしたんだけれど」 「あー、あのひと筆書きの星ですね。あれが空から落っこってきて、ずどーんと頭につきささったら、ちょうどこんな感じゃ」  まな美も、似たようなことを思ったらしく、うなずいてから、 「中国の道教だったら、星の神さまは何人かいるのね。孫悟空も斉天大聖《せいてんたいせい》といって、道教の神のひとりなんだけど、これはおいといて。……北斗星君《ほくとせいくん》や南斗星君《なんとせいくん》、南極老人星《なんきょくろうじんせい》などがそうね」 「へー、そやけど、その星の神さんたちは、こんなこわい顔をしてはってやの?」 「それは場合によってはね。北斗星君は北斗七星、南斗星君は南斗六星の神さまで、北斗は人間の死後を、南斗は生きている間を、それぞれつかさどる、て話なんだけど、中国は、基本的に北斗七星信仰なのよ。なので北斗星君が、人の生き死にの両方をつかさどる、てことになっちゃってるわね。南極老人星も、似たようなもので、これは乙女座の神さまなんだけど」  まな美は、そこだけ可愛らしくいい、 「戦争があったりすると、南極老人星は隠れるという伝承もあって、やはり人の寿命などに関係するのね。日本では、七福神《しちふくじん》のひとり、寿老人《じゅろうじん》におきかわるのよ。けれど、こういった寿命をつかさどる神さまって、裏を返せば、死に神なわけでしょう」 「うん、もっともやな」 「だから機嫌をそこねさせると、こわいわけね。なんだけど、道教の神さまって、そのお像は、もっとケバケバしくて、装飾過多なのがふつうなのよ。写真とかで見るかぎりでは」 「そやけど、これもちゃんと色が残ってあったら、そうとうにすごいと思うぞう」 「うーん……でも、道教系のお像では、比較できるようなのはないと思うわ」 「あ、そうやそうや、あっちは金やペンキを塗ったくってしまうんや。日本のような、朽ちていく美学いうもんはあらへんからな、あちらさんには」  土門くんが生意気なことを宣《のたま》わっていると、 「そうしますと、これは中国で信仰されていた神さまのお像、それが古い時代に日本に入ってきた、その可能性があるというわけですね」  見城が要点をまとめてくれた。 「けど、それもあくまでも、ひとつの可能性ですね。それに、このお像の目なんですけれども、両目とも極端なたれ目ですよね。こういったのは記憶にないんですよ。たとえば、えー……大黒さま。七福神のですね。福禄寿《ふくろくじゅ》や恵比須《えびす》でもおなじですけれど、あの神さまたちは、だいたいが、たれ目のはずです。けど、顔は柔和《にゅうわ》ですよね。このお像のように、たれ目でこわい顔というのは……稀《めず》らしいですから、もし写真とかで以前に見ていたら、絶対に覚えているはずなんですよ」  まな美は、見たことがない、記憶にない、を強調していう。  つまり、なんやかんやいっても、前に鑑《み》とう僧侶や神社関係者や骨董仲間なんかと結論はおんなじで、わからへんいうことやあ、と土門くんは思う。 「そうそう、こちらのお像、写真を撮らせていただいても、かまいませんでしょうか?」  まな美があらたまった口調でたずねる。 「ええ、それはかまいませんですよ」  見城はにこやかに承諾する。  まな美は、手提げ鞄の中から使い捨てカメラをとり出すと、カチャ、ガリガリガリ、カチャ、ガリガリガリ……およそこの部屋にはにつかわしくない音をたてながら、写真を撮り始めた。  見城が、土門くんの方に顔を向け、 「最前より、お話を聞いておりますと、とってもお詳しいですよね」  まな美のことを評していう。 「ええ、彼女はそっち方面が趣味なんですよ」 「それであなたは、骨董屋さんなんだから、これは強力なペアですよね」 「うーんそうなんですけど、歴史部としては存亡の危機でー」  小声で土門くんは愚痴《ぐち》る。 「あっ、それもわかりますねえ。おふたりの会話についていけるような、興味をもってくれそうな高校生が、今どき、いるとは思えませんもんね」 「やー……もっともで。そやからですね、家が神社で、巫女さんをやってはるような女子、そんなんがおったら即勧誘しよう思ってるんやけど、なかなか入ってきませんからね」 「それはそれで、さらにむずかしい話ですね」  土門くんは願望を述べ、見城が笑った。  撮影を終えたまな美が、土門くんをひとニラみしてから、椅子に座った。 「そやそや、さっきちらっと思たんやけど、この謎の仏像が置かれてあった洞窟、それは今でも残ってんの?」 「そのことは一番に調べたんだけど、けっきょく、新聞記事にあったマンションは建たなかったのね。だから、洞窟も残ってるはずなのよ」 「そやったら、見に行けるわけやなあ。姫の、そのなんとか星の話がおうとったら、洞窟の壁にでも、北斗七星の絵とかが描いてあるかもしれへんぞう」 「わたしもそう思って……だから、あれこれと、今画策中なのよ」  まな美はちょっと話したくなさそうにいい、 「だって、そこは私有地でしょう」  見城が、ほうほうほう、と事情を察知したかのようにうなずいた。 「なるほど」  土門くんは表面的に納得してから、 「それとやな、この謎の仏像は、その洞窟にずーっと置かれてあったん? 室町の時代から」 「そんなはずはないわよ。何かの理由で、比較的最近に置かれたんだと思うわ。考えられるとするなら、やはり神仏分離令《しんぶつぶんりれい》が一番の容疑者なんだけど」  まな美は、皮肉を込めた表現でいい、 「それでも百年以上も昔の話だから、洞窟の中だと、木像が傷んじゃうわよね」 「うーん、意外とそうでもないんちゃうかな。じゅくじゅくの洞窟はあかんやろうけど、こういった木の工芸品にとっては、ある程度の湿気はあった方がええねんで。外であかんのは虫やな。シロアリとかが天敵や。まあ、そういうんも行ってみたらわかるやろう思うけど」  話も煮詰まってきたことだし、そろそろおいとましようかな……ふたりが思っていると、窓の外を、乱舞している乙女椿の梢《こずえ》の間を、頭に花簪《はなかんざし》をつけた幼子《おさなご》が隠れん坊でもしているかのように、すすっとよぎった。かのようにまな美には見えた。 「あら、可愛らしい女の子、お孫さんですか?」 「え? どこに——」  見城は驚いた顔でいい、ふりかえった。 「うん? 女の子なんかいてはった?」  土門くんも怪訝そうにいう。 「だって、さっき、庭の木の間を……」  見城は、ふたりの方に向きなおると、 「お嬢さんには、どんな女の子が見えました?」  いくぶん青ざめた顔でいう。  まな美は、さっき見えた幼子の姿を、覚えているかぎり説明した。 「ほう……いやあ……」  見城は、嘆息《ためいき》まじりに何度かうなずいてから、 「あの子に、似てますね。……実はですね」  悲しい話を語り始めた。  なんでも、一ヵ月ほど前に、この家に遊びにきていた四歳になる親戚の娘さんが、ひとつ先の十字路で交通事故で亡くなったというのである。  それも、親御さんに手を引かれて歩道にいたというのに、無謀運転のバイクが車をよけそこなって横滑りでつっこんできて——。  帰り道に見てみると、十字路の角にある家の塀に、花束が立てかけられてあった。  ふたりは手を合わせて、しばしお祈りをした。 「そうやけど……姫に見えたんは……」  土門くんが、おそるおそるの声でいう。 「うーん、どうしてかしらね……」  まな美も、なぜ自分にそのような幼子の姿が見えたのか、ただただ不思議だった。 [#改ページ] 第二章 「彪」  8  神鷹彪《かみたかあきら》が、師範の水野宗治《みずのそうじ》から電話で呼び出しをうけたのは、土曜日の夜の十一時すぎのことであった。  ——何日か分の着替えをもって、今すぐ道場に来るよう!  神鷹は、もう寝ようとしていたのだが、師範の言葉には逆らえない。  服をてきとうにバッグに詰めて、草加《そうか》市|谷塚《やつか》のぼろアパートから自転車をとばして十分ほどの距離の(東武|伊勢崎《いせざき》線を使えばふた駅だが)足立区西新井にある『天神心影流《てんしんしんかげりゅう》』の道場に出向くと、古びた冠木門《かぶきもん》の前には、すでにタクシーが待っていて、  ——遅い!  と罵倒《ばとう》されながらも、ふたりして乗り込んだ。  水野が、FAXで送られてきたらしき地図を運転手に渡して、道は知らないから、と一任した。  道路は混んでいた。この時間帯は首都高も混んでいるだろうからと、環七をひた走った。途中、水野はひと言も口をきかなかった。師範がしゃべらない以上、神鷹が問うわけにはいかなかった。  |井ノ頭《いのかしら》通りに入った。そして脇道にそれ、細い道を何度も曲がってからタクシーは止まった。車から降りると、手でつかめそうな感じで新宿の高層ビル群が見えた。が、あたりはウソのように静まりかえっている、高級住宅街の真っただ中であった。  ——要するに、代々木上原《よよぎうえはら》な。  水野が、土地勘がなさそうな神鷹にいった。  庇《ひさし》がついている古びた木の門が、すぐ前にあった。  その門灯の明かりに照らされた神鷹の全身を、ねめつけてから、  ——しゃんとするように。今から会うのは、国会議員の先生だから。  水野が、やっと用向きらしきことをいった。  ——押忍!  即答しながらも、神鷹は合点《がてん》がいった。  師範がバリッとした背広姿だったからだ。自分は古着のジャンパーによれよれのジーンズだ。もっとも、いい服を着てこいといわれても、これ以外にあったわけではないが。  お手伝いさんらしい初老の婦人が、門を開けに出て来て、ご苦労さまです、と頭を下げてから、邸内に案内してくれた。木々の多い庭があって、古ぼけて大きい二階建のお屋敷だ。  ふたりがとおされたのは、食事をするような部屋であった。  椅子には座らずに立ったままで(師範がそうするので)しばらく待っていると、ドタドタと足音を響かせて、ナイトガウンをはおったこの家の主人が姿をあらわした。 「信ちゃんごめん。遅くなってしまって」  水野が親しげに声をかけた。  すでに夜中の一時近くになっていた。 「いやいや、こっちこそごめんね、急に来てもらったりして」  神鷹は知らないことだが、斎藤家と水野家は遠縁にあたるようで、そして偶然、斎藤信介と水野宗治が同じ大学だったので気づいて、以来の付き合いなのだ。年齢も近く、水野が一、二歳上である。 「それに、ちょっと酒臭いけど、さらにごめんね。酔っ払ってたわけじゃなく、その酒の席で、教えてもらった話なんで」  そういえば……顔も赤らんでいるし、急用で呼び出したわりには緊《しま》りがない、と神鷹は思った。 「それはいいけどさ。電話で少し聞いたけど、いったいどういうことなの?」  水野が詰問《きつもん》する。 「いや、正直いって、よくわからないのよ。ただいえることは、おれの命がねらわれている」  斎藤は強調していい、 「それだけは、ほぼ間違いなさそうなのね。それも緊迫してる話なのよ。けど、敵がどこのどいつなのか、何の理由なのか、そのへんは皆目なんだな」  水野は、喝《かっ》、と気合をこめてから、 「わかった! おれが命にかえても、信の字を警護してやる」  ——二つ返事で、力強くいった。  そんなの警察に頼めばいいじゃないか、とも神鷹は思ったが、もとより口出しできる立場にはない。 「それで、ひとり連れてきたんだ。神鷹彪。彪というのは虎みたいな字だけど、ヒョウとも読めるそうだ。動物のね。それがなまって、通称ショウと呼ばれてる。うちの道場の実力ナンバーワンさ」  それは持ち上げすぎだと思いながらも、 「——押忍!」  神鷹は挨拶《あいさつ》をした。  大師範(師範の父親)もいれば、師範代も複数いるので、自分はせいぜい五番目ぐらいだろうか。 「こいつ、以前は空手道場にいたのよ。だから何かにつけて、押忍なんだけど、当流《うち》は本当はそうじゃないからね」  水野が苦笑ぎみにいった。  古武道の流れをくむ『天神心影流』は、どちらかというと、合気道《あいきどう》に近いものなのだ。が、敵の攻撃を単にかわすだけの護身術ではなく、当身技《あてみわざ》に特徴があって、その一撃必殺さぶりは、空手に勝るとも劣らない。もちろん、試合などでは禁じ手であるが、神鷹もひととおり習得はしている。 「さすがにいい体しているよね、しなやかそうな。ひとつよろしくお願いしますよ」  斎藤は会釈《えしゃく》をしながら、酒気と眠気からか、どんよりした目を神鷹に向けた。 「押忍っ……」  さっきのお手伝いさんが、ビールの用意がのった盆をもって部屋に入って来ながら、 「ってわけにはいきませんよね。これから警護をなさるんでしょう」  立ち聞きをしていたらしく、ばつが悪そうにいった。 「まあ、一杯ぐらいはいいよな」  斎藤がいって、水野もうなずいた。 「えー……杉村《すぎむら》さんね。親父の代からなので、この家の女主人ってところ。ていうより、おれのおふくろみたいなものかな」  杉村は、その紹介に気をよくしてか、 「ささ、棒のように立たれてないで、皆さん座ってくださいよ」  母親のような口ぶりでいった。  そして男たちにビールをついでから、彼女も食堂のテーブルについた。自身も話に加わるのが当然であるかのように。 「じゃ、具体的にどう警護すればいいのか、段取りを決めよう」  水野が場を仕切っていう。 「とはいっても、国会議員さんの日常が、どうなってんのか、自分らにはわからんのだけど?」 「いや、今はさ、国会の期間中だから、朝迎えの車が来て……夜の六時ごろに終わったり終わらなかったり。そして場所を変えて、飲み食いする程度さ。もっとも、明日は休みだけど」 「じゃ、遠出はしないわけね?」 「うん、今はそう。せいぜい赤坂ぐらいだな」 「それだったら、その車に、おれがびったり乗ればいいわけだな」 「ああ、そうしていただけると、こころ強い」  斎藤が頭を下げていった。 「となると自動的に、ショウ! おまえは家の方の警護な」 「押忍——」  と即答はしたものの、ひとりで二十四時間? 神鷹はいくぶん疑問に思う。 「夜は、何時ごろにここに帰ってくるの?」 「うーんその日のうちにはと、こころがけてんだけど、もうこうなったからには、できるだけ早く帰ることにするよ」 「うん、そうしてくれた方が助かる。すると、おれも一緒に帰ってくるわけだから、夜中は、おれとショウで、どちらかが起きていて見張りな」 「押忍——」  それだったら、神鷹としても了承だ。 「もし、ふたりで足らないようだったら、道場からさらに呼ぶからさ」  水野はそういったが、師範代クラスは別に仕事をもっている人が大半なので、二十四時間の警護にはそうそうつけない。神鷹は、自分にお声がかかった理由がわかった。昼は道場で鍛練をし、夜は工事現場などで汗をかく、程度のいわゆるプータロウだからである。そんな社会の底辺にいるといってもいい自分が、国会議員の家の中にいるなどとは、まさに青天のへきれき、だと思った。  ……へきれき。熟語は頭に浮かんだが、それがどんな漢字なのか神鷹は気になった。  へきれき……へきれき……れきは、歴史の歴だろうか? へきは……へきは…… 「じゃあさ、もう信ちゃんは寝てくれていいよ。あとはおれたちの仕事だから」  水野が、うながしていうと、 「然様《さよう》ですよ。もう旦那さまはお休みになってください。あとは、わたくしが手助けいたしますから」  杉村がしゃきしゃきという。 「ええ?」  水野と斎藤が、そろって顔を向けた。 「だって、このお家《うち》のことは全然ご存じないでしょう。ご不浄《ふじょう》がどこにあるのかわかります? それにドアとか窓とかを迂闊《うかつ》に開けられてしまうと、近所じゅうに、すごい音が響きわたるんですよ」  恫喝《どうかつ》ぎみに杉村はいい、 「ですから、その解除の仕方とかを、お教えしとかなきゃいけませんし。それに、どのお部屋で寝ていただくとか、どこのお風呂場を使っていただくとか、お腹《なか》がすいたら何を食べればいいとか、伝達事項は山のようにございますよ」  まさに、女主人|然《ぜん》としたことをいう。  水野と斎藤は、もっともです、と素直にうなずき、つがれてあったビールを飲み干してから、 「じゃあ、お言葉に甘えて」  斎藤はテーブルから立ち、 「ショウ! これからが本番だ」  水野の気合のこもった声に、 「——押忍ッ」  邪念をふり払うかのようにブルッと身震いをさせてから、神鷹も立ち上がった。  杉村に案内されて、邸内をひととおり——二階は奥さまが就寝中とのことなので除いて——見て廻ってから、神鷹が、先に寝ることになった。  短い渡り廊下でつながって別棟《べつむね》があり、そちらは比較的新しい建物で、一階が杉村の住居部(そこにある風呂場や洗面所を使えとの指示だったが)、その二階に、ベッドが置かれている洋室と、床の間つきの和室があり、どちらを使っても(ふたり別々でも)いいと杉村がいうので、神鷹は、ベッドの方を選んだ。ぼろアパートの煎餅布団《せんべいぶとん》などとは雲泥の差であったが、かえって、寝つかれにくかった。  水野はラフな格好に着替えてから、見張りについたようだった。  そして、寝たか寝ないかわからないうちに、神鷹は起こされた。時計を見ると朝の五時であったが、外はまだ暗闇《くらやみ》のようだった。  ——最初いた食堂に陣どって、適度に巡回するといい。夜食やコーヒーも、そこにある。  水野から簡単な指示をうけて、交替した。  神鷹は、少し邸内をうろついたが、あまりにも寒いので、ジャンパーをひっかけに一度もどった。  陣どれといわれた食堂とは別に、十人ほどが会食できそうな大テーブルが置かれた洋間もあり、その隣は豪勢な応接間で、さらには、茶箪笥《ちゃだんす》ぐらいしか置かれていない広々とした和室もあった。神鷹が、どうあがいたところで、生涯《しょうがい》縁がなさそうな家だ。政治家っていうのは、もうかるもんだなと世間並みに思った。  七時半に、杉村が起き出してきて、朝食の支度を始めた。炊事場は食堂の隣にある。そこに居座っているのも気まずいので、神鷹は、てきとうに場所を変えた。  そうこうしていたら、 「ちょっとちょっと、ショウくん!」  呼ぶ声がしたので、その方に行ってみると、 「……どうしましょうか? この雨戸?」  杉村が、困った顔を神鷹に向けた。  そこは和室の前にある縁側をかねた廊下で、片面に、古びた木枠のガラス戸がずらーっと並んでいて、外側を分厚い雨戸で閉じてあるのだ。 「水野さんがおっしゃってましたでしょう。ここを開けてしまうと、庭からは無防備だって」  そのガラス戸からもっぱら庭に出るようで、季節のいい時期の昼間は、その戸すらも開け放っているらしく、だから、そこには防犯装置などはついていないのだ。水野はそれを心配していたのだが。 「ここを開けないと、明かりが入ってきませんよね。それに、開けるときに物凄《ものすご》い音がするんですよ。それがこの家の目覚ましがわりで、もう何十年も前からの、しきたりなんですけどね」 「——開けましょう。自分、このへんで見張ってますから」  神鷹は迷わずにいった。  ——しきたり。  それは大切なことだと思ったからだ。伝統やしきたりは守るべきだと、そんな信念に似たものが神鷹にはあった。 「そうですか。じゃ、手伝ってくださいね」  杉村は嬉《うれ》しそうにいった。  神鷹も心地よかった。自分の言葉で他人《ひと》が喜んでくれることなど、そうそうないからだ。  雨戸のつっかえ棒をはずしてから、はしから順に戸袋《とぶくろ》に滑らせていった。  ——ガラガラガラ、ドシャーン!  家全体が震えて、まるで雷が落ちているようだと神鷹は思った。その雷は雨戸の枚数ぶん落ちた。  八時すぎ、朝ご飯の用意がととのったから離れの台所にどうぞ、と杉村にいわれて、行ってみると、水野も起き出していてテーブルについていた。さっきの目覚ましがきいたようだと、神鷹は内心笑った。  味噌汁に納豆に厚焼き玉子、そして胡瓜《きゅうり》と人参《にんじん》のヌカ漬け、関東のごく標準的な朝ご飯ではあったが、あつあつの白飯を食べられるのは、神鷹としてはありがたかった。  食事を終えると、外を見てみようと水野がいって、ふたりで庭に出た。  真っ青な空だったが、真冬の寒さであった。  大木や岩がけっこう多くある庭は、手入れが行き届いているふうには見えず、池の水は抜かれてあるようだが、落ち葉でうずもれていた。地面に雑草も目立った。寒空でも、雑草は元気そうだった。  そんな庭をざっと一周して見てから、 「これだと、どこからでも入られるよな」  水野が不満げにいった。  敷地の囲いは、隣家との境はブロック塀で、道の側は大半が生《い》け垣《がき》なのである。その生け垣は(何という木かわからないが)人の背丈ぐらいで、葉はすでに落ちていて、犬猫はもちろん、人間もちょっと無理をすれば、すり抜けられそうだった。それに塀にも、忍び返しのようなトゲはついていないのだ。  雨戸を開けた縁側の前は、少しひらけた空間で、苔《こけ》むした踏み石が、地面に点々と置かれてあった。  稽古《けいこ》するのにちょうどいい場所だ、神鷹は思ったが、水野はガラス戸の方を見やって、 「やっぱり、ここは閉じた方がいいと思うけどな」  恨めしそうにいった。  そのガラス戸の向こうの廊下に、女性の姿が見えた。淡い桜色のカーディガンをはおっている。  庭にいる男ふたりに気づいて、足を止め、ていねいに会釈をしてから、歩き去った。  その姿が見えなくなってから、 「ほう、あれが奥さんか。噂には聞いていたけど、すごい美人だよなあ」  水野が、古武道の師範ならざる、ほうけた顔でいった。  神鷹も呆然《ぼうぜん》としていた。その彼女のちょっとしたふるまいが、まるで、聖母マリアさまのように見えたからだった。  十時すぎに来客があって、水野たちも食堂に呼ばれた。客人は五十歳ぐらいの男性で、|一ノ瀬太雄《いちのせたかお》、斎藤の古くからの友人だと紹介された。 「水野さん……というと、西新井に道場がある、流派までは覚えていないけど、あの水野さん?」 「ええ」  水野はうなずいた。 「斎藤さん、すごい人ご存じですよね。身辺警護の方はもう心配ないな、おれが出る幕はないね」  苦笑いしながら、一ノ瀬はいう。 「そんなに、強いの?」  斎藤は、誰にともなく聞く。 「そりゃ強いさ。自分らが使ってた教則本にだって、お名前が出ていたぐらいなんだから。接近戦では、もう無敵だと思うよ」 「それは……ちょっと」  水野が恐縮していると、 「どうしてどうして、水野さんのところでは、武器を使った実践訓練なども、おやりになってるでしょう」  いいながら一ノ瀬が、足元に置いてあった大きな袋に片手をつっ込むと、突如、横に座っていた神鷹の胸元をめがけ、トリッキーな動作で、その手をつき出した。  が、神鷹はさらりとかわして、と同時に一ノ瀬の手首をつかんで、いともあっさりとねじ伏せる。 「痛ぇててて……」 「おい!」  水野が神鷹を止めた。  一ノ瀬の手には軍用ナイフが逆手《さかて》で握られてあったのだ。もちろん、鞘《さや》はついたままであるが。斎藤には、ふたりの動きが止まって、初めて何であるかがわかった。 「……見てのとおり、簡単にヒネられちゃうのね」  一ノ瀬は手首をさすりながら、 「まあ、これはふつうの合気道でもそうなんだけど、水野さんのところは、この先がすごいそうなんだ。相手が、痛ぇてて、ともだえてる間に、間髪《かんはつ》を入れず、もう片方の手で急所を突くわけさ。その急所が、何十ヵ所もあるんでしたよね、確か?」 「ええ、まあ、そういうことなんですが」  水野は、いいにくそうに答える。 「自分もチャンスがあれば、稽古をつけてもらいに道場におうかがいしようと、かねがね思ってたんですが、けど、もうこの歳《とし》ですからね。今さら戦場に出向くわけでもないし……」  そして、一ノ瀬は、若かりしころの無鉄砲さや武勇伝を少ししゃべってから、 「えーそんなわけで、自分にできる範囲でと、お土産をもってきましたので」  床にあった大きな袋を、いかにも重量物が入っていそうなそれを、テーブルの上に置いた。 「防弾チョッキを……とも思ったんですが、斎藤さん、それは着られないですよね?」  斎藤は、困った顔でうなずく。 「なので、その代わりにと思って」  一ノ瀬が袋のジッパーを開けながら、 「一見、毛布のように見えるけど、これは防弾シートなんですよ。防弾チョッキよりは、性能はやや劣るんですが、これをかぶっていたら、致命傷は防げますから」  へー、そんなものがあるのか、とばかりに斎藤と水野がのぞき込んで、手で触ってみる。 「まあ、重いんですけどね。防弾チョッキは十キロほどで、これは倍ぐらいはあります。だから、車に積んでおかれるのがいいと思いますよ。もちろん、座席にですよ。そして膝掛け代わりにでもしていただくのが、一番いいんですけどね。そうすると、撃《う》たれたときに、即座にかぶれるでしょう」 「ほう……」  感心して、斎藤はうなずく。 「車で一番危ないのは、ご存じのように、乗り降りするときですよね。そちらは、水野さんにお任せして。走ってるときに撃たれるというのは、日本ではまずないでしょうけど、外国では珍しくありません。そういった場合、敵が、車から撃ってきても、意外とあたらないものなんですよ。危ないのは、バイクなんですね」 「バイク……?」 「バイクは小廻りがきくでしょう。気がついたら真横につけられていて、ねらい撃ってくるわけですよ。それに、バイクは座面が高いですから、車の中を見やすいんですね。とくに、ふたり乗りが要注意です。後ろのやつが撃ってくるわけですから。これは特殊な訓練などをしなくても、素人《しろうと》にだってできるので、実際に危ないです。それに、拳銃は、その気にさえなれば、日本だって簡単に手に入れられますからね。それと——」  道順を小まめに変えることや、時間も不規則にすること、車に乗っているときの姿勢(頭が低くなるよう、つまり、だらしなく座ること)などなど、注意事項を、一ノ瀬が淡々と説明してくれる。  その一々は、いわれてみれば誰でも気がつきそうな、もっともな話ばかりだったが、彼に語られると、いっそう重みをおびて聞こえた。 「えー……でね、拳銃の場合は、五メーターをこえると、そうはあたりません。が、ライフルや猟銃などによる、狙撃《そげき》、もうこうなってくると、相手はプロですから、ちょっとやそっとでは防げませんね。このお家に入る前に、あたりを眺めてみたんですが、ねらえるポイントは、そこかしこにありました。ですから……」  窓際には立たないとか、カーテン類は常にしめろとか、庭に出ないとか、宅配便の男にも気をつけろとか、一ノ瀬は、さらに小一時間ほど、さまざまな注意事項を語ってから、 「土・日でしたら、体があきますので、お要りようのときには呼んでください」  そういい残して、帰っていった。  十二時ちょうどに、昼ご飯があった。トロッとしたあんがかかった中華風の焼きソバに、野菜のスープ、それと、やはりヌカ漬けがついてきた。そのヌカ漬けは、杉村の自家製のようだった。  一時すぎに、斎藤は打ち合わせがあると、水野をともなって外出した。  その十分ほど後に、ガレージの電動扉《シャッター》が開く音がして、奥さんが、みずから車を運転して出ていったようだった。彼女には、護衛はつけなくてもいいのか? 神鷹は疑問に思った。  時間をもてあましぎみの神鷹が、ちょっとの間、食堂でくつろいでいると、杉村が、お茶とお菓子をもってきてテーブルにつき、 「ところで、ショウくんは、歳はいくつなの?」  親しげに問いかけてきた。 「——二十五です」 「ご出身は、どちらなの?」 「埼玉県の浦和です」 「じゃ、そちらにお家があるのね」 「いえ、もう家はないんです。草加のアパートに、ひとりで暮らしてます」 「じゃ、ご両親とかは?」  杉村は、根掘り葉掘り聞いてくる。 「おやじは、居場所ぐらいは知ってますけど、もう会ってません。おふくろは、病気なんで、病院の中にいます」  神鷹は、ありのままを正直に答えた。 「あら……ごめんなさいね。わたしって、ついつい聞いちゃうのよね」  杉村が、弱々しい老女の声をつくって、謝罪していった。  神鷹は、気まずい雰囲気がイヤで、菓子を何個かつかんで立ち上がった。 「自分は、見張りをつづけます」  五時ごろ、早くも陽《ひ》が落ちて暗くなってきたので、杉村を手伝って雨戸を閉めていると、ガレージの音がした。奥さんが帰宅したようだった。  しばらくすると、百貨店の紙袋らしきものを何個か下げて、彼女が一階の食堂に姿をあらわした。  そして神鷹を見つけるや、 「ご苦労さまです」  にこやかに声をかけてきて、 「ご挨拶が遅くなってしまって、すいません。斎藤の家内の、静香《しずか》といいます」  あらたまって自己紹介をする。 「……押忍。自分は、神鷹彪といいます」  神鷹は緊張していった。 「さしでがましいとは思ったんですけれど、家におられるときに、おくつろぎになれるようにと」  静香は、紙袋の中をのぞき込みながら、 「こちらが、神鷹さんで、もう片方は、水野さんにお渡しください。ジャージなんですよ」  そういって、神鷹に手渡そうとする。 「あっ……」  神鷹としては、恐縮をとおりこして、お礼の言葉すらいえずに固まっていると、 「あらら、ショウくん、いいものもらっちゃったわね」  お茶を運んできた杉村が、茶化していった。  七時に、離れの台所で、神鷹はひとりで晩ご飯を食べた。ブリの焼き魚定食といった感じだったが、若い人には物足りないわよね、と豚肉の野菜炒めを杉村がつけてくれた。  九時すぎに、斎藤と水野がもどってきた。師範はお疲れの様子で、今日は先に寝かせてくれと、早々に部屋に消えた。  その夜も、これといった異変はなかった。  三時に水野が起き出してきて、交替してくれた。  神鷹は、気疲れといったほどではないが、ベッドにつくなり寝入ってしまった。  が、ただならぬ様子に、神鷹は目が覚めた。  ——電話が鳴っていた。  時計を見ると、まだ五時半を少しすぎたあたりである。  鳴り止《や》んだかと思うと、また、電話が鳴っている。  国会議員の朝って、こんなにも早いのか——? [#改ページ]  9  竜介も、週の初《しょ》っ端《ぱな》ぐらいは本店に顔を出さないとまずいので、おなじ建物の二階にある『認知神経心理学』研究室の、まもなく退官予定の川添《かわぞえ》教授や、内心は毛嫌いしている吉川《きっかわ》助教授らと少し話し込んでから、四階にある『情報科』にゆっくりと出勤すると、院生の中西が、資料室の赤いソファにひとりで待っていた。  そして顔を見るなり立ち上がって、 「先生! 大変なことがおこりましたよ」  どんぐり眼《まなこ》を向けて、勇んでいう。  竜介はイヤな胸騒ぎはしたが、 「なあに、朝っぱらから大変なことって」  つとめて平静をよそおって応じる。 「一時間ほど前にテレビにテロップが流れて、三十分ほど前には、病院の尾沼先生からもここに電話が入ったんですが——」  中西は早口でまくし立て、 「その前にちょっと確認しますけど、先生が土曜日に会いに行かれたのは、今の国会議員の、斎藤信介さんですよね?」  何をいまさらと竜介は思いながらも、 「うん、そうだけど」 「そうしますと、そのお父さんの、元衆議院議員である斎藤信之輔さんに関してなんですが、その山梨にある家が火事になって、それは今日の早朝のことらしくって、そして焼け出されたのがふたり。ひとりは女性で、もうひとりが、その斎藤信之輔さんなんですよ。ふたりは病院に運ばれたが、重体、そういったテロップが流れたんですよ」 「ええ? なんだって……」  胸騒ぎこそはちがっていたが、予想だにしていなかった話なので、いったい何がどうなっているのかと竜介は戸惑《とまど》いながら、とりあえず回転椅子《デスクチェアー》に腰をおろした。 「それでですね、待っている間に、その斎藤信之輔さんの方を、ネットで調べてみたんですよ。それをディスプレイに出してますので、先生、ちょっと見ていただけませんか」  そう中西にせかされて、仕事机《デスク》のはじに置いてあるCRTモニターの方に、竜介は顔を向けた。  画面にはスクリーンセーバーがおりていたので、エンターキーを押すと、文字とともに男の顔写真があらわれた。 「うん? これは斎藤、信介さんの方じゃないの、ファイルがちがってるよ」  一瞬、竜介はそう思っていってから、 「あっ、ちがう。——別人だ。会った彼よりもずいぶんと老けてる」 「そうなんですけれど、それは斎藤信之輔さんの、比較的若いころの写真みたいです。けど、似てますでしょう?」 「たしかに似てる。ぱっと見で、完全に見まちがった」 「自分もですね、土曜日に、斎藤信介さんの方を調べた関係で、そのときに彼の顔写真も見てましたから、あれ? と思ったんですよ」 「けど、よく注意して見てみれば、明らかに別人だよな」  竜介は、文字の方に目をやった。  ——山梨県|富士吉田《ふじよしだ》市の出身で、建設省の官僚をへて衆議院に当選が五回。北海道・沖縄開発庁長官も一度やっていて、年齢は六十七歳とまだ若い。あのような病気(脳梗塞《のうこうそく》)などに罹《かか》っていなければ、今も現役ばりばりの国会議員であったろうな。  そんなことを竜介が考えていると、 「先生、似てるんですよ。斎藤信介さんと、火事で重体になっている斎藤信之輔さんの、顔が」  中西が、その話をしつこくいう。 「……!」  竜介の頭にも、中西がいわんとしていることが、ひらめいた。 「じゃ、病院にいる彼が、まちがったというの?」 「その可能性、ありませんか?」 「神さまって、その種のまちがいを、おかすものなのかあ」  竜介は冗談《じょうだん》めいていいながらも、頭では真剣に考える。 「ちょっとおたずねしますけど、尾沼先生と、その斎藤さんファミリーとは、親しいんですか?」 「かなり親しそうだけど……」 「それともうひとつ確認ですが、今回は、神さまが黄泉《よみ》の国へといったときには、尾沼先生が、直《じか》に聞いていたんですよね?」 「そうだけど……」  中西は、ふんふん、とわかったように二、三度うなずいてから、 「自分が思うにはですね、今回の件は、その尾沼先生が、鍵《かぎ》をにぎっているんじゃないかと」 「うん?」  竜介は考えを中断し、中西のお説を聞いてやろうと顔を向けた。 「つまりですね、これも先生の仮説を借用しての話なんですが、まず尾沼先生の脳が、斎藤家の……斎藤信之輔さんの方の、身におこりそうな異変を察知しており、それを神さまの脳が、ふっととらえて、そしてテレビに映っていた、斎藤信介さんの顔とイコールを出してしまい、彼を黄泉の国へ、とそういってしまったんではないだろうかと。つまり、もとの情報は映像ですからね、そのへんで錯誤《さくご》がおこりうる可能性だって、ありそうなので」 「ふーん、なるほどね」  その中西の説に全面的に賛同したわけではないが、竜介は別のことを思い出して、合点《うなず》いてもいた。  料亭で斎藤信介と会ったさい、彼女が開口一番、お父さまの方かと見まちがえたわよ、そんなことをいっていたからだ。それはお世辞や社交辞令のたぐいだと、ふつう思うが、実際そうでもなかったようである。 「だが、そうなってくると」  竜介は語気を強めていう。 「その火事は、ただの火事だとは考えられないよ。つまり放火だったの?」 「いえ、そのへんはまだ発表がないんですよ。ついさっき、定時のニュースでもながれたんですが、これといって、新しい内容はありませんでしたから」 「じゃ、それは発表を待つしかないだろうな」 「それに元衆議院議員で、元大臣ですからね、これこそちゃんと調べてくれますよね、警察は」  中西は、いかにも信頼してなさそうにいう。 「そうしてくれないと、困る」  と竜介もいったものの、逆に、消防や警察は慎重の上にも慎重をきすだろうから、時間がかかりそうな気もした。 「ともかく、電話入れるよ」  尾沼由希靉はすぐにつかまった。  彼女は、こちら以上にあわてふためいている様子で、おなじく情報はなく、できれば午後にでも会って話をしたいとのことであった。ならば、こちらから出向いていくと約束をして、電話を切った。 「中西、今日はおまえも行くな」  竜介は決めていう。 「あっ、よろしいんですか」  中西の目が嬉《うれ》しそうに輝いた。 「行って尾沼先生に、さっきおまえがいった話を、説明してくれればいいからさ」 「じゃ、自分の説を採用していただけるわけですねえ」 「いや、おれはおれの説を話すから」 「ええ? じゃ、自分は捨て石なんですかあ」  ぴったしの言葉に、竜介は苦笑いしながら、 「若いころはね、そうやって経験を積むの」  いっぱしの先輩風を吹かせていった。      ※  高尾駅への出迎えは遠慮し、タクシーを使った。運転手は尾沼記念病院を知らなかったが、所番地を頼りに、なんとか運んでくれた。  そして、再び目《ま》のあたりにしたルーマニアの古城は、今日は抜けるような青空だというのに、前にもまして、異様なものに竜介には感じられた。  守衛の門をくぐってから、中西が、 「ところで、あの自分のICレコーダーは?」  小声で聞いてくる。 「あっ、カバンの中に入れっぱなしだ」  その常用の仕事鞄《ブリーフケース》を、竜介は今日ももって来ている。 「それ、まずいですよう」 「まずいまずい。尾沼先生の部屋にでも置かせてもらうよ」  そんな些細《ささい》なことで、神さまのご機嫌を損ねさせるわけにはいかない。竜介は、当然、彼と会うつもりで出向いて来たからだ。  病院の玄関口のところで(守衛から連絡でもいったのか)由希靉がふたりを待っていた。  そしてとりあえず、三階の彼女の書斎まで行って、腰を落ち着けた。 「前きたときと、ちょっと雰囲気ちがいますよね」  中西が、小声でつぶやいた。  いわれて見れば……窓から、陽の光がさし入ってきているせいだろうかと竜介も思った。それは城の外壁にあいている小さな窓だから、そこだけスポットライトのような感じだ。  そのまぶしい光の中をよぎって、由希靉が三人のコーヒーを運んできた。  けれど、彼女はいたたまれないような悲しい表情でテーブルにつくと、 「わたしの祖父がですね、山梨におりますから、あちこちと連絡をとりあっているらしいんですが、今はICUで、予断を許さない状態である、ぐらいしかわからないんですよ」  弱々しい声で、説明を始める。  それは竜介にとっては他人事《ひとごと》ではあったが、彼女の心中を慮《おもんばか》るに……竜介は気持ちをひきしめた。 「それとですね、もうひとり病院に運ばれた女性がいましたよね。その名前などは、テレビでは、まだ伏せられていると思いますが」  竜介は(中西も)、うなずいた。  研究室を出がけのさいに見たニュースでは、たしか歳ぐらいしかいわなかったからだ。 「祖父も、詳しいことはわからないらしいんですけど、その女性は、斎藤姓ではないそうなんですよ。お手伝いさんなどでも、ないそうです。ただ、斎藤先生は……先代の斎藤先生ですが、五年ほど前に、奥さまを亡くされておられるんですよ。そういったこともあって……」  由希靉はいいよどんだが、意図するところは竜介にも伝わった。 「そのときに、ご自身の病気がちょうど重なってしまわれて、それで、息子の信介さんが、選挙にお出になったわけですね」  竜介は、より深く事情がわかってきた。  お家|崩壊《ほうかい》の危機でもあり、彼としても断れなかったのだろう。 「ですが、先代の斎藤先生は、最近はとってもお元気だったらしく、ゴルフもなさっていたぐらいですし、もし信介さんがイヤなら、自分がまた選挙に出てもいいと、そんな冗談まで、祖父にはいっていたそうですから……信介さんが、あのよぼよぼ、とかおっしゃってましたけど、あれはまったくの冗談で、よぼよぼなのは、わたしの祖父の方なんですね」  由希靉は、料亭であった楽しい会話を思い出してか、微笑《ほほえ》んでいう。 「そうしますと」  彼女がいくぶん落ち着いてきたようなので、竜介は聞きたかったことをたずねる。 「その山梨の斎藤さんの家ですか、ふだんは、どのくらいの人がおられたんですか?」 「それは……わたしも詳しくは存じあげてないんですけど、お手伝いさんは、もちろんおられましたよ。火事を通報されたのは、そのお手伝いさんだそうですから。けど、その人は無事だったところをみると、寝泊まりされている場所が、少しちがうのかもしれませんね。けど、それ以外には……」  由希靉は思いつかない様子で、首をかしげる。 「そうすると、夜は、けっこう寂しいといえば寂しいんですよね」  竜介は、家の保安面を考えていった。 「ですけど、信介さんが東京に用事がないときには、その山梨の家に帰って、住んでいるはずですから」 「あっ、そうかそうか、そこが彼の実の家ですもんね」  竜介は少し苦笑いをしてから、 「つまり東京にある家と、行ったり来たりされてたわけか、距離も近いし……けど、彼の家族は、とくに子供さんには学校もあるでしょうから、山梨か東京、どちらかに本拠を置かなければ?」 「お子さんは、まだいないんじゃなかったかしら、生まれたって話は聞いてませんので……といいますのも、信介さんは、例の花束をわたしがもっていったときには、まだ独身だったんですよ。けど、そのことはわたしは知らなかったんですよ。もうとうの昔に結婚なさっていると、誰だって思っちゃいますよね。だから、祖父にだまされたようなものです。でもけっきょく、その一年後ぐらいに、ご結婚されたんですけどね」 「なーるほど」  竜介も笑顔で、うなずいた。  中西が、えー何のこと何のこと、といわんばかりに、さかんに顔を動かしている。 「ですから、奥さまとおふたりで、行ったり来たりされているんだと、思いますけどもね」 「うん、そうでしょうね」  竜介は軽く相槌《あいづち》をうちながらも、別のこともあれこれと頭に浮かんでいた。  その一年後に結婚した相手は、それこそ代議士の妻にふさわしい女性を、なかば強引にあてがわれたんだろうな……といったことや、彼が冗談めかして彼女に語っていた、もし運命の歯車がちがっていたら……の話も、それはごく最近の歯車のちがいじゃないか、などと。 「そうそう、その山梨の斎藤さんの家ですけど、どんな感じの家なんですか?」  聞いておくべきことを思い出して、竜介はたずねる。 「外から見た程度でいいですか? わたしはお家の中までは、おじゃましたことがないんですけれど」 「ええ、それで十分ですよ」 「でしたら……家の門が、ちょっと変わった作りでして、物置小屋のような細長い建物があって、そのはしっこに、門がついているんですよ」 「あっ、それはテレビでも映ってましたね。古い長屋みたいな、板張りの建物で、けど、意外と高さがあって、塀を兼ねているような」  ……それは、焼けずに残っていたのであるが。 「ええ、その細長い建物が、道に面していましたから。そして庭があって、奥に、二階建のお家が見えるんですけど、そちらは、日本の古めかしいお屋敷を想像していただければ、もうそのとおりだと思います。ですから……やはり火事には、ちょっと弱そうですよね」  由希靉は、竜介も思ったことをいった。 「その家の、まわりのロケーションとかは、どんな感じなんですか?」 「場所は、町中ではありませんでして、駅から車で十分ほどはかかりますね。家もまばらでしたし、隣は……畑じゃなかったかしら。そして、すぐ背後に、山がせまっているといった感じの場所ですね」 「ふうん」  竜介は腕組みをして、ひとしきりイメージをふくらませてから、 「じゃあですね、わたしどもの方から、いくつかお話があるんですよ。まずは、この中西くんが、おもしろい説を語ってくれますので」  そう突然ふられた中西は、 「あー、えーとですね」  戸惑いぎみに、そして、どうせ捨て石だと思いながらも、数時間前に竜介にした話を、その内容をわかりやすく説明する。 「……だからですね、神さまは、まちがったんではないだろうか、そういった可能性もあるんじゃないかと、自分は考えたんですけどもね」  その結論部分を聞いても、由希靉は、さして驚いた表情はせず、 「実は、わたしもですね、その火事のことを知った瞬間、似たようなことを考えちゃったんですよ」  その考えは不謹慎《ふきんしん》であるかのように、愁《うれ》いをおびた声でいう。  竜介は、案の定だと思いながら、 「中西がそう考え、尾沼先生も同様のことを考えられた。とするとですね、ひょっとして、あの斎藤信介さんも、似たような考えが頭をよぎったんではないだろうかと……もしそうだとすると、危険ですのでね。今されているであろう警護の手を緩《ゆる》めないよう、彼に進言していただけないでしょうか、尾沼先生の方から」 「はい、連絡がとれしだい、そのように……」 「それも、できるだけ早い方がいいですね。といいますのも、あの火事が、敵の計画のひとつである可能性だって、なきにしもあらずですから。騒ぎに乗じてスキをつくといったような。斎藤さんは、今は病院の方に詰めておられると思いますけど、その病院への出入りを狙《ねら》っているのかもしれませんし、あれこれと考えられますから、逆に、細心の注意をはらっていただいた方が——」  竜介は、そう強く念を押していい、 「それに、別の側面からみても、人をとりちがえるなんてミスを、あの神さまがおかすとは、ちょっと考えにくいんですよ」  おれはおれの考えを述べる、いよいよその話だなと中西は思う。 「まずですね、人の脳が、個人をどう識別しているのか、そういったお話をしますね。これはロシアの実験なんですが、死亡した直後の人間の脳から、視床《ししょう》の脳細胞をとり出して、それをニューロン単位にばらして、死滅しないように特殊なゼラチンで固めます。それをコイル状の装置の中に入れて、それに向かって、人に念じさせるわけですね。すると、そのニューロンが反応をし、その様子を装置で検出できます。が、それだけではなくって、そのニューロンは、その特定の人の念というもののパターンらしきものを覚えているらしく、後日そのニューロンと、その特定の人とを対面させると、念じなくても、ニューロンの方が先に反応しちゃうらしいんですよ。また会えたね……みたいな感じで」 「ええー?」  由希靉は、驚きの表情を隠さない。  中西はそれは知っているので、内心、鼻で笑う。 「多分にSFじみてますけど、これは実話なんですよ。もとはといえばアメリカの秘密実験だったらしく、それがいつしかロシアに渡り、旧ソ連が崩壊したどさくさで、ぽろっと表に出てきたんです。十年ほど前の話なんですけどね。つまり、脳から脳への超感覚的な情報伝達のさいには、その視床のニューロンがやっていたような働き、すなわち個人識別の信号も、付加されているのではないかと、考えられますよね。我々の意識は、映像情報にしか頼ってませんから、よくまちがうんですが、脳レベルでは、この〈誰信号〉とでも呼べるようなものが別にあるので、そうはまちがわないと思えるんですよ」  それは一理あるだろうけど、論点がちょっとズレているのでは……とも中西は思う。 「それとですね、彼個人のことを考えた場合も、つまりK・Yさんですが、もし、彼がまちがったことをいってしまうと、彼自身が崩壊してしまうんじゃないかと、そんな気もするんですがね」 「崩壊……といいますと?」 「彼は、そもそも入院するに至った最初の症状は、たしか被害|妄想《もうそう》だったですよね?」 「ええ」  由希靉はうなずく。 「そういった患者さんの場合、誰かが自分に危害を加えようとしている、あるいは殺そうとしている、そんな妄想にとらわれて、ならば先に相手を殺してしまおう、といった考えに至るので、危険だから入院となるわけですよね?」 「ええ、極端な場合は、そうなりますね」 「と、そうこうしていたら、彼の場合は能力が発現した。つまり、誰かが死にゆく映像がふっと見えた。そして数日たつと、それが現実化した。それを何度かくり返しているうちに、なーんだ、おれは意のままに人を殺せるじゃないか、もう安心だとばかりに逆の立場にふりかわった。かくして、われは生死|与奪《よだつ》をつかさどる神なり、といった妄想世界が構築されてしまった。のではないだろうかと、ぼくは思うんですけれど」 「あー、まさに、それは先生のおっしゃるとおりかもしれませんね」  目からウロコ、由希靉はそんな表情でいう。 「だから、人をとりちがえるなんてミスをおかすと、その妄想世界が崩壊しちゃいますよね。そこが、彼にとっては、いわば生命線だというのに。彼はパラノイアではあるでしょうけど、それなりに、精神の安定を保っていられるのは、その種の予知・予言が可能だからで……逆に考えると、絶対に確実なことでないかぎり、彼は口に出してはいわないと思うんですよ。また、確実な事柄しか、頭にも浮かんではこないだろうと、そんな気もしますね」 「ふうん」  由希靉が、深くうなずいた。  その話はさすがで、先の〈誰信号〉などよりは数段説得力があるなと、中西も思う。 「それと、これは余談ですが、中国の五山のひとつである東岳《とうがく》・泰山《たいざん》に、秦《しん》の始皇帝《しこうてい》が籠《こ》もったことがあります。それは封禅《ほうぜん》の儀《ぎ》といって、中国の霸者《はしゃ》が帝位につくと決まってやる儀式なんですが、自分の寿命はあとどのくらいなのか、自身の帝位は安泰なのか、などと、あれこれと山の神さまにおうかがいをたてるんですね。そのときに、泰山|府君《ふくん》なる神が実際にあらわれたとしましょう。すると、それこそ、まさに彼じゃありませんか」 「え……?」  由希靉は虚をつかれたような顔をしたが、目は輝かせている。 「かつていた神さまというのは、だいたいが実在するんです。一神教の天地創造の神などを除いては。ギリシャ神話のアポロンや、北欧神話のオーディンなども実在します。仏教の、菩薩《ぼさつ》や如来《にょらい》や天部《てんぶ》の神たちも実在します。理論上、実在できるといった方が正しいかもしれませんが、それは卵が先か鶏が先かですから、おなじことですよね。神々は実在する、そう思っていただいた方が、より現実にそくしているといえます。実際、泰山府君の役だったら、K・Yさんなら、十分にこなせそうですよね」 「ええ……まあ……」  由希靉は、ものごとの深遠に触れたかのような、かといって、にわかには信じがたいような、複雑な表情でうなずいた。  けど、そこまで話がいっちゃうと、学問をとおりこしてファンタジーだよな、とも中西は思う。 「ところで、話はころっと変わりますが、そのK・Yさんには、何か、抗精神病薬なりは使われていますよね?」 「いえ、彼には、その種の投薬はいっさいおこなっていないんですよ」  中西が、それは以前に(電車の中で)聞いた話とちがうじゃないかと、竜介の顔をニラむ。 「といいますのも、最初の名古屋の病院で、一般的な、ハロペリドールやフルフェナジン、そして新しいタイプのクロザピン……これはドーパミン遮蔽《しゃへい》ではないんですね。そして、やはり最新のリスペリドン……妄想や幻覚などには、よく効《き》く薬なんですが、さらには、パラノイアを緩和する効果がある、リチウムやテグレトール……あれこれと試したようなんですけど、投与量が微量であったにもかかわらず、陰性と陽性に、激しくふれてしまったらしく」  由希靉は、手で上下にしめしていい、 「それに、妄想性思考を抑えるといった、本来の効果が、まったく認められなかったようなんですね。それで、つぎの病院に移られてからは、薬はやめてくれといった、親族からの強い要望もありまして、当院でも、投薬は施していないんですよ」 「そうしますと、どんな治療法をやっているんですか?」  中西がおずおずとたずねる。  こいつ、おれがいった精神分析療法のことでも考えてるんだな……竜介は見透かして思う。  由希靉は困った顔をしながらも、 「はっきりいいますと、治療と呼べるようなものは、何もおこなっていません。当院は、彼にとってのホテルですね。それも超がつく、高級ホテルです」  ——毅然《きぜん》といい、 「それに、先ほど先生もおっしゃってましたけれど、実際、K・Yさんは、現状で、精神の安定は保たれていると思うんですよ。ですが、だからといって、一般の人のような社会生活が営めるとは、思えませんし、けど、それでありながら何もしないというのも、医者としては失格ですよね」  少し甘えたような声で、竜介にいう。 「いや、ぼくが聞いたのはですね、もし投薬をされていたら、その薬が切れる時間ってありますよね。そういったときに、黄泉の国へ、といい出すんじゃないかと、そうも思ったので。けど、投薬をされてないんだとすると、彼はいつ何時《なんどき》でも、おなじ状態なわけですよね」 「ええ、そうですけれど」 「じゃ、今から会いにいっても、大丈夫なわけだ」 「あ……はい」  由希靉は、戸惑いながら返事をする。 「今日おうかがいしたのはですね、何が何でも彼に会って話を聞く。話を聞き出す。それが第一の目的でしたから。もちろん、斎藤さんの件は、別にいたしまして、ですが」 「ええ、そうしていただいて、いくらかでも謎《なぞ》が解けますのなら——」  由希靉も強く同意して、椅子から立ち上がった。 「それに今日は、ぼくなりに作戦を練ってきましたのでね」  竜介は自信ありげにいうと、仕事鞄《ブリーフケース》の中から、紙切れが何枚かはさまっているファイルをとり出して、それだけを手にもって立ち上がった。  が、中西はひとり、長椅子に腰を落ち着けたままで、 「えー自分は、やっぱり行かない方がいいですよね。このあいだのこともありますから」  しょんぼりした顔でいう。 「いえ、大丈夫だと思いますよ。彼は、根にもつような性格ではないですから。きついことをいっても、その場かぎりなんですね。ふつうであったら、意外と、さわやかな青年なのかもしれません」  由希靉に勇気づけられてか、中西も顔をほころばせぎみに立ち上がった。  ——さわやかな青年。  その彼女の言葉が、竜介のこころを妙にとらえた。  三人は二階へと下り、そして207号室のドアの横のベルを由希靉が押すと、しばらくあって、 「……ただ今、来客中なんですけど」  インターホンから男の声が聞こえた。 「知ってるわ。中で待たせてもらっていい?」  部屋を出がけに、書斎机《デスク》のモニターを見て彼女は確認をしていたはずだが。 「……はい。尾沼先生がよろしければ」  施錠が解ける音がして、由希靉はドアを開けた。  ちょっと強引だなと竜介は感じながらも、その控室《ひかえしつ》に入った。  由希靉が、おおいの白いブラインドに手をかけて、見てといわんばかりに隙間を作ったので、竜介が目線を下げてのぞき込むと、病室には、白衣をまとった中年の女性が……後ろ姿ではあったが、廊下で一度すれちがった、料亭でも噂《うわさ》にのぼった院長夫人だとすぐにわかった。  それともうひとり、見舞い客らしく、見事な白髪をした老人の頭だけが見えた。  由希靉はブラインドをもとにもどしてから、 「ねー、叔母が来ているんですよ」  不満げに口をとがらせていい、男ふたりに丸椅子をすすめて、自身もそのひとつに腰を下ろしながら、 「満子叔母さんは、実は、精神科の医者《ドクター》ではないんですよ」 「ええ?」 「心理学の方の博士《ドクター》なんですね、先生とおなじで。いえ、先生とはまったくちがって、一般心理なんですよ、それもひと昔前の。先生は、ユングやフロイトの話などは全然なさいませんよね。けど叔母は、その手の話ばっっかし」  由希靉は、いかにも嫌そうにいう。  竜介も、わかるわかると、顔でうなずいた。 「ですから、治療行為は本来できないんですけど、彼女もそのあたりは心得てまして、分裂病のクランケなどにはノータッチなんですね。というより、興味がないらしくって。ところが、神さまのような、境界領域の特殊な患者さんとなると、ここぞとばかりに、顔をつっ込んでくるんですよ」 「なっ……なるほど」  竜介は苦笑ぎみにうなずきながらも、まるで我が身を鏡に映しているようだとも思う。 「K・Yさんは、いちおう、わたしが主治医なんですよ。けど、叔母は院長夫人ですからね、強いことはいえませんでしょう。——誰だって」  つまり、他の医者たちも迷惑をこうむっていそうだが、その彼女の声がちょっと大きいので、竜介は少しはらはらする。  が、この控室は、間にあるガラスも分厚そうだし、防音のてんは心配なさそうで、そういった愚痴《ぐち》を、もっぱらしゃべるところなのかもしれない。  そして、しばらく雑談をしていると、  ——カチャ。  内扉の施錠が解ける音がした。  すると、そのドアが開いて出てきたのは、車椅子に乗っている小柄な老人であった。さっきのぞき見たときに、白髪の頭だけが見えていた彼であるが、焦《こ》げ茶色をした上等そうな冬の和服が板についていて、いかにも好々爺《こうこうや》とした顔を竜介たちに向けて、会釈をする。  こちらも会釈を返していると、その車椅子を押しながら出てきた院長夫人が、 「由希靉さんはご存じよね、くわなさん?」 「ええ、何度か」  彼女は椅子から立ち上がって、ていねいにお辞儀をした。  が、くわな——?  その名前に、竜介の頭は鋭く反応をした。  神さまのイニシャルは、K・Yだよな。  それに、最初の病院は名古屋だといっていたし。  すると、もしかして、あの桑名《くわな》では——!  院長夫人は、男ふたりには目もくれずに、廊下側のドアの施錠を解いて、老人の車椅子を押しながら部屋から出ていった。 「さあ、わたしたちの番ですよ」  由希靉は嬉しそうにうながし、 「さきほどのご老人ですけど、ご親戚らしくって、あのかたがお見えになった後は、神さまは決まって、すごく機嫌がいいんですよ。ですからね……」  みずからも機嫌よさそうに、内扉のベルを押した。  いちいち面倒な手順だが、この種の安全対策《セキュリティー》は、どんな患者さんであろうと(逃亡のおそれなどなくても)、きちんと遵守《じゅんしゅ》されているんだなと、竜介はあらためて思った。  由希靉がノックをしてからドアを開けて、朗《ほが》らかに声をかけながら、竜介も臆することなく後につづいて、中西は少し遠慮がちに……部屋に入った。  彼は、空色のガウンをまとって、こちらに顔を向けて椅子に座っていた。 「あら、お土産をいただいたんですかあ」  由希靉は、お見舞い、などとはいわない。  大ぶりの艶《つや》やかなイチゴが、竹カゴに山のように盛られて、ベッドの上に置かれてあった。  彼が、 〈皆さんでどうぞ……〉  といったふうに、手と顔の表情で語った。  その、まるで貴族か王様のような仕草に、竜介は少し驚かされながらも、 「美味《おい》しそうなイチゴですよねえ」  つかつかと歩み寄り、 「じゃ、せっかくですから」  我先にと手を伸ばして、一個つかんで、かぶりついた。 「うわっ、すごく甘いなあ、今時分にこんなイチゴってありなんですかあ」  ことさら陽気にいってから、残ったヘタを手にかかげもって、どこに捨てようか……キョロキョロあたりを見まわし、そして部屋のすみっこに置かれてあるゴミ箱に目線を定めると、えい、と声に出して投げた。が、まったく届かずに床に落ちた。  彼が、ニコッと笑った。  ——道化芝居も、竜介が練ってきた作戦のひとつだったようだが。  竜介は、ベッドのふちに腰をおろすと、さらに一個つまみ上げて、 「このイチゴってさ、まわりに黒い点々がいっぱいついてるよね。どう見たって種だよね。これは食べていいものかどうかって、子供のころけっこう悩んだんだよなあ」  そんな愚《ぐ》にもつかないことをいい、その種を爪で少しほじくってから、ふたたび口に運んだ。  すると今度は、竜介は、ヘタを右手の指先にもつと、左手を前に出して、その手の平の上にヘタを置きながら、左手を握りしめていき、右手の指をひき抜いた。  そして、左手をひらくと、ヘタは消えていた。  右手も、手の平を上に向けているが、そちらにもヘタはない。 「……あら?」  由希靉がワンテンポ遅れて、驚きの声をあげた。  竜介が、まさか手品なんかやるとは、それもこんな場所で、想像だにしていなかったからである。  中西は、竜介ができることは知っているが、よくやるよなあ、とあきれ顔だ。  すると、彼が、差し出されている竜介の両手の、右手の方を、指先でツンツンとつっついた。 「ご名答——」  いいながら竜介が右手を裏にひっくり返すと、その人差し指と中指の、指先の間に器用にはさまってヘタはあった。 「あら、いつのまに?」  由希靉にしてみれば、あくまでも不可思議な世界だろうが、知っている者にとっては、それは手品の初歩である。  実は竜介は、さらに難解なネタを——一般人にはまず絶対に見破れないはず——上着のポケットに忍ばせてあったのだ。もちろん神さまの眼力を試そうと思ってのことだが、けど、これ以上やると、いかにも彼をテストしているようで、ご機嫌を損ねさせちゃうのもマズいし、などと逡巡《しゅんじゅん》していると。  彼が、竜介の指にあったイチゴのヘタを、ふっとつまみとった。  何をする気だろう……と見ていると、彼は、そのヘタをもう片方の手の平の上に、ぽとりと落とし置いた。  そして、その左手をゆっくりととじていき、しばらくしてから、ゆっくりと手をひらくと、置かれたはずのヘタが忽然《こつぜん》と消えていた。 「ええ?」  由希靉と中西が驚愕《きょうがく》の声を発し、竜介も……我が目を疑った。  彼は、ふふ、と子供っぽく微笑んでから、その手をふたたびゆっくりととじていく。  由希靉と中西は、その彼の左手に釘づけだ。  だが、竜介はひとり、別のところにもチラチラと目線を向けている。  そして、彼が左手をひらくと、その手の平の上にはヘタがもどっていた。 「ええー?」  由希靉と中西が悲鳴に近い声を発した。  竜介も……混乱していた。タネが見破れなかったからである。軽い目眩《めまい》におそわれた。理解しがたい出来事に、頭が機能不全《ストライキ》をおこしているような感じだった。  竜介は、邪念を払拭《ふっしょく》するかのように頭《かぶり》をふった。  手品の果たし合いをしにここに来たわけではないからだ。本来の目的に立ちかえって……と。 「神さまに、おりいって、見ていただきたいものがあるんですよ」  竜介は、小わきに抱えていたファイルから紙切れを二枚とり出して、それを彼にしめしながら、 「今日は月曜日なので、一昨日の土曜日のことですよね。神さまが、黄泉の国へ……とおっしゃられた男の人がいたと思うんですが、その人は、この二枚の写真のうちの、どちらなのでしょうか?」  あくまでも丁寧にだが、直截《ちょくさい》にたずねる。  それらはインターネットからプリントアウトした写真なので画質はそうよくはない。  彼は、ちらっと見ただけで、即座に一枚を指さした。  それは、やはり、斎藤信介の方の写真であった。 「……そうですか」  竜介は、いくぶん肩を落とした。  神さまは人をとりちがえるなんてミスはおかさない、と力説はしたものの、もう一枚を選んでくれた方が話は簡単だからだ。  竜介は、彼が指さした写真を由希靉と中西にもしめしてから、 「そうしますとですね、これは斎藤信介という名前の人なんですが、その彼が、どういった死に方をするのか……そのあたりにつきまして、神さまとしましては、何か、ご存じのてんはないでしょうか?」  慇懃《いんぎん》に言葉をつむぎながら、もっとも聞きたかったことをたずねる。  が、彼は、どこを見ているのかわからないような虚《うつ》ろな表情で、おし黙ったままである。 「神さま、それはとっても重要なことなんですよ」  話に加わってきて、由希靉がいう。 「神さまでしたら、そのあたりのことも見えますよね。もし見えたものがあったら、それをわたしたちに教えていただければ」  ——見える。  その言葉に彼が反応をした。かのようにも竜介には思えたが、それはごくわずかな表情の変化で、依然として、彼は黙りこくったままである。  竜介は、別のことを聞くことにした。 「実はですね、このもう一枚の写真は、その斎藤信介の父親で、斎藤信之輔という人なんですが、今日の明け方、事故に遭《あ》われましてね」  火事で、といった具体的なことはいわずに、 「今病院にいて、まさに生死の境をさまよっているんですよ。神さまは、そちらの件に関しては、何かお気づきのてんとか、ありませんでしょうか?」  そうたずねると、彼が、少し不愉快そうな顔をした。 「いやね、人の生死与奪をつかさどっておられる神さまであらせられるから、ご存じではないだろうかと思ったんですが」  竜介は、へりくだりながらも、毒をおびた言い方でいう。  彼の顔が、突如、けわしい表情に変わった。 「われは、泰山府君の神なり——」  澄んだ声が病室にこだました。  それは地獄の底から、いや、遥かなる山々をこえて聞こえてきたような美しい声にも竜介には感じられた。男性にしては高い声なのだ。 「——かの女《おんな》を、黄泉の国へおくらん」  彼は流麗にそういった。 「ええ?」  由希靉が聞き返した。 「かの女といいますと?」  竜介もたずねたが、彼はそういったきりで、後は素知らぬ顔である。 「そう漠然といわれても、ぼくたちには何のことやら皆目わからないんですが、ねえ、神さま」  竜介はなおも食い下がったが、神さまは、そっぽを向いたままで微動《びどう》だにしない。 「あのう、ひょっとすれば」  中西が竜介の肩をつっついて、小声でいった。 「うん? ひょっとすればって……」      ※  その日の夕方あたりから、山梨の斎藤邸の火事のニュース報道は、つぎのような内容に変わった。  ——死亡一名、名前は佐々木恭子《ささききょうこ》、三十一歳。  ——斎藤信之輔は意識を回復し、快方に向かっている。  さらには、夜の九時以降のニュースで、火事の原因についての発表があり、  ——火元は一階の応接間付近。  ——漏電《ろうでん》の疑いが濃厚。  とのことであった。 [#改ページ]  10  神鷹は、和室の前の縁側にあぐら座りをして、ただ庭を見やっていた。そこには昼をすぎると陽があたってポカポカと暖かかった。  代々木上原の斎藤邸は、いつも以上の静寂《せいじゃく》ぶりである。  ——家の車を出すの、いや、事故したら元も子もないとタクシーを呼んで、斎藤は水野をともなって朝の六時すぎに大慌てで家から出ていき、しばらくすると男が訪ねてきて、それは秘書のようだったが、奥さんを連れて出ていき、複数ある電話がひっきりなしに鳴っていたが、あるときからピタリと止んだ。何でも、杉村が、電話線を切ったとのことであった。  ——テレビ局とか新聞社とか、そんなとこばっかし。人の不幸を何だと思ってるんですか!  杉村は青筋を立てて怒り、  ——わたしは携帯をもっているので、旦那さまからは、そちらにかかってくるから大丈夫!  だとも豪語していた。  だから、屋敷には杉村と神鷹だけが残って、それこそウソのように静まりかえっているのだ。  神鷹は、仮睡《うたたね》ぎみに、ぼうと庭を見ていた。  地面の踏み石をたどっていくと、二方向にわかれていて、右に行くと木立《こだち》に隠れてしまい、その先は車庫だ。  左に行くと、岩に囲まれた池があって、枝ぶりのいい木々が植わっている。池の手前には石の灯籠《とうろう》も立っている。そんな景色に、神鷹は見覚えがあった。子供のころ遊び場にしていた、お寺に、どこか似ていたからだ。  あれは、何という寺だったのか?  いや、小学校にあがる前のことだから、寺の名前などはもとより知らない。家の近所にあった、ただ、お寺である。  当時、神鷹の家があった浦和市の郊外は、まだ八割がたが田畑や雑木林で、農家にまじって、普通の家がぽつぽつと建ち始めたぐらいだった。だから、遊び場にはこと欠かなかったはずだ。が、そのお寺は格別だった。  木々の多さはもちろんだったが、黒色にまじって金色や銀色の鯉が泳いでいる池があって、そこには亀もいて、朱色の橋がかかっていて、清らかな小川が流れていて……それらは、今にして思うと小さなスケールだったのだろうが、人の手が適度に入っている境内《けいだい》は、まさに箱庭で、足元が危なっかしい雑木林などとはちがって、心地よく遊べる場所であったのだ。  けれど、そのお寺のことを思い出すたびに、神鷹はきまって、胸がはりさけそうな暗澹《あんたん》たる気持ちにおそわれて、滅入《めい》ってしまうのだ。それは子供のころから今もなお、だから二十年このかた、ずーっとそうなのである。  あのとき、あんなことをやっていなければ、あのようなことにはなっていなかったのかもしれない、そんな後悔の念に苛《さいな》まれるのだった。  お寺には、ケンちゃんと呼んでいた男の子がいた。本名は覚えていないが、もう小学校にかよっていたから、自分より一、二歳上だったのだろう。  神鷹は、そのケンちゃんの弟分のようなもので、一緒によく遊んでくれたのだ。夏のある日には、境内の池に咲いているハスの花を指さして、 「あのピンク色の花からな、つぼみがぱかっとひらくときに、仏さまが生まれてくるんだって」  そんな、寺の子供らしいことを教えてくれたりもした。  そのケンちゃんの両親や、おじいさんも(つまり寺の住職の家族たちだが)、神鷹にはやさしく接してくれた。行くとおやつもくれたし、昼ご飯や晩ご飯も、何度となく食べさせてくれた。  神鷹の家が、特別に貧しかったから、というわけではない。母親は、そのころから病気で、どこかの病院に入院したままだったし、それに、父親は普通の会社員だったから、夜遅くならないと家には帰ってこないのだ。つまり、鍵っ子……そんなシャレた言葉が、当時あったかどうか神鷹は覚えていないが、そのお寺ぐらいしか、時間をつぶすところがなかったのだ。  お寺の家族たちは、そんな神鷹の家の事情を知ってか、知らずか……いや、知っていたのだろうと、歳をとってから思うようになった。  そして、夏も終わりかけていた、ある日のことであったろうか。  ケンちゃんが、とっときの秘密の場所を教えてやると、神鷹を誘った。  境内のすみっこの、道に面した角に、そこだけ木立で隔離されたような場所があり、古ぼけた木造の建物が立っていた。格子の扉から中をのぞくと、畳が二枚ほど敷かれてあって、ごちゃごちゃと何かが置かれていた。当時は何だかわからなかったが(物置小屋とでも思っていたはずだが)、今にして考えると、それは神社だったのだろう。人がやっと入れるほどの、小さなお社《やしろ》が立っていたのだ。  そのお社は、道から見れば、道とおなじ高さだったが、お寺の境内の方から見ると、大人の背丈ほどの高台にあるのだ。  そのお社のすそは(つまり境内の側だが)木の塀で囲われていて、さらに、ぐるりを木立がおおっていた。だから、外から見たぐらいでは、どうなっているのかわからない。  が、その木立をすり抜けてみると、塀には裏木戸のような小さな戸がついていた。南京錠《なんきんじょう》がかかっていたので、ケンちゃんが鍵をはずした。そして、その戸を開けると、地面とはちがったゴツゴツしたものが、目の前にほぼ垂直にあった。それは岩のようであった。つまり、お社は、その岩の上に立っているのだった。  ゴツゴツとした岩にも、扉があった。  というより、分厚い木の板を、立てかけているといった感じだった。ケンちゃんひとりでは、その扉は重たいらしく、神鷹も手伝って横にずらした。  すると、ぽっかり穴があいていた。 「いいな! ぜったいに秘密だぞ。住職たちにもいうなよ」  ケンちゃんは念を押してから、もってきていた懐中電灯で中を照らした。彼は、父親やおじいさんのことを、住職と呼んでいた。  その穴は、当時のふたりだったら、かがまなくても入っていけるぐらいの大きさで、地下へもぐる階段があった。角がとれてしまっている石の階段で、ツルツルと滑りやすかった。それは、やや右に曲がり込んでいき、十段か、もう少しあっただろうか。  両方の壁に手をつきながら慎重に降りていくと、平らで、開けた場所に出た。  かと思うと、ケンちゃんが、懐中電灯の明かりを消した。もう一寸先もわからないほどの暗闇で、 「ぎゃあー」  わざとらしく叫び声をあげながら、ケンちゃんが、手探りでロウソクに火を灯《とも》した。ロウソクとマッチが、階段を降りたすぐ横のところに置かれていた木箱に、用意されてあったのだ。  ロウソクは一本ではこころもとないと、何本も灯して、その洞窟の部屋の、あちこちに立てて置いた。  洞窟《どうくつ》の広さは、子供ごころには、たいそう広く感じられた。中で、ふたりが走り廻れるほどの広さはあった。それに外よりもひんやりとしていて、気持ちよかった。  洞窟の壁には、壁だけじゃなく天井にも、いろんな絵が刻まれてあった。  ケンちゃんがいうには、昔の僧侶が、時間をかけてこつこつ彫ったそうだ。が、ひときわ神鷹の目をひいたのは、奥の壁にある、竜のそれであった。  お寺の本堂にも、天井に大きな竜の絵が描かれていたので、それは竜という架空の動物であることは神鷹も知っていた。  ——とぐろを巻いた竜が、ギョロリとした目を向けて、こちらをニラみつけていた。  そのワシのように鋭い爪が、何かをつかんでいそうな場所の壁に、真ん丸の穴があいていた。子供の手なら、すっぽり入りそうだったが、懐中電灯で照らしてみても、奥までは見えなかった。穴は途中で曲がっているらしかった。 「ここな、悪いことをした人が手を入れると、ちぎられるんだって」  ケンちゃんが、おどろおどろしく、そう教えてくれた。  そのときは半分信じたけど、神鷹が歳をとってから見た映画にも、似たような話はあった。  竜の真下に、壁から掘り出されたような石の祭壇があって、それはハスの花がひらいたような形だったけど、ハスの花はところどころ折れて欠けていた。そこにだけ、金色の立派なロウソク立てが置かれてあった(今思うと、それは真鍮《しんちゅう》製だろう)。  その後にも何度となく、神社の下の洞窟には、ひそかに遊びに行った。  あるときには、その石の祭壇に、黒塗りの大きな箱が置かれていたこともある。 「これは、ぜったい秘仏な」  ケンちゃんは、むずかしい言葉でいい、 「中を見ると、目がくさって死んでしまうんだって。自分も見たことはない」  首をふりながら、実際、こわそうにいった。  その箱には両開きの扉がついていて、小さな南京錠で閉じられてあった。  が、神鷹は、中を見せて見せてと、駄々《だだ》をこねてせがんだ記憶がある。  すると、ケンちゃんが、 「うちのお寺にはもう一個、秘密の宝がある。そっちだったら……」  なだめるようにいったのだった。  そのもう一個の、お寺の秘密の宝は、秋風が吹き始めたころのある日に——  ケンちゃんが、こっちこっち、と本堂の方に手招きするので、神鷹が座敷に上がりこむと、 「あのな、住職が出しっぱなしにしたまま、忘れてるのや」  そういって、お経をあげる台のところを指さした。  ちょうど筆箱ぐらいの大きさの、平たくて細長い、いかにも古そうな木の箱が置かれてあった。  ケンちゃんが、あたりをキョロキョロうかがいながら、それを手にとった。そして、その木箱の蓋《ふた》を開けようとしたとき、本堂の奥で何かの音がした。  ケンちゃんは箱をつかんだまま、神鷹も一緒に、脱兎《だっと》のごとくに本堂から走り出た。  靴は手でもって、途中ではき、そして境内のすみへと走り逃げていった。そういった秘密の宝は、秘密の洞窟で見るにかぎる——とばかりに。  洞窟の中に入って、息が落ち着いてきてから、儀式のようにロウソクを何本も灯した。  その日は、石の祭壇にも、例の黒い箱が置かれてあった。その箱は、お祈り(呪文? お経?)を唱える特別な日にだけ、そこに置かれるとのことだった。  ちょうどいい日だとばかりに、その祭壇の前あたりに座り込んで、ケンちゃんが、その木箱の蓋をおもむろに開けた。  ぷーんとお香のようないい匂いがして、中には、艶やかな紫色の布が入っていた。 「これ?」 「ちがうちがう、この中にくるまれてるのや」  ケンちゃんが慎重な手つきで、その布をひらいていく。  すると、出てきたのは、茶褐色のサビにおおわれた細長い金属の棒で、角張っていて、鋭く先がとがっていて、もう片方のはしは一センチほど直角に曲がっていて……特別にどうというものではなかったけど、神鷹が、それまでに見たことがないものではあった。 「これはな、うちのお寺と、本寺とをつなぐ、大切な証拠の品なんだって」 「ほんじ、て?」  神鷹がたずねても、いったケンちゃん自身が知らなかったようで、 「これはな、この世とあの世とをつなぐ、鍵のようなものなんだって」  別の説明をした。  けれど、この世とあの世とをつなぐ、その話にはすっかり魅了されて、あの世とはどんなところなのだろう、どうつながっているのだろうか……などと、神鷹はしばらく見惚《みと》れていたことを覚えている。  ケンちゃんは、その摩訶不思議《まかふしぎ》な〈鍵〉を、もとのようにていねいに布にくるんで、箱にしまった。 「かえすの?」 「かえさなきゃ」  けど、もう一度見たい、明日も見たいと、そんなことをいって神鷹が駄々をこねたはずだ。  するとケンちゃんが、 「そうだ! この絶対ひぶつの、こわい箱の前に、これを一緒に置いといたら、お宝がお宝を呼んだって、大騒ぎになるぞ」  悪戯《いたずら》ごころをおこしていった。  神鷹も、やろうやろうと同調していった記憶がある。  そして、そのとおりにして、ふたりは洞窟から出て、何食わぬ顔をしながら、境内でひとしきり遊んでから別れたのだった。  ところが、ところがであったのだ。  その夜、いや、正確には明け方ちかくのことだったが、外がやたらと騒々しいので目が覚め、父親も起きてきて、様子を見に出て行った。しばらくして戻ってくると、お寺が火事だと神鷹に告げた。  ——え!  あたりが明るくなってから、神鷹も父親に連れられて見に行ったが、もう火は消えていたようだけど、消防車が何台も停《と》まっていて、消防士や近所の人や、大勢の人でごったがえしていた。 「お寺の家族が、全員焼け死んだそうよ」  見物人のささやく声が聞こえた。  神鷹は足ががくがくと震えて、立っていられなくなって、父親に抱きかかえられながら家に帰った。  が、全員死亡……それは間違いで、住職のおじいさんだけは助かったことを後から知った。何でも、その彼は、別のお寺の手伝いとかで家にはいなかったそうだ。  けど、どっちにせよ、ケンちゃんも、神鷹にやさしくしてくれたケンちゃんの母親も、そして父親も、その火事で死んでしまったのである。  暗澹たるこころの傷だけが、神鷹に残った。  お寺の秘密の宝をもちだしたりしたから、何かのバチがあたって、あんなことになってしまったのだ。そうするようにせがんだのは自分である。それに、お寺に返さなかったのも自分がごねたせいだ。すべては——自分が原因なのだ。  子供ごころにそう強く思った。いや、今でも神鷹はこころの底でそう思っている。 「ショウくん」  杉村の声がしたので、神鷹が反射的に立ち上がろうとすると、 「いいのよ、そのままで。木の床に座っていると痛いだろうと思ってね」  杉村が、座布団をもってきてくれたのだ。 「おっ、押忍」  神鷹は戸惑いながらも、うけとった。  杉村は、もう一枚座布団をもってきていて、 「ここが一番暖かいですものね」  にこやかにいいながら、それを神鷹の横に敷くと、自分も座った。 「さっきね、わたしの携帯電話に連絡が入ったのよ。大旦那さまは、命には別状ないって。だからひと安心だわよね」  杉村は霧が晴れたように、嬉しそうな顔でいった。 「押忍。よかったです」  神鷹はいいながらも、そうか、こっちも火事だったんだな……と、今さらのように思い、どこか因縁《いんねん》めいた一致に、奇妙な感覚にとらわれだした。その山梨の火事も、自分が原因だろうか、そんな考えが神鷹の頭をよぎったりもする。 「向こうのお家にはね、遠藤《えんどう》さんというお手伝いさんがいるの。電話では頻繁《ひんぱん》に連絡をとりあう仲なんだけど、ちょっと頼りない感じなのよ。三年ほど前に、その遠藤さんに代わったから、お家のことも、あまり知らないのかもしれないわね。わたしだったら、そんな火事なんか絶対におこさせないのに」  杉村は愚痴っぽくいってから、 「それと、女の人がひとりおられたのよ。若い人らしいんだけど、お名前を聞いても、わたし存じあげないのよね。いったい誰なのかしら」  ——首をかしげる。  若い女の人? 神鷹はニュースなど見ていないから、よくわからない。 「晩ご飯、何が食べたい? 今日はわたしたちふたりだけだから」  杉村がいきなり聞いてくる。 「えー……」  神鷹としては、それはさらに考えの外だったので、返事に窮《きゅう》していると、 「若いうちは、食べるものだけは遠慮しないで、どんどん食べなきゃダメよう」  杉村は、例によって母親のような口調でいい、 「ともかく、わたしはスーパーにお買い物に行かなきゃならないのよ。ショウくんひとりになっちゃうけど、大丈夫よね。門の呼び鈴が鳴っても、出なくていいわよ。どうせマスコミなんだから」  憎々しげにいってから立ち上がって、座布団を手に、廊下を去っていった。  神鷹は、肩の力が抜けたように気が楽になった。  杉村のテンポのいい会話に、ついていけなかったからだ。  いつもそうだというわけではないが、神鷹は、ときどきそうなるのだ。  ——薬!  そうだ、薬を飲まなければいけないことを神鷹は思い出した。  けど、師範からの呼び出しで慌ててアパートからとび出したとき、バッグに詰めたっけ…… [#改ページ]  11  ——火曜日。  今日は少し早い時間に竜介が『情報科』に出勤すると、資料室にある赤いソファで、寝袋から上半身をはだけて中西が、眠りほうけていた。  竜介がコートをハンガーにかけていると、その音で目覚めて、びくっと顔を上げ、 「あっ……すいません。終電のりおくれちゃって」  誰かと似たような言い訳をし、腰から下に寝袋を巻きつけたままで蓑虫《みのむし》のように起き上がると、前のテーブルに置かれてあった彼自前のノートパソコンに遮二無二《しゃにむに》にしがみつくや、キーを叩いて、 「やった! 答えが返ってきてる」  ——嬉々としていった。 「うん? いったい何をやってたの?」  竜介は白衣をひっかぶって、回転椅子《デスクチェアー》に腰をおろした。 「少々お待ちを、順を追ってご説明しますから」  中西は寝袋を脱いで、それをわきにどけ、スラックスと靴をはいてから、 「えーとですね、女優の小田切美子さん、彼女のファンクラブのチャットがありましてね、そこにもぐりこんで、いろいろと話を聞かせてもらってたんですよ」 「うん? もうかれこれ、二ヵ月近くたつけど」  つまり、その小田切美子が自殺(?)をしたのは、十月の初旬だからである。 「いえ、チャットの方は、逆に大盛りあがりなんですよ。死んでから騒がれるっていうのも、ちょっと可哀想ですけどもね」  中西は、いかにも常識人的なことをいい、 「で、話しこんでしまって。隣の大部屋にひとりだけいると電気を食うでしょう、だから、ここを使わせてもらったんですが」 「まあ、それはかまわないけど」 「それでですね、自分は、にわかファンですから、知ったかぶりはしないで、そのとおりにふるまっていたら、会員のひとりが、だったら、ファンクラブの古い会報誌があるよ、それを送ってあげるね、と親切にメールしてくれたんですよ」 「それが、今喜んでいた答え?」 「いえいえ、それはもう昨日の話です。その会報誌にざーっと目をとおしていたら、先生が、神さまの予言した一連の事件には、何か共通項はないだろうか、なんてことをおっしゃってましたよね。つまり、それが見つかったんですよ」  中西は、嬉しそうに結論を先にいってから、テーブルに置いてあった紙を一枚とって、竜介に手渡す。 「うーん……?」  竜介も期待して、そのプリントアウトされた紙に見入る。 「それはですね、七年ほど前に、小田切美子さんが昼のドラマに出演していて、いわゆる、昼メロですよね。それが終わっての、ご苦労さまでしたというファンの集《つど》いがあって、そのときの様子なんですが、そこに、小さく写真がのってますでしょう」  晴れやかそうな彼女に、男が、花束をさし出している写真である。 「それと、わずかですが文章も出てますよね」 「どれどれ……ファンクラブを代表して、浜田俊夫氏が花束を」  とそこまで読んでから、竜介も気づいていう。 「これって、あのハマダ社長の、浜田さん?」 「自分も、ハタとそうひらめきまして」  威勢よく中西はいい、 「けど、同姓同名って場合もありますよね。それに男の顔はほとんど写ってませんし、肩書もいっさい出てませんから。それで、チャットの連中に聞いてみたんですよ。ところが、そのとき話に加わっていたのは、会員番号が二千番とか三千番台とかで、古くからいる幹部クラスのファンのことは、わからないっていうんですよ。それもそのはずで、彼女は、芸歴が二十年をこえてますからね」 「じゃ、さっき喜んでいたのが、その答えね?」 「いえ、その件は、日付変更線あたりで決着をみました」  竜介が、ブス、と怒った顔をする。 「だからですね、何度となく盛りあがったわけですよ。つぎからつぎへと謎が解けていきましてね、なので、順を追いまして」  なだめるように中西はいってから、 「ファンクラブの会員名簿は、会員たちには、公開されてないらしいんですよ。まあ、これは考えればあたり前で、それこそプライバシーの問題がからみますからね。それで、そのあたりの事情を知っていそうな古いファンを、チャットをしていた誰かが、呼び出してくれたんですよ。自分の質問に答えさせるために……すると、その浜田さんは、やはり、殺されたハマダ社長にまちがいないと、確認がとれましてねえ」 「ほう……」  竜介も、その中西の話に、興味深く聞き入る。 「そしてさらに、自分が投じたその一石が、わーっと波紋を呼んじゃって、古いファンが、我も我もと、そのチャットに参加してきたんですよ」  中西は、してやったりの表情でいい、 「そして裏話が、聞けたこと聞けたこと、そのへんの芸能レポーターなんか、真っ青な話ばっかし。まずひとつ目はですね、彼女が所属していた芸能プロダクションですが、ムーン・オフィスという洒落《しゃれ》た名前ですけど、以前は、琢磨《たくま》企画とかいって、そう小さくはないそうですが、旧態依然とした古い事務所だったようです。ヤクザさんとの付き合いの噂が、とりざたされたりするような……ですね」  舌を噛みぎみにいい、 「小田切美子という人は、女優さん一本だったわけです。それで、事情通が教えてくれるには、彼女が、連続ドラマで主役級を演《や》っていたピークだったころ、今から十五年ほど前ですが、その当時ですら、ギャラは、その連続ドラマ・ワンクールにつき、よくて三百万だったろうというんですよ」 「へー、そんなに少ないの?」  竜介は、その手の芸能事情にはうといので、実際驚いていう。 「もっとも、半分ほど、事務所にピンはねされての話ですけどね。ですが、元来、俳優さんのギャラというのは、自分らが想像しているほどには高くはないそうで、これは今もおなじらしくって、じゃ、何で稼ぐかというと、それは、もっぱらコマーシャルだそうです。CM一社で、ドラマ一本分に相当するそうですから。けど、小田切美子さんには、CMのお声はかからなかったらしく……それで、その琢磨企画なんですが、彼女のような中途半端に売れていた女優さんには、暗に、タニマチを奨励《しょうれい》する、ていうよりか、積極的にパトロンをあてがっちゃう、そういった事務所だったらしいんですね」 「それはまた……」  ありがちな話だが、竜介はやっかみ半分の、あきれ顔でいう。 「要するに、金持ちの愛人になれってことですよね。それに彼女は、テレビの仕事がないときには、芝居を演っていたわけで、そうしますと、そのチケットを買ってくれる旦那衆が、どうしても必要だったらしく……それで、事情通がいうには、その浜田さんが、彼女の有力なパトロンのひとりであったことは、ほぼまちがいないだろうって話なんですよ」 「なるほどね……」  その結論は、話の途中ですでに見えてはいたが、 「けどさ」  竜介は疑問点をいいかけて、 「いや、中西の話を最後まで聞こう。まだまだつづきがありそうだから?」 「ええ、まだ五合目といったあたりですね。この先、さらに大盛りあがりしましたから」  竜介は、やはり、とうなずいて先をうながす。 「そんなタニマチやパトロンや愛人の話がチャットにとびかっていたら、ファンのひとりが、また別の、妙なことに気づいて、騒ぎ始めたんですよ」  いうと中西は、わきにどけた寝袋の下あたりから、皺《しわ》くちゃになっていた新聞をひきずり出して、 「これは、朝ひとっ走りして買ってきたんですが、今日の朝刊です。斎藤さん宅の、火事のことがのってますよね。目新しい内容はとくにないんですが、そこの、亡くなられた女性に関する記事のところを、ちょっと読んでいただけませんか——」  竜介に手渡して、うながす。 「うーん?」  ——富士吉田市の斎藤病院に運ばれてその後に死亡した女性は、佐々木恭子、三十一歳、東京都世田谷区のマンション住まいで、その日はたまたま斎藤邸に宿泊していて難に遭った。程度の記事で、斎藤信之輔との関係などについては、まったくといっていいほど、触れられていない。  が、 「この斎藤病院って、斎藤さんの親戚か何か?」 「いや、それは知りませんけど」  中西は首をふっていい、 「それではなくって、その、佐々木恭子という名前に、こころあたりありませんか?」  別のことを聞いてくる。 「えー……?」  竜介が考えあぐねていると、 「いや、自分もですね、他人《ひと》からいわれて初めて気がついたんですが、小田切美子さんの本名は、佐々木喜子なんですよ」 「あっ、そんな感じだったなあ」  竜介も思い出した。 「けど佐々木なんて、ありふれた名前ですからね。ところが、その小田切美子さんには、実際、妹がいて、小田切|美紗《みさ》という名前で、芸能活動をやっていたことがあるらしいんですよ。こうなってくると、自分らにはまったくわからない話なんですが、事情通がいうには、お姉さんが売れていたころに、その余勢をかって、おなじ事務所からデビューしたそうです。最初は、アイドルみたいなことをやっていて、けど、あまり歌は上手じゃなかったらしく、その後はドラマのちょい役とか、ファッション誌のモデルとか、でもけっきょくは、ほとんど売れなくて、ポシャッてしまったそうです」 「すると、それが、それこそが」  竜介は力をこめていい、 「その答え——?」  テーブルの上のノートパソコンを指さす。 「えー……残念ですが、それは丑三《うしみ》つ時あたりに」  中西は笑いながらいってから、 「小田切美子さんには、七つ年下の妹がいて、本名は佐々木恭子、まちがいないってわかったんですよ。もっとも、同姓同名の別人って可能性も、ないことはないんですけどね。その妹の小田切美紗ですが、お姉さんのファンクラブの会にも、何度か顔を出したことがあったようです。今度デビューした妹です、よろしくーて感じで。その当時のことを知っている古いファンいわく、お姉さんは、可愛らしい感じの女優さんでしたが、まあ悪くいえば、個性的な顔立ちでしたけど、妹の方は、正統派の美人だったそうです。けど、ちょっとツンツンしてて、こいつ勘違いしてんじゃないか、とも思われていたそうです。ちやほやされるのは、お姉さんが売れていたせいですからね。ともあれ、そんなわけで、この三つの事件がつながったわけですよ」 「ふーん」  竜介は、ひと声うなってから、 「けどさ、途中にもいおうと思ったんだけど、つながったはいいものの、ますます混沌としちゃうじゃないか。小田切美子さんは、いちおう、自殺だろう。浜田社長の場合は、外国人犯罪だし、そして斎藤さんの家の火事は、漏電だよ。今のところの発表によると?」 「実はそのあたりの話がですね、明け方にかけて、さらに盛りあがったわけですよ。三人寄れば、じゃなくって、チャットこそが、現代の文殊《もんじゅ》の知恵ですからね」  中西は、二十一世紀の格言をいってから、 「まず、豪邸をねらった外国人犯罪ですが、その豪邸の情報は、どこの家はどのぐらいのお金持ちで、安全対策《セキュリティー》はどの程度か、といった情報などは、別の人間が入手しているらしいんですよ。仮に、情報屋とでもいいましょうか。その情報屋は日本人で、もちろんヤクザさん関係なんですが、その情報屋から、何段階かへて、外国人犯罪集団へと伝わり、そして豪邸がおそわれる、そういった構図らしいんですよ。これは夜のテレビニュースでもやっていて、ほんとの話のようです」  あたかも怪談話でも語るような声でいい、 「ですから、外国人犯罪だからといって、いちがいに無関係、とはいい切れないんですね。と、そんな話に花が咲いていたら、古いファンのひとりが、とあることを思い出したんですよ。小田切美子には、たしか政治家のパトロンがひとりいたんじゃなかったっけ……といったようなことを。そして、浜田さんと、その座をめぐって張り合っていたのでは、とそんな話にまで発展しました。そしていよいよ、それが確認できた答えが、これなんですね」  自前のノートパソコンを指さした。 「えー読んでみますね。これは十三年前の、アサヒ宝石にのっていた記事だそうですが、女優の下ネタに関することが羅列《られつ》されてあって、そのひとつに、あの小田切美子などは、山梨県選出の国会議員の愛人になっているといった噂が……などと書かれてあったそうです」  竜介も回転椅子《デスクチェアー》から立って、その画面をのぞき込みながら、 「ふーん、山梨県選出の国会議員か、とはいっても、衆参あわせるとけっこうな数だよな」 「そのへんで逃げをうってるんでしょうね。けど、小田切美子さんの方にしてみれば、そうとうにショックだったと思いますよ」 「で、だからといって、これは全体的にどういった話になるの? おれにはぜんぜん筋が見えないんだけど」  不満げに、竜介はいう。 「え、そのあたりは、明け方にかけて喧々囂々《けんけんごうごう》の話になりましてね。代表的なのをひとつ紹介しますと、まず、妹さんは、大変に姉おもいだったということが前提で、そして仕事にゆきづまっていた姉を案じて、姉の代表的なパトロンであったふたりに、とはいっても、そのふたりは、すでに若い女優なりに鞍替《くらが》えしたんでしょうけどね。ともかくそのふたりに、以前のように姉を援助してくれと願い出た。金銭的、もしくは裏から手をまわして、いい仕事がもらえるように働きかけてくれ……といったような。けど、そのふたりは、つれなく袖にした。そうこうしていたら、姉が自殺をした。それで、怒った妹は復讐心《ふくしゅうしん》に燃え、このへん、ちょっと短絡的ですがあ」  自己反省していいながらも、中西はつづける。 「そして、まず情報屋に、浜田さんの豪邸の様子をチクッて教え、それは琢磨企画とのからみで、ヤクザさんとも顔見知りだったので、そのへんの筋から。そしてひとり目の復讐が果たされたのを見届けるや、つぎは斎藤さん宅にあがりこんで、男を道連れにして一緒に死のうと、火を放った」 「ちょっと待て!」  竜介が——仕事机《デスク》を叩いた。 「さっきから漏電だといってるじゃないか!」 「いえいえ、これは極端なストーリーの場合の話ですよ。ですが、この話も、部分的にはあってるんじゃないかと、自分は思うんですけどもね」 「どういった部分が?」 「えーたとえば、斎藤さんの家に、妹の小田切美紗が寝泊まりしていたのは、事実でしょう。そのふたりの付き合いが、いつからなのか、によっても話はちがってきますけど、小田切美子さんの自殺の前からだったとすると、斎藤さんが、姉から妹へとのりかえていたわけで。それであっても、姉が困っていたら、助けてあげてくださいよ、といった話ぐらいは、ふたりの会話に出たと思いますよ」 「うん、それはあったろうな。けど、実際に助けるとなっても、斎藤さんに、そんな裏工作をする力はないだろう?」 「いや、そのへんがですね、事情通にいわせると、政治家というのは、芸能界にも、とっても顔がきくらしいんですよ。民放のテレビ番組にはスポンサーがついてますよね。スポンサーというのは、すなわち企業です。その企業と政治家はつるんでますから、そっちから話をとおせば、ゴリ押しなんていっくらでもできるそうです」 「あっ、そっちからね……」  いわれてみればそのとおりで、竜介も納得する。 「ええ、そっちからですね。この種のゴリ押しは、あっ、あの人も、この人も、その人も……て感じで、芸能界では日常茶飯《にちじょうさはん》で、一般人が知らないだけの話だそうです。ですから、斎藤さんも、やろうと思えば、そういったゴリ押しができたはずなんですよ。なんせ元大臣ですからね。それをなぜやらなかったのか、今時分になって、チャットに罵声《ばせい》がとびかってましたけど、まあ、ファンは好き勝手なことをいいますからね」  おまえもその仲間じゃないかと竜介は思いながら、 「けどさ、たしかに三つの事件は、小田切姉妹という項目で、つながったことはつながったようだけど、かたや、神さまが予言をしたのは、斎藤信介の方であって、父親のことじゃないからね。昨日も、確認をとったことだし」 「ですけど、神さまは昨日、かの女《おんな》を黄泉の国へ、といったじゃありませんか。ちょうどそのころ、小田切美紗さんは亡くなられていたわけで」 「いや、それはおれが問い詰めたからさ。苦しまぎれにいったにすぎないよ。それに、かの女だなんて、そんな漠然とした予言、予言とすらもいえない。一日に、いったい何人の人間が死ぬのか知ってる? 日本だけでも何千人と死ぬんだよ」  竜介が、統計学にもとづく冷淡なことを講釈していると、 「あっ、そうだそうだ」  中西が何かを思い出していう。 「チャットに熱中する前にですね、自分は別のこともひとつ調べてたんですよ。それは何かといいますと、斎藤さんの予言の場合は、尾沼先生が、情報の中継基地の役割をはたしていた。これは前にもいいましたけど、そう考えるのが妥当ですよね」 「さあ……どうだろうかな」  竜介は、どっちつかずにいう。 「その考えをですね、他の予言にもあてはめてみたんですよ。たとえば、玩具メーカーの社長を黄泉の国へ、と神さまがいった、その現場にいたのは三人で、そのうち略歴がわかったのは、院長先生ひとりだけだったんですが、えー……」  中西はプリントアウトされた紙を見ながら、 「院長の山口郁雄さんは、K大学の医学部卒で、五十九歳……なんですね。かたや、ハマダ社長の浜田俊夫さんは、おなじくK大学の工学部卒で、六十一歳。学部と学年はちがってますけど、キャンパスですれちがってる可能性ぐらいは十分ありますよ」 「おっ、鋭い!」  竜介が褒《ほ》めていった。  中西は、えへへ、と少し照れてから、 「先生のモデルでは、脳は脳なりに相性があって、ちょっとすれちがったぐらいで、脳どうしで勝手におしゃべりをしちゃう場合もあり……つまり、尾沼先生のところで話に出た、視床のニューロンですよね。そこが勝手にコンタクトをとって、その後も、コンタクトがとれる状態を保持している、といった話ですよね。だから、院長先生は、浜田さんを知らない可能性だってありますよね」 「うん、いちおう確認はとってみるけど、たぶん知らないと思うな。顔見知りだったら、それなりの話が聞こえてきたはずだから」 「それとですね、あとの予言は、尾沼先生からいただいた一覧表が、看護婦A、看護婦B、としか書かれてなかったので、これは調査不能……」  中西は、少しお道化《どけ》ていってから、 「なので、斎藤さんと浜田さん、ふたつしか例がないんですが、神さまの予言は、えー……なんていったらいいのか、条件が、ダブルクロスしている、そんな感じですよね?」 「うん、そんな感じもするな」  竜介は軽く相槌《あいづち》をうちながらも、 「けどさ、その中継基地うんぬんの話は、論じても、あまり意味がないよ。情報源はどこなのか、つまり犯人は誰なのか、そこが一番知りたいところなんだけど、逆向きに、たどっていけるわけではないからね」 「あの神さまだったら、それができますよね」 「の、はずなんだけど、おれが頼んでも、無視されちゃったろう」  竜介は肩を落としぎみにいい、 「われは、生死与奪をつかさどる神なり、そういった枠組みを、意識で雁字搦《がんじがら》めにはめちゃってるようだから、不必要なことは、彼の脳が教えようとはしないのさ。だから意識改革でもしていただいて、われは、警察の神なり、にでもなってくれると大助かりなんだが」  都合のいい与太話《ジョーク》をいいながらも、竜介は、もはや別のことに思いをはせていた。  ——桑名。  そちらの謎を解く方が先決だと、昨日来、ずーっと考えていたからだ。  中西が荷物をまとめて隣の大部屋に退去するや、竜介は、早速、尾沼由希靉に電話を入れた。 「昨日はどうも……その後こちらでも、あれこれと謎が解けたんですよ。で、つかぬことをおうかがいするんですが、桑名、これは神さまの本名ではありませんか?」  彼女は黙して答えない。 「ちなみに、彼の実家もだいたいわかりますよ。最初の病院の名古屋ではなく、そのお隣の三重県の、桑名でしょう?」  彼女は渋々、そうだと認めた。 「いや、プライバシーを詮索《せんさく》するつもりはないんですよ。ですが、その彼の実家あたりに行ってみると、また別種の謎が解けるんじゃないかと、ぼくは思うんですけどもね」  今からですか……と彼女は極端なことをいう。 「いや、できるだけ早い方がいいですけど、えー」  竜介はカレンダーに目をやりながら、 「明日は講義があるからダメなので、木曜日以降だったら、いつでも大丈夫ですけど」  でしたら、その木曜日に、と由希靉はあっさり承諾をした。  もっとも、彼女と一泊旅行はできないので、朝できるだけ早く……竜介は時刻表を開いて、彼女の気が変わらないうちにと、新幹線の時間を決めてから、電話を切った。  そして男なら誰もが想像する、とくに相手が若くて美人だからなおさら、楽しい旅の予感に、しばしひたった。 [#改ページ]  12  まな美は、異様なところにいた。  ——ママやパパたちには口が裂《さ》けてもいえないような、もちろん土門くんにだって、絶対に話せないような。  場所は都内某所の高級マンションの最上階である。まな美は車で運ばれてきて地下駐車場からエレベータに乗ったから、実際どこだか、よくわからない。  マンションの豪勢な玄関ドアをくぐると……廊下から、控室のようなところに案内された。  その部屋に入った瞬間、まな美は、廻れ右をして退散しようかとも思ったけど、部屋にいた女性たちから、すごい目でニラまれたので、逆に、負けるものかと闘争心もわいてきた。  それに、黒服のスーツ姿の男から、 「きみは、そのままの服装でいいからね。特別参加だから」  ともいわれたので、その言葉を鵜呑《うの》みにして、それだったらという感じで、あいている椅子に腰をおろした。  部屋には、まな美のほかに若い女性が五人いた。もっとも、年齢的には、まな美がぬきんでて若そうだったが。けど、まがりなりにも、ちゃんとした服を着ているのは自分だけで——  放課後、夕食をゴチになっていたら、話が二転三転して、こんなところに来るはめになってしまったので、まな美は学校の制服姿のままだが。  ——ほかの女性たちは、皆、ブラとパンティーだけで、それも色とりどりの勝負下着のようなそれで、その上に純白のバスローブを(ひもは結ばずに前をはだけて)はおっているだけの、淫《みだ》らで挑発的な姿なのだ。  だから、まな美が特別扱いであることには間違いなさそうだったが、それでも一抹《いちまつ》の、いや、百抹ぐらいの不安はある。  けど、ほかの女性たちときたら、不安なんかどこ吹く風といった顔で、コンパクトを片手に、最後のチェックに余念がない。姿見の大きな鏡も置かれてあったけど、その格好じゃ必要はなさそうだったし。まな美と歳が近そうな茶髪の女性などは、ふてぶてしそうに、タバコなんかを吹かしたりもしている。  楽屋裏なんて、えてしてそんなものだと、まな美は思った。  黒服の男が部屋に入ってきて、 「さ、そろそろ始まるからね。順番は最初にいったとおりなので。えー……飛び入り参加のきみ」  まな美を指さして、 「きみは最後ね。ひとりずつ、あすこのドアから出て行けばいいからさ」  手慣れたふうに簡単にいった。  その部屋にはドアが二ヵ所あり、来たときに廊下から入ったドアとはちがう、別のドアから出ろとの指示なのだ。  そして、ひとり目の女性が呼ばれた。  二十代半ばといった感じだったけど、まな美から見れば年増《オバサン》で、それに、そんなに奇麗《きれい》じゃないとも思った。  パラパラと拍手の音がする。  司会者らしい男の声もしたが、その中身までは聞きとれない。たぶん、その女性の紹介でもしているのだろう。おう……とどよめく声などもあがった。  しばらくはそんな調子だったが、何分かすると、ドタドタと人が歩きまわる音がしはじめて、俄然《がぜん》、騒がしくなってきた。 「お手やわらかに、お手やわらかにー」  司会者が、客たちの暴走を制しているようで、 「……はい! そこまでそこまでー」  その声で、ざわめきは一段落した。  さすがにこうなってくると、控室で出番を待っている女性たちにも、緊張の表情は隠せない。  けど、まな美は(まな美ひとりだけが)、隣室でいったい何がおこっているのやら、いまひとつ想像できずにいる。  そうこうしていたら、ふたり目が呼ばれた。  タバコを吹かしていた茶髪の女性である。  パラパラと拍手がして、進行はひとり目とおなじのようだったが、おう……といった歓声などは一度も聞こえてこない。まな美が想像するに、彼女は、ありきたりのフリーターか何かだったのだろう。客たちに、女性の職業なりが紹介されたとき、どよめきがおこったりするのでは、とも思った。  が、やはり何分かすると騒がしくなって、司会者の、はやしたり制したりするような声が聞こえた。  まな美はそこだけが、なおも理解できない。  そして、つぎの女性が呼ばれた。  すらりと背の高いスタイルのいい女性である。けど、肌がきたない、まな美はアラを探して思う。  その彼女には、歓声はけっこうあがった。以下、進行はまったくおなじである。  さらに、つぎの女性が呼ばれた。  バストが九十を超えていそうな、けど、悪くいえばデブである。  控室には、まな美ともうひとりだけが残った。  その彼女は、それまでの女性たちとは一線をかくして、どこかアカ抜けた感じがする。透けそうなほどの淡いブルーの下着に、バスローブだけをはおって椅子に座っている、そんな淫靡《いんび》な姿すらもサマになっていて、もちろんスタイルもよくて顔も奇麗だ。これといって欠点は見あたらない。さすがは、本来の最後《トリ》をつとめるはずだった女性だけのことはあり、まな美が、横目でちらちら気にしていると、 「あんた、何しに来てんのよ」  こわい顔でニラまれた。 「ここは小娘が来るとこじゃないわよ」  小娘!? その言葉にはカチンときて、まな美は反論しようかとも思ったが、 「女子高生の制服姿だったら高く売れるなんて、あんた勘違いしてんじゃなーい?」  そういわれると、返す言葉がない。 「わたしだって、好き好んで、こんな恥ずかしい格好してるわけじゃないんだから」  きつい口調でいう彼女だけど、うっすらと涙目であることに、まな美は気づいた。 「いいこと教えてあげるけど、さっきの四人は、ここの常連だそうだわよ」 「常連……て?」 「話を聞いててわかったんだけど、客が買うのは月単位でしょう。だから飽きられて捨てられると、また舞い戻ってきて、別の客に買ってもらうのね」  へー、そういうことになっているのかと、まな美も理解した。 「いっとくけど、わたしは正真正銘、ここは今日が初めてなのね」  彼女が真剣そうな口ぶりでいうので、 「はい……」  まな美も、うなだれぎみに真顔で応じる。 「そのあたりは客たちも知ってて、だから先の四人は、前座みたいなものなのね。頭数あわせっていうやつ。今日の目玉商品は、わたしと、そしてあなたなのよ」 「わたしは……」  見学に等しいものだと、まな美はいおうとしたが。 「わたしには事情があって、もう後もどりなんかできないけど、悪いこといわないから、あなたはとっとと帰った方がいいわよ」  彼女が、廊下側のドアを指さした。  どんな事情なのかは聞けるはずもなかったけど、ほんとはいい人なのかな……ともまな美は思った。  そうこうしていたら、別の方のドアが開いて、その彼女が呼ばれた。  ——パチパチパチパチパチ。  それまでにはない、大拍手と歓声が聞こえてきた。  中の様子が気がかりなまな美は、ひとりになったのでこれ幸いにと、ドアの間近までいって聞き耳をたててみた。が、大差ないので、まな美は思いきって、そのドアをうっすらと開けた。  ——まぶしそうなスポットライトを一身にあびて、五メーターほど先に、彼女がつっ立っている。  後ろで、彼女いわく前座の女性たちが椅子に座っていた。その四人は、もうバスローブははおっていない。それどころか、両腕で胸をひた隠しにしていて、なんと、ブラすらもつけていない!  背後には天井から黒いカーテンが下がっていて、ヒナ段のようなものはなく、ステージ代わりにと、ふかふかの深紅《しんく》の絨毯《じゅうたん》がそこだけに敷かれてあった。  けど、客の姿は、そのドアの隙間からは見ることができない。 「うわあ、さすがに輝いてますよね。本日の、とっときの女の子です」  司会者の男が軽やかにいい(別人だが、やはり黒服のスーツ姿で)、 「それもそのはずです。彼女は、篠原麻衣子《しのはらまいこ》さんといって、今をときめくムーン・オフィスに籍《せき》をおく、現役のタレントさんなんですね」  その紹介に、おう、と部屋中がどよめいた。 「うん? 信じられないってですか。えー……ここに、事務所が宣伝用に使っている、所属タレントの顔写真がのったパンフレットがあるんです。どうぞ、これでお確かめになってください」  いいながら、司会者の男は小冊子をかかげもって、そのまま視界から消えた。  まな美も、にわかには信じられなかったが、どうりで、アカ抜けてるはずだわよね、と納得もした。  司会者の男が、手ぶらでもどってきて、 「そこにものってますように、彼女は、二十一歳です。まだタレントの卵って感じでして、将来のある身なんですね。ですから、当クラブのような厳選された会員の皆々さま方ならばと、安心して、ご登場願ったわけですよ」  ……二十一歳でタレントの卵? それはちょっとどうかしらと、まな美は思ったが。  司会者の男が、ことさらニヤついた顔になって、 「さ、そのお姿を、もっとよく見ていただきましょうかね」  いうと、彼女の背後にまわりこんで、慣れた手つきで、はおっていたバスローブを脱がせる。  おう、と歓声がわきあがり、舌なめずりをしているような音まで聞こえる、気もまな美にはした。 「ブルーのブラとパンティーが、とってもセクシーで、よく似合ってますよね。このへんもポイント高いですよう」  どうポイントが高いの!? まな美は問い詰めてみたくもなったが。 「じゃ、篠原さん、横を向いてください」  司会者に命じられるがままに、彼女が体の向きを変えた。 「いかがでしょうか? 見事なボディーラインですよね。じゃ、つぎは背中を見せてください。おケツも見たいってお客さまもおられるから」  そんな軽口をたたいて、司会者の男はいう。  まな美は、なんだか、とっても腹が立ってきた。おなじ女性としては許せない! て感じだ。 「じゃ、前に向きなおってください。えー、スリーサイズを、教えていただきましょうか?」  司会者の男が、手にもっていたマイクを(自身はほとんど使っていないが)彼女に手渡した。 「……八十三、五十七、八十三」  淡々と彼女はいって、その声をマイクがしっかとひろった。 「ほう、すてきな声ですよね。うん? もうちょっと聞きたいってですか。じゃ、とっときのものを」  嬉しそうに司会者の男はいうと、ポケットから紙切れをとり出して、それを手渡しながら、 「そこに書かれていることを、声に出して読んでくれませんか? できれば感情をこめて、ですねえ」  にこやかにうながすが、有無はいわさないといった態度で。 「えー……男の手が、しのびよってきて、わたしのあそこに触れた、秘密の花園が」  なんと、官能小説の一節らしきものを、彼女は読まされている。まな美は思わず耳をふさいだ。乙女としては、そんなもの聞きたくもない!  頃合いを見計らって、司会者の男がその紙切れをさっとかすめとり、 「いかがでしたあ? もうこれで、あのときの声も十分に想像できますよねえ。では、いよいよ、お待ちかねの、待ちに待った——」  司会者の男が、何やら、ためを一杯にとってから、 「——味見タイムでぇす!」  その声を合図に、客たちがいっせいに立ち上がったらしく、ドタドタと足音を響かせて、まな美の視界にあらわれた。我先にと彼女に群がっていく。そして、なんと、手に手に彼女の体を触りはじめた!  客たちは十人以上はいるだろうか。  その大半が背広姿で、典型的な中年デブにまじって若そうな男もいる。けど、客たちは全員、目のところだけに仮面をつけていて、顔はわからない。  ——卑怯者《ひきょうもの》! まな美は思う。  またたく間に彼女のブラが剥《は》ぎとられたようで、それを戦利品のように手にもっている男がいる。  まさに黒山の人だかりでよくは見えないが、あらわになった彼女の胸を、どこの誰かもわからない男の手が、わしづかみにしている。 「お手やわらかに、お手やわらかにー」  もう何度も聞いたけど、司会者の男は、いってるだけだ!  立ってられず、しゃがみそうになっている彼女を肩車をするようにして誰かが支え、その手で彼女の肌をなでまわしている。そんな辱《はずかし》めをうけながらも悲鳴などはあげず、ひたすらに耐えているらしい彼女の顔が、苦痛にゆがんでいた。  あぶれた客が、後ろの女性たちにもちょっかいを出している。  まな美は(謎は解けたものの)地獄絵図の一頁を見ているようだった。  現実のことなのに、そうとは思えず、なかば呆然と見つめていた。 「……はい! そこまでそこまでー」  ようやく司会者の男の、止《と》めの声が入った。  客たちは満足げに(表情はわからないが、たぶんそうで)立ち去っていく。けど、三人ほどがしつこく、なおも彼女の体をもてあそんでいる。  ひとりなんかは、背後から、彼女の胸を両手でもみしだいている。 「……はい! そこまででぇす。味見タイムは終了しました」  再度止めの声が発せられ、その三人はしぶしぶといった感じで、まな美の視界から消えた。  うつむいてしまっている彼女がパンティーをなおしてから、手を顔のところにやった。涙をぬぐっているようだった。  司会者の男は、ハンケチを差し出すわけでもなく、場が静かになってきてから、 「さ、十分にご堪能されたことと思います」  まずは客たちに向かっていい、 「ま、これは当クラブの儀式のようなものですからね。この恥ずかしさに耐えた人にだけ、輝けるバラ色の未来が待っているんですよう」  そんな意味不明の、おためごかしをいった。  彼女は顔をあげると、胸も隠さずに、凜《りん》とした表情になって前を見すえる。  彼女にどんな事情があるのかは知る由《よし》もないけど、  ——強い!  まな美は、ただそう思った。  司会者の男は、わざとらしく拍手をしながら、 「はい、篠原麻衣子さんでしたあ。決着は後ほど」  うん? 決着って何? まな美が訝《いぶか》っていると、 「実はですね、事前にご案内はしてなかったんですが、今日はさらにもうひとり、スペシャルな女の子が来てるんですよ」  その声とともに、まな美の目の前のドアが、いきなり開いた。黒服の男が、ドア横の壁にいたのだ。 「さ、ご登場願いましょうか。さ、こちらにー」  まな美は、退散するチャンスを逸してしまった。  いや! 尻尾を巻いて逃げるなんてことは、自身の信念に反する。  客どもが近寄ってきたら、まず急所にケリを入れて、仮面を剥いで、それから逃げても遅くはない。そんな香港映画のような修羅場《しゅらば》を頭に浮かべながら、まな美は腹をくくって、ドアから歩み出た。  おう、と場内がどよめき、そしてざわついた。  ——拍手はない。  それに、そのざわめきがおさまらない。客どうしが仮面の顔を見合わせて、何やらこそこそとしゃべっているからだ。 「いやあ、自分も驚いちゃいましたねえ。当クラブはじまって以来の、女子高生さんです」  司会者の男が、やや声をひそめていった。  まな美は与《あずか》り知らないことだったが、つまり、二重三重に法律に触れているようなのだ。 「えー……と、もちろん、そのかっこだけじゃありませんよ」  司会者の男は、気をとり直したかのようにいうと、ポケットから青い手帳をとり出して、 「彼女の生徒手帳を、ここに、おあずかりしてるんですね」  それは嘘《うそ》だと、まな美は思うが。 「その中身までは、ちょっとお見せできないんですが。えー……お名前は、今井由香里《いまいゆかり》さん。都内にある誠心女子高校の二年生で、十七歳です。まちがいありません!」  でまかせを堂々といいきってから、その手帳をポケットにしまった。  まな美は前を向いているけど、スポットライトがまぶしすぎて、客たちの方はあまり見えない。部屋はけっこう広そうだが(二十畳以上はありそう)、天井の照明などは点《つ》いておらず、明るいのは絨毯のステージの上だけなのだ。足元がふかふかと頼りなく、いかにも気色《きしょく》悪い。 「まず、彼女の可愛らしさを見てくださいよ。もうアイドルなんて目じゃありませんよね。裸で逃げ出していくぐらいの、あれ? 裸足《はだし》だったかなあ」  以前の調子をとり戻して、司会者の男は軽口をたたき、客たちも、その点には賛同したのか、大半がうなずいている。  まな美としても、まんざら悪い気はしない。 「えー……では、横を向いていただけますか?」  きたな、とまな美は思いつつも、いわれたとおりにする。 「もう、どこから見ても可愛いですよね。ちなみに、スリーサイズは」  まな美は、自分がいわされるのかと思いきや、 「上から、八十二、五十七、八十三ですね。身長は百五十六センチです」  司会者の男が勝手にいい、けど、プラスマイナスーセンチの誤差しかなかったので、まな美は、それには驚いた。  後ろは向かされることなく、前にもどされて、 「さあ、どうしましょうかね。ここでいつもは読んでいただくんだけど、それは……あれなので、でも声は聞いてみたいですよね? じゃ、彼女、歌でも唄ってくれる?」  マイクを差し出された。  まな美は、それを手にとったものの、歌は下手《へた》という自覚はないけど、カラオケには二、三度しか行ったことがないという今どき珍しい女子高生なので、まな美は流行歌《はやりうた》などは知らない。けど、何かしゃべらなくってはと、 「歌はダメですので、代わりに。……祇園精舎《ぎおんしょうじゃ》の鐘の声、諸行無常《しょぎょうむじょう》の響きあり。沙羅双樹《さらそうじゅ》の花の色、盛者必衰《じょうしゃひっすい》の理《ことわり》をあらわす」  平家物語の冒頭の部分をゆっくりと諳《そらん》じた。  土門くんが大好きな文章で、ふと頭にひらめいたのだ。それに、この場を揶揄《やゆ》するにぴったしだとも思ったからだ。 「あらら……」  司会者は驚いたそぶりをし、客たちも似たり寄ったりの反応だ。  まな美の皮肉は、つうじなかったようであるが。 「……可愛いだけじゃなくって、学もありそうな女子高生さんですよね。あああーん」  司会者の男は、奇妙なひと声を発してから、 「さ、いよいよ、皆さま方がお待ちかねの、待ちに待った——」  おっ、ついにきやがったなと、まな美が身構えていると、 「いやあ、まことに残念なんですが、彼女にかぎっては、味見タイムはなしということで」  肩透かしのようにいうと、客席からはブーイングがおこった。 「いや、彼女はもうホントに、正真正銘の乙女さんなんですから」  まな美にとっては嬉しいことをいい、 「ですから、この後の決着をみて、セリ落とされた会員ただおひとりが、真の味見をできる。そういったことで、ひとつご勘弁を——」  頭を下げぎみに、司会者の男は流麗にいった。  あ! 決着とはそういうことだったのか、まな美にもようやくわかった。  まな美も、後ろの席に座らされた。  簡素な木のテーブルが前に出されて、司会者がその後ろに立った。手には木槌《きづち》をもっていて、それを打ち下ろして鳴らす木の台座もテーブルにのっている。一見、本格的だけど、要するに人身売買じゃないかと、まな美は思った。 「さ、おひとり目の女性から、前に出てください」  司会者の男にうながされて、まずは二十代半ばの女性が、スポットライトの輪の中に立った。 「では……」  と司会者の男がいいかけて、やめた。  場内の左奥で、壁ぎわに立っている誰かが、手で大きく×印を出しているのが、まな美にも見えた。 「……このままで、少々お待ちくださいね」  いうと、彼は、その方にそそくさと歩いていく。  そして相談めいたことをやって、もどってくると、 「えー……今日はですね、顔見せをした順番とはちがいまして、本日のとっときの女の子ふたりから、セリを始めたいと思います。まずは、篠原さん、前にどうぞ」  その司会者の男の説明に、場内がざわついた。  いきなり目玉商品からなので、客たちも心構えができていなかったようだ。  彼女がゆっくりと、スポットライトの輪の中に立った。  まな美からは後ろ姿しか見えないが、彼女にも恥じらいがもどったらしく、胸は手で隠している。 「うわあ、今あらためて見ても、いっそう輝いてますよね。それにさっきとはちがって、恥ずかしそうな仕草が、さらにポイント高いですよう」  司会者の男は最後のおべんちゃらをいって、最大限持ち上げてから、 「では、セリをはじめましょう。えー、彼女の場合は、まずは三十といったあたりから」 「——四十!」  司会者の男の声にかぶさるように、客席から声がとんだ。そして、 「——五十」 「——六十」 「——七十」  司会者の男が声をはさむ間もなく、勝手にどんどんつり上がってく。 「——八十」 「——九十」 「——百!」  その百の声があがって、場内が一段落した。 「あ、あれよあれよという間に、百までいきましたよね。わずかに十秒です」  司会者は、ことさらニコやかにいい、 「さ、今は百です。百以上のお客さまは、おられませんか?」 「……十」  重々しい声で、客のひとりがいった。 「さあ、百十がでました。それ以上のお客さまは、おられませんか?」 「……二十」  別の客が、そういった。  まな美はその遣《や》り取《と》りを見聞きしながら、それって万円だわよね、それも一ヵ月あたりの、とするとすごい金額だわね。驚きながらも、自分はどこまでいくのかしら、と期待に少し胸をふくらませた。 「……三十」  重々しい声がした。  十といった客とおなじようだ。 「さあ、百三十がでました。それ以上のお客さまは、おられませんか? もうこれほどの女の子には、そうめったにお目にかかれませんよう」  司会者の男は、さらにセリを盛り上げるべくいう。 「……四十」  またちがった客がいった。 「五十」  重々しい声の男が、即座に応酬《おうしゅう》していう。  その男が一番、彼女にご執心のようだと、まな美は思った。それとは別に(関係もあるけど)、なぜセリの順番を変えて、とっときの彼女から始めたのか? その理由がハタとひらめいた。 「さあ、百五十までいきました。それ以上のお客さまは、いらっしゃいませんか?」  司会者の男は、芸が細かく、丁寧語のランクをあげていった。  まな美がひらめいたことというのは、彼女に人気が集中するのは見え見えで、けど、セリ落とせるのは結局ひとりだから、他の大多数はあぶれる。もし、逆に前座の女性たちから先にやると、最後の彼女を期待して客たちが手控え、セリ値がつりあがらない。なので、あぶれた客たちを先に作ってから、前座にぶつけるという巧妙なやり方なのだ。そういった指示をした、×印を出した壁ぎわの男こそが、このクラブの責任者なのだろう……なんてことを小賢《こざか》しく考えながらも、そんな不謹慎なことに頭を使ってしまった自分を、まな美は反省する。 「……六十」  別の客がいった。 「……七十」  重々しい声の男が、あくまでも応酬していう。 「いやあ、もう青天井ですよね。百七十、それ以上のお客さまは、いらっしゃいませんか?」 「……八十」  いったいどこまでいくのかと、まな美も思う。と同時に、金をもってる人はもってるのよね、けど、こんなところでその財力にものをいわせようとする人は、人間のクズだと軽蔑《けいべつ》して思う。 「……九十」  重々しい声の男が、やや控えめの声でいった。  限界か? まな美はちょっと嬉しく思う。  と、そのとき、 「……三百」  今までにない声が、どこかから聞こえてきた。 「さっ、三百がでました。いっきなりの三百です」  司会者の男も興奮していって、 「いやあ、驚きました。けど、いちおう聞かなければなりません。三百以上のお客さまは、いらっしゃいませんか?」  場内はざわついているが、声はかからない。 「三百、三百でよろしいですか?」  司会者の男は、再度、念を押してから、  ——トーン!  木槌を打ち下ろした音が、場内に響いた。 「おめでとうございます。三百で、契約は成立いたしました。当クラブが、それは責任をもって保証いたします。では、篠原さん、控室の方へどうぞ」  司会者の男は、さも厳《おごそ》かに、慇懃に彼女にいった。  まな美は、どの客がセリ落としたのかと気になり、客席を見まわしていたが、 「では、女子高生さん、あなたの番ですよ」  ——呼ばれてしまったので、椅子から立って、スポットライトの輪の中に入った。 「あはーん」  またもや奇妙なひと声を発してから、 「やっぱり、可愛らしいですよね。アイドルのような彼女を手に入れるのは、どちらさまでしょうか。では、二十あたりからはじめましょうか?」  やや間があって、 「……二十五」  さらに間があって、 「……三十」  あれえ? さっきは十ずつ上がっていったのに、自分は五ずつじゃないかと、まな美は不満に思う。 「さ、三十がでましたよ。三十以上のお客さまは、おられませんか?」 「……三十三」 「……三十五」 「……三十七」  ええー? ますますみみっちくなってきたと、まな美は顔に出して、不満に思う。 「さ、三十七がでましたよ。ですが、もう一度、よくごらんになって見てくださいよ。こんなウブな女の子、それも山猿ではない、都会のウブな女の子、そうそうめったにお目にかかれませんよう」 「……四十」 「……四十五」  その司会者の男の、なかばやけっぱちのよいしょが効いたのか、 「……五十」 「……五十五」 「……六十」  どんどんつり上がっていく。  まな美も、自信をとり戻したかのように、アイドル笑顔になって前を見すえる。 「……六十五」  しばらく間があってから 「……七十」  重々しい声がいった。  さっきセリ負けた男にちがいないと、まな美も気づいた。 「さ、七十まできましたよ。七十以上のお客さまは、いらっしゃいませんか?」  その重々しい声の男がどこに座っているのか、まな美にも見えた。顔はわからないがデブッとした中年男で、いかにも脂ぎっていそうなオヤジだ。  先の彼女も、あんな中年デブに買われなくてよかったわよね、まな美は老婆心《ろうばしん》ながらに思う(まな美自身は、この老婆心という漢字は大嫌いだが)。 「さ、七十以上のお客さまは、おられませんか?」  再度、司会者の男がいった。  ……が、声はかからない。 「七十です。七十でよろしいですか? 七十以上のお客さまは、いらっしゃらないようですねえ」  いいながら、司会者の男が木槌をふり上げる。  ——え! 待って待って、あの中年デブに買われてしまう。まな美が血相をかえた瞬間、かつ木槌が打ち下ろされようとした直前に、 「……百」  場内の一番奥まったところから、声が聞こえた。 「おっ、とう」  司会者の男は間一髪《かんいっぱつ》で木槌をそらして、 「百がでました。百以上のお客さまは、いらっしゃいませんか?」  さすがに、もうそれ以上の声はかからなかった。      ※  まな美は、シルバーメタリックの最上級のベンツに乗っていて、帰路についていた。  蕨《わらび》市にある自宅マンションの近くまで送ってくれるというからだ。それは、その男と会ったさいには、いつものことであったが。  車の後部座席には、三人が座っていて、まな美ははしっこだ。 「いかがでした? お楽しみいただけた?」  隣に座っている男が、聞いてくる。 「お楽しみどころではなくって、もうハラハラドキドキのしっぱなしでしたわよ」  まな美は大人びた口調になって、正直に答える。 「それにしても、平家物語は秀逸で、お嬢さんらしかったよねえ」  男は、ゆったりとした口調でいう。 「ですけど、わたしは実質、七十でしたからね」  まな美は不満そうにいった。  いうまでもなく、隣に座っている男が、最後の百をいってくれた人である。  ——事前に打ち合わせずみの、いわばできレースなのであったが、そもそもはまな美が、夕食をゴチになっていたときに、自分ん家《ち》に進学塾の人が訪ねてきて高額を提示されたという、ある種の自慢話をしたら、それはまな美の頭脳についた値段、その他にはどのくらいの値がつくのか? 話が二転三転して、だったら試してみましょうと、さっきのクラブに連れていかれたのが、事の経緯《いきさつ》だ。 「それはまあ、やむをえない一面もあるかな。あなたが十七歳だったから、はなから、客たちの腰がひけちゃってたんだよ。あのクラブは、二十歳以上の女の子しか、原則的にはうけつけないのでね」  ……が、男はすこぶる顔がきくらしく、電話一本で、まな美をもぐりこませたのであったが。 「それに、入会審査の方も厳しくって、ふつうの人はまず入れない。会費もべらぼうに高いからね。だからまあ、人生の成功者たちが来ているわけで」 「あれが……ですか?」 「そうそう、あれがそういった連中さ。日本の」  男も厭味《いやみ》っぽく同調していい、けど、自身は別種であるかのように。 「だから、十七歳を相手してのいっときの情交で、その成功した人生を棒にふりたくなんか、ないでしょう? まあ、最低限のモラルが、頭をもたげるってわけよね」  けど、自分のセリに参加した客もいたことだし、棒にふっても……の愚か者が少なからずはいたのだと、まな美はあらためて思う。 「あっ、そうそう、忘れないうちに」  いうと男は、とびっきりに上等そうな背広のポケットから、ワニ革の財布をとり出して、そこにはさまれてあったお年玉袋のような小封筒を、まな美に手渡した。 「あっ、あれですねえ」  それを受けとるや、まな美は嬉しそうにいった。 「そうそう、——鍵。それがお嬢さんの、一番欲しかったやつよね」 「ええ、そうなんです」  まな美は可愛らしくうなずく。 「別に、意地悪してたわけじゃないのよ」  男も、歳のわりには可愛げにいって、 「あなたの話が、あんまりにも面白いもんだから、ついつい、あっちこっちに誘ってしまって」 「いえいえ」  まな美は恐縮していってから、 「あれこれと、ほんとうにありがとうございました。大炊御門さん」  ぺこりと頭を下げた。  そもそも、その彼とのお付き合いは、例の正体不明の仏像の新聞の切り抜きを手がかりに、まな美が調べていて、最初に問いあわせの電話をかけたのが、マンションの工事会社で、そこではわからないといわれ、じゃ、わかる人を……とお願いしたら、別の会社から(親会社らしいところから)折り返しの電話がかかってきて、けど、その電話をたらい廻しにされているうちに、どうしたことか、大炊御門みずからが電話口に出て(まな美は当初、肩書などはまったく知らなかったが)、で、一度会って話をしましょうと、それがきっかけなのだ。  そして、指定された港区の某所に行ってみると、どでかいビルが立っていて、そこの会長室にとおされ、そこで、暇をもてあましていたかのような老人、つまり大炊御門会長と出会ったのである。  まな美としても、相手はご老体だし、それに大会社の会長さんだし、ほぼまったくといっていいほど、身の危険などは感じず、ほいほいとお誘いにのってきたわけだ。  ……が、今日で、まな美の印象は変わった。 「けど、そんなあらたまって、ありがとうなんていわれちゃうと、さよなら、とも聞こえたよ?」  見透かしたように、大炊御門はいった。 「いえいえ、そんなつもりでは……」 「じゃ、また誘っても、よろしいかな?」 「ええ、もちろんですよ」  まな美は、ことさら朗《ほが》らかにいったが、こころの内は、かなり微妙であった。  この車に乗って以来、まな美は、意識して見ないように、触れないようにしてきたのだが、後部座席に乗っているもうひとりは女性で、それもさっきのクラブで、三百でセリ落とされた彼女なのである。  まな美が地下駐車場に降りていったら、ベンツに先に、彼女が乗っていたのだ。  ——大びっくりしたが、大炊御門は、彼女に関しては何もいわないので、まな美は、その彼女とも言葉をかわしていない。  大炊御門さんは七十はいってそうだけど、そっちの方は元気だったのね、そんな世間並の想像よりも、女性をセリで買うなんて、どう考えたって、まな美には許せない。だから、今後のお付き合いは……。  車が、荒川にかかる戸田橋を渡った。  その橋を境に、東京都の板橋区から埼玉県へと入り、蕨市にある自宅マンションは間近である。  まな美は、今日の地獄絵図はしっかと脳裏に焼き付いてしまったが、先々の楽しいことを考えることにした。  さあて、神社の下の洞窟へはいついこうか? といったようなことを。  大炊御門からもらった(いずれ返さなきゃいけないだろうが)鍵は、もちろん、その洞窟がある敷地に入るために必要な鍵なのだ。  今日は火曜日である。じゃ、さっそく明日の放課後にでも……いや、今日はもう夜の十時をすぎてしまっているのだ。ママからお小言を食らうのは必至で、明日ぐらいは早く家に帰った方がよさそうだ。すると、木曜日……てことになるだろうか。  まな美は、本来の高校生の歴史部員に立ち返って、それに、よき相棒の土門くんもいることだし(もちろんラブという意味ではなく)、楽しそうな洞窟探検の予感に、小さな胸を躍らせた。  車から降りぎわに、 「さようなら」  まな美は、あらためて彼にいった。 [#改ページ]  13  ……薬は……?  神鷹がもってきていたスポーツバッグの中には、やはり入っていなかった。毎日決まった時間に飲むような薬ではなかったから入れ忘れたのだ。それに、外泊がこれほど長引くとは思ってもみなかったので、そこまでは気がまわらなかったのである。  昨日一日ぐらいは、それでも我慢できた。だが、今日は朝からいけなかった。とくに杉村と話すのは苦痛だった(彼女にかぎったわけではないが)。他人がしゃべった言葉のひとつひとつが気になって、考えがまとまらず、混乱してしまうからだ。  ……押忍。だけでごまかしつづけるのにも、限界がある。  やはり、薬を……と神鷹は思ったけど、この家の見張りを命じられている手前、自分が留守にするわけにはいかなかった。それに、薬を飲むことと、師範の命令と、どっちを優先したらいいのかも、神鷹は考えがまとまらない。つぎからつぎへと別のことが頭に浮かんでくるからだ。誰かが……頭の引き出しを……勝手に……意味もなく……開けまくっているようだった。とくに庭を見るといけなかった。お寺や、火事のことや、ケンちゃんのことや、思い出したくもない記憶ばかりが頭に浮かんできて、あの洞窟が、この庭にもあったんじゃないかと思えてきて、庭に走り出したい衝動にかられる。  だから……薬は必要だ。どうしても必要だった。あの魔法の薬さえ飲めば、変ではない自分にもどれるからだ。変になっているときの自分は、神鷹自身が毛嫌いしていて、耐えられない。  ……そうだ! 電話をかけて……薬をもってきてもらおう。  まだいくらかは正気をたもっているらしい彼の脳が、やっとたどりついた妙案がこれであった。  それに、電話をかける相手は決まっている。だからむずかしく考える必要はない。電話番号も暗記していた。  神鷹は、杉村が母屋の食堂にいる(テレビを見ていた)ことを確かめてから、離れに行って、台所にある電話に手をのばした。  ……トマスさま……トマスさま……トマスさま。  電話をかける相手の名を、呪文のように彼はつぶやきながら。  ——トマスさま。  まわりの人たちから、少なからずの畏敬《いけい》や尊敬の念をこめて、そう呼ばれている男がいる。  流麗に日本語をあやつる彼だが、髪はブラウンで、彫りの深い顔立ちといい、透きとおった白い肌といい、典型的な欧米人種のそれである。歳は(会った人によってまちまちなことをいうが)三十歳以上で、五十歳未満だ。本来の国籍や、トマス・何というのか、それが本名であるのかどうかなども含めて、詳しいことは神鷹も知らない。トマスが、自分のことをいっさい語らないからである。  が、神鷹にとっては、水野は武道における師範にしかすぎず、生活全般にわたっての師は、そのトマスさまで、なおかつ大恩人であるといってもいいぐらいだろうか。  神鷹の、そのような症状は、なにも昨日今日に始まったことではない。自身が異常に気づいたのは、今から五年ほど前のことで(彼が二十歳のころ)、その窮状《きゅうじょう》を相談すると、だったら、これを試してみなさい……と、カプセルに入った飲み薬を与えてくれたのも、そのトマスであったのだ。  見た目にはどうってことのない薬だったが、驚くほどによく効いた。飲むと一時間もしないうちに、霧が晴れていくかのように気分がすっきりするのが常であった。神鷹は、どこかの専門の病院で診《み》てもらったことがあるわけではないのだ。だから、自身の病気が何であるのかも……知らない。  とはいっても、母親が、彼の物心がついたころから病院に入ったっきりで、いずれおまえもああなるのだ、とばかりに、親戚じゅうの人から(父親からさえも)白い目で見られつづけてきたこともあって、どんな病気なのかぐらいは、うすうす神鷹にだってわかる。  母親の病室を訪ねたことも、何度となくあるのだ。しかし、母親らしい言葉ひとつかけてくれた記憶はない。それどころか、顔を見ても誰なのかわからない様子で、意味不明のことをぶつぶつ……ぶつぶつと始終つぶやいているだけだ。そのくたびれはてた女性が、自分の母親だなんて、神鷹は思いたくもない。慕《した》う想いが芽生えたりするはずもなかった。  けれど、トマスからもらった薬は、それこそ魔法のように効いたので、母親にも……と考えた神鷹は、看護婦の目を盗んで、その薬をジュースに混ぜて飲ませたことがあったのだ。……が、翌日に行ってみると、母親はベッドにぐったりと横になっていて、体すら動かせないほどにヒドい状態になっていた。魔法の薬は、自分にしか効かないようだと、神鷹はあきらめざるをえなかった。  後日、そのことをトマスに話すと、彼は苦笑しながらも許してくれてから、白いマリアの像の前まで神鷹をつれていって、 「この聖マリアさまを、お母さんだと思えばいい。彼女は幼子を手に抱いているだろう? それがすなわち、きみだからさ」  そんな奇妙なことをいうのであった。  トマスとの付き合いは、神鷹が中学三年——十五歳のときにまで溯《さかのぼ》る。  年が明けて一月の半ばごろであったが、彼が、空手の武道着を背中にかついで、肩をいからせぎみに町中を闊歩《かっぽ》していると、背が高くて青い目の外人に声をかけられたのだ。 「きみ! きみのその名前は、なんて読むの?」  武道着を巻いていた帯に名前が刺繍《ししゅう》されてあったのだが、いきなり何を聞いてくるんだこの外人、と思いながらも神鷹は答えた。 「ほう、それで彪《あきら》って読むのか。きみは、その字のほんとうの意味を知っている?」  ——神鷹は知らなかった。虎に三本のヒゲがついていて見た目にカッコいい漢字、て程度である。 「その字はさ、本来はヒョウという意味なんだよ。動物のヒョウさ。あの美しい毛皮をまとったね」  水野が同様のことを語っていたが、そもそも、それを神鷹に教えてくれたのはトマスだったのだ。 「それに、苗字が神鷹なんだろう? 神の鷹とは、これまた勇ましい名前だよね。だから姓名ともに、素晴らしい名前じゃないか! まさに、神から祝福されているような」  そんなふうに、トマスが彼の名前を盛んに褒めちぎったのが、最初の出会いであったのだ。  神鷹としても、名前に神の一字が入っているから、多少は仰々しくも感じていたけど、祝福されているなんてことは、ちっとも考えたことはない。むしろ逆だと思っていた。まわりは(自分も含めて)不幸だらけだったし、当時の彼は、父親からは捨てられたも同然で、親戚の家にあずけられていたのだ。小学校のころは父方の祖父母の家で、中学に入るとともに、母方の祖父母の家にやっかいになっていた。  二度目に、おなじような場所で出くわしたさい、トマスは、そんな神鷹の家庭事情などは知る由もないはずなのに—— 「きみは中学生だろう? 学校を出たら、どうするつもりなんだ?」  高校には行かず働くつもりであったが、そんなこと説明する義理はないので、神鷹が無視していると、 「もしよかったら、わたしのところに来ないか? 仕事だったらお世話できるよ。何なら、今からでもバイトをしていいよ」  ——そんな誘いをうけたのだ。  神鷹はピーンときた。外人が(不良外人が)宗教の勧誘をしていることぐらいは、中学三年ともなると知っていた。けど、バイト、その言葉にこころが揺らいだ。  中学生でできるバイトは、そうはないからである。それに、当時いた祖父母の家からは出たかったのも事実だった。神鷹が、ちょっとでも妙なことを口走ろうものなら(本人は冗談をいったつもりでも)、祖父母の顔色が変わって、うたぐり深そうな目で自分を見るからであった。さも、観察でもしているかのように。まるで実験動物のモルモットだ。そんな生活には耐えられない。  その祖父母の家は大宮市の郊外で、駅から東行きのバスに乗って五分ほど(歩けば二十分弱)の場所にあった。  大宮の駅周辺は、そのころの神鷹にとっては大都会で、トマスに声をかけられたのも、そんな大宮の繁華街だった。そして、バイトの誘いに興味をもった神鷹は、ものはためしにと、見学がてらに彼について行ったのだ。  駅の西口から十分ほど歩いて、商店街を出はずれた住宅街のとっかかりに、ぱっと見には、古ぼけて大きい二階建のふつうの家が建っていた。  道路側の壁一面だけが赤茶色をしたレンガ造りで、屋根は……瓦ではないけど、三角にはとがっておらず、それに、十字架のようなものは……その屋根にも、入口付近にも、どこにも見あたらなかった。  両開きの木のドアが入口で、それは真新しかったが、そのドアをくぐると……広々とした吹き抜けの空間があって、四、五人が内装の工事をやっていた。そのときは、まだ完成していなかったのである。  その四、五人の男女が、仕事の手を止めると、トマスに恭《うやうや》しく頭を下げた。  後から知ったのだが、彼(彼女)らは専門の大工などではなく、信者が手弁当《ボランティア》で来ていたのだ。  そして、バイトというのは、その手伝いをやれということだったのである。  神鷹には大工仕事の経験などはなかった。が、壁や床などの基礎部分は、すでに仕上がっていた。 「バイトはきみだけだからね。……内緒だよ」  そうトマスに親しげに囁かれて、まあ、教えてもらったら何とかなるかなと、神鷹は軽い気持ちで、その日のうちからバイトを始めたのだ。  神鷹は、もっぺらペンキ塗りを手伝った。  壁や天井を、脚立にのって、白一色の水性ペンキで塗りたくるだけだったから、慣れれば、そうむずかしい仕事ではなかった。  週に三回ある空手の稽古の日以外は、放課後と休みの日に、神鷹はそこにかよった。バイト代は当時の彼にしてみれば法外によくって、時給千円ぐらいはもらっただろうか。  が、ひと月もたたないうちに、内装はほぼ完成した。  木の長椅子が十二脚と、朗読台や、オルガンなどが運びこまれた。それと、十字架……らしきものが入口の上の屋根の上に立った。どう呼ぶものなのか、神鷹には定かではない。それは形がちがっていて、十字ではなくって、横木が三本もあったからだ。横木は下になるほど長い……。  その翌日、白布に大事そうにくるまれた等身大の像が、祭壇の上に置かれた。  二月の寒々とした日であったが、土曜日の午後にとりおこなわれた除幕式は盛大で、広い部屋(礼拝室)に入りきれないほどの人たちが来た。みんな着飾っていて、ジーンズにジャンパー姿のような軽装は神鷹ぐらいだった。  朗読台には、トマスではなく別の男性(日本人で老人)が立っていた。  さ、皆さんもご一緒に——  めぐみあふれる聖マリア、主はあなたとともにおられます。主はあなたを選び、祝福し、あなたの子イエズスも祝福されました。神の母・聖マリア、罪深いわたしたちのために、今も、死を迎えるときも祈ってください。  ——アー……メン。  その後、何度となく聞かされることになるお祈りの言葉は、その除幕式の日に神鷹は初めて聞いた。 『聖マリア・アドベンチスト教会』  それが、入口の横にかかげられた木の厚板などに記されている、教会の名称である。  また、これも神鷹は後から知ったことだが、日曜日は「主の日」、月曜日は「守護天使の日」……などと、曜日ごとに決まっていて、土曜日が「聖母マリアの日」なのだそうである。  その除幕式が終わって、教会から三々五々に人が去っていっていると、 「さあ、きみはどうする? まだバイトをつづけてもかまわないよ」  トマスが近寄ってきて、神鷹にいった。  けど、何のバイトをしろというのだろう? 内装はすでに終わっている。 「さっき、ミサをされていたのが、この教会の神父さんね。そしてオルガンを弾いていたのが、その奥さんだ。ふたりして、ここに住むわけだけど、見てわかったように、もうけっこうなお歳だったろう」  神鷹が見たかぎりでは、ふたりとも七十歳はいっていそうだった。 「だから、教会の雑務をやってくれるような、とくに屈強な若者がいてくれれば、何かと便利なわけさ。天井の電球ひとつ交換するのだって、大変な仕事だからね」  それはそうで……吹き抜けだから二階分の高さがある。けど、そう毎日毎日電球が切れるわけでもないだろうと神鷹は思ったが、 「それにさ、部屋はいっぱい余っているので、きみさえよければ、ここに住んでもかまわないよ」  そのトマスの誘いは、神鷹にとっては、まさに渡りに船(いや、神の思し召し)であったのだ。  家に帰ってさっそく祖父母にそのことを話すと、最初は驚いていたが、数日後にOKがでた。  神鷹は知らなかったが、祖父母も祖父母なりに心配はして、その教会を実際に見に行ってから判断したようであった。教会に住み込みで働くなんて、それがたとえお寺であったとしても、今どきそうある話ではないからだ。  神鷹は、中学校の卒業式を待たずして、その教会に引っ越した。とはいっても持ち物はわずかで、祖父が運転する乗用車で、一度に運べる程度だったが。祖母も一緒についてきて、神父の夫婦にぺこぺこ頭を下げていたのが印象的ではあった。——よけいなことをいうなよ! 神鷹は腹では思っていたが。  ともあれ、念願かなって、晴れて自由の身になった気分であった。もうモルモットのような目で見られることはない。  神父は遠藤《えんどう》という名前で、七十一歳、オルガンを弾く奥さんは、六十八歳であった。  遠藤は、定年で引退していたところをかつぎ出されたとのことで、最後のお勤めというより、夫婦でのんびりと余生をおくっている、そんな感じの神父であった。  神鷹には日当たりのいい一室が与えられて、もちろん、奥さんが食事を作ってくれての、三食つきの生活が始まった。教会の手伝いとやらも、掃除や、庭の手入れや、買い出しのつきそい……程度で、想像していたとおりの楽な仕事であった。もっとも、給金はそれ相応であったが。  それに、神鷹には、宗教的なことはいっさい強要されなかったので、そのてんも気が楽であった。  この教会には、定例のミサが、週に二日あった。  土曜日の午後三時からが、聖マリアのミサ、日曜日の朝九時からが、ふつうのキリスト教のそれである。ミサに来る信者は、多いときで三十人といったところだったろうか。  トマスは、来たり来なかったりした。  が、けれども、トマスが教会に顔を出したときにかぎって、奇妙なことがおこるのである。  それは、遠藤神父の通常のミサが終わった後、来ていた人の何割かが、礼拝室をいったん出てから、建物にそって裏側へと廻りこんでいき、そして、姿を消してしまうのだった。  そこに別の扉があることは、庭の草むしりをしていて、神鷹もすぐに気づき、知ってはいたのだが。  その扉の奥はどうなっているのか?  神鷹が教会に住み始めて二ヵ月ほどたってから、トマスみずからが案内してくれた。  扉を開けると、地下への階段がつづいていた。  お寺の神社の下にあった洞窟といい、そういったのにつくづく縁があるようだと神鷹は思う。  階段を降りきると、そこには、上の礼拝室の半分ほどの広さの部屋があった。明かりとりのような窓はなく、完全な地下室である。壁はコンクリーのそれのようだったが、やはり真っ白に塗られていて、いつの間に運び入れたのか、長椅子が何脚か置かれ、朗読台もあって、天井が低いことを除けば、もうひとつの礼拝室といっていいだろう。  ——が!  祭壇に置かれている像がちがっていることに神鷹は気づいて、驚いた。  色が、黒一色のマリアさまなのである。  背丈は上の白いマリアさまよりはずいぶんと小さかったが、妖しく黒光りしていた。 「上におられるのは、聖母マリアさまだろう。つまり、イエスさまの母親ね。こちらにおられるのは、マグダラのマリアさまなのさ」  トマスにそう説明されても、神鷹はさっぱりだったが。 「マグダラのマリアさまというのはね、イエスさまの、妻だった人なんだよ」  へー、彼も結婚していたのか、程度のことを神鷹は思ったはずだ。 「このマグダラのマリアさまはね、かなわない願い事であっても、ときには、かなえて下さることがあるんだ。まあ、きみもそのうちにわかると思うよ」  トマスはそれ以上の説明はせずに、この地下室も掃除をしてくれるようにと、神鷹に頼んだ。  その後、ひとりで地下の礼拝室に入ることもあって、黒いマリア像を、神鷹はしげしげと見た。  それは石造りの像のようで、表面がスベスベしていて、けど、どこかすりへっている感じもした。大勢の人が、手でなぜまわしたからそうなったのだろうか? 神鷹はそんなことも考えた。  トマスがとりおこなっていた地下室のミサにも、神鷹は顔を出してみたことがある。  遠藤神父の、飄々《ひょうひょう》としたミサとは雰囲気ががらりとかわって、トマスの話を一言一句たりとも聞き漏らすまいと、信者たちは真剣そのものの顔であった。  けど、その話の中身は、素人《しろうと》クリスチャンの神鷹には難解すぎて、しょくざいがどうのとか、ひせきがどうのとか、ほとんど理解できなかった。  ただ、トマスは、こんな話をくり返していった。  ——出来事は、すべておこるべくしておこるのだ。  ——偶然なんてことは、ありえない。  ——あなたが今そこに在るのは、何らかの必然性があってのこと。  ——すべての人には、役割がある。  ——無意味な人間などは、存在しない。  その話の骨子だけは、神鷹のこころにも刻みこまれた。  そんな奇妙で風変わりな教会の小僧さん生活を、神鷹は三年ほどつづけた。つまり高校生に相当する時期を、いわば安穏《あんのん》に暮らせたことになる。  教会の手伝い以外で、彼が欠かさず熱心にやっていたことといえば、空手の道場にかよう、それぐらいであったろうか。  空手は、神鷹が小学校の高学年のころから始めた。きっかけは単純で、空手で体を鍛えればこころも強くなる、そんなありきたりの宣伝文句を丸呑みにして、信じ込んでしまったからである。  こころが強くなれば母親のようにはならない、子供ごころにそう考えたからである。  悲しい話だが、それが真実で、彼にとっては切実な問題だったのだ。  そんな神鷹の空手道にも、転機がおとずれた。  トマスに—— 「きみの空手も、たいそう強くなったそうじゃないか? 黒帯だそうだね。もう向かうところ敵なしって感じだな。けど、空手以上に強い武道があるって、そんな評判を小耳にはさんだ。きみも一度、そちらを試してみたらどうだろうか?」  やんわりとだが、別の道場を勧められたのである。  それが、神鷹が今かよっている西新井の『天神心影流』の道場なのであったが。  けど、それは古武道の流れをくむ合気道の一種だというではないか。そんなもの空手の敵でないと神鷹は思いつつも、トマスにいわれた手前、無視もできず、冷やかし半分の他流試合、もしくは道場破りの意気込みで訪ねてみたのだ。  すると不敵にも、寸止めしなくていいよ、などといわれたので、ならばと神鷹は本気で、自信満々にツキやケリをくり出したのだが……痛ぇてて! 相手につかまれたが最後、悶絶《もんぜつ》する痛みが走って、床にねじ伏せられてしまう。それは攻め手をいかように変えて何度やってもおなじで、ことごとく床にねじ伏せられてしまった。それも水野師範などではなくって、自分よりも若いぐらいのガキに。  悔しいかな……シャッポを脱ぐしかなかった。  以来、そこの道場の門下生になったのだ。  さすがはトマスさま、神鷹は、そうも思ったのであったが。  それと同時に、教会の小僧生活にもそろそろ飽きていた彼は、西新井の道場にかようのに便利な場所へと、今の谷塚のぼろアパートへと引っ越して、仕事は、トマスが何くれと世話をやいてくれたのだが、教会の手伝いに週一ぐらいでは顔を出しつつ、けっきょく、工事現場の肉体労働などが、神鷹の性《しょう》には一番あっていて、現在に至っているのだ。  けれども、そこには——  先々を見据えた、何年後かの未来を予期したかのような、トマスの深謀遠慮があったことなどは、神鷹は知る由もない。  ——出来事は、すべておこるべくしておこるのだ。  ——偶然なんてことは、ありえない。  ——あなたが今そこに在るのは、何らかの必然性があってのこと。  これはトマスの持論でもあったのだ。悪魔のごとき発想でもって、そのように人を配置し動かしていく、それが彼の巧妙なやり口なのである。けど、この先も、神鷹がそれに気づくことはないだろう。  ……トマスさま……トマスさま……トマスさま。  最後の頼みの綱ともいうべき彼に、神鷹はやっとのことで電話をかけた。  必死の呪文《じゅもん》がつうじたのか、電話口にトマスが出た。  神鷹は、たどたどしく事情を語って、薬が欲しいと訴えた。 「それは大変だ。さっそく薬を届けさせよう。ところで、きみは今どこにいるんだ?」  神鷹は、暴風が吹き荒れているようなごちゃまぜの頭の中から、断片を何とかひろい集めて、代々木上原にある……国会議員の……斎藤の家だと告げた。 「ハッハハハハハハ!」  トマスは、それまでに神鷹が一度も聞いたことのないような声で高笑いをし、 「それはそれは——」  ことのほか嬉しそうにいい、 「だったら、きみに薬なんか必要ないよ」  ……ええ? 「あの薬はね、きみは勘違いしていたかもしれないけど、魔法の薬などではない! むしろ悪魔の薬なんだよ。きみのお母さんに試してみたときに、こっぴどいことになったろう? あれがその証拠さ」  そっ……そんなあ? 「たしかに、あの薬を飲むと頭の中がすっきりした気分にはなる。けど、それは魔蠱化《まやか》しなんだ。ほんとうのきみを隠してしまうための牢獄《ろうごく》のようなもの。薬を飲んでいるときのきみは、ウソのきみなのさ。真実のきみではない」  トマスが何を語ろうとしているのか神鷹には理解できないが、薬を……届けてくれそうにないことはわかって、再度、薬が要るから欲しいと訴えた。 「いやいや、今すこしの辛抱なのさ。この苦しいところを我慢して乗り越えると、パッ、と花が咲いたように、今までにない聡明なきみに生まれ変われるはずだからさ。それは、このわたしが保証するよ。これまでに、わたしが一度だって、きみにウソをついたことがあったかい?」  いえ……トマスさまにかぎっては……。 「だから、わたしを信じて、しばらく我慢しなさい。それとさ、もう聞こえていると思うけど、きみの心の声が聞こえるよね。それを嫌って、耳をふさいだりしちゃいけない。その心の声こそが、きみを解き放つカギだからさ。ほら、わたしに一度話してくれたじゃないか。洞窟の中にあった鍵のことを……あの世とこの世とをつなぐ鍵のことを。きみの心の声も、そのカギのひとつなのさ。お寺のことや、火事のことが、思い出されちゃうよね。お寺の火事は、きみが話していたように、きみが——原因だ! けど、そこから逃げてはいけない。心の声が、きみに真実を教えてくれるはずだからさ。よーく耳を傾ければいい。そして、その声に素直に身をゆだねなさい。いいかい、きみの心の声こそが、真実であり! 他のいかなるものよりも正しく! 崇高で! 神であり! それこそ、きみの大好きなマリアさまのようにね。……きみが今その家に在るのは、何らかの必然性があってのこと。きみの役割が、そこで見つかるはずさ。それは心の声が、きっと教えてくれるから。無意味な人間などは存在しない。まさに! 今のきみがそうさ! もう一度いうよ。きみの心の声に、身をゆだねなさい。わたしが今まで一度だって、きみにウソをいったことがあるかい? もう一度いうよ。心の声に……心の声に……心の声に……」      ※  ——水曜日。  午後の四時すぎに、妻の静香だけが、男性秘書の運転する車に送られて、代々木上原の斎藤邸に帰ってきた。  杉村はちょうど買い物に出ていたが、ひと足遅れぐらいで家に戻ると、食堂のテーブルに、見るからに憮然《ぶぜん》とした表情で静香が座っていて、 「わたしに……先にひとりで帰れっていうんですよ。わたしの方が残って、お義父《とう》さまのお世話をしなければいけないのに、ほんとうでしたら」  顔を合わせるなり、不服そうに愚痴《ぐち》をいった。 「あらあ、それはそうですよね。旦那さまも、奥さまとしてのお立場やお気持ちを、もうちょっとはわかってあげられないとね」  同調して杉村はいってから、 「それで……大旦那さまのお加減の具合は、いかがなんでございますか?」  最大の心配事をたずねる。 「それがですね」  静香は、少し間がぬけしたような顔をしてから、 「わたしは、今日になって初めて、お義父さまの病室に入れてもらえたんですね。行った日と翌日は面会謝絶でしたから。そして、お会いしましたところ、もうまったくお元気そうでして、タバコを吸われていたぐらいでしたから」 「ええー?」  杉村は亀のように首をつき出す。 「個室でしたから、タバコはかまわないらしいんですが、そんな話は別にしまして。これは信介さんから教えていただいたんですが、お義父さまは、火事のときに、煙を吸ってしまわれて、それで何とか庭まで這い出したところで、気を失ってしまったらしいんですね。そのまま病院に運ばれて、いっとき、危篤《きとく》だったそうなんですよ」 「あらあ……」  杉村は小刻みにうなずいてから、 「火事のときは、火の粉よりも、煙の方がこわいっていいますですものね。なんでも、猛毒のガスがばんばん吹き出すそうで?」 「そうらしいですよね。それで、意識をとり戻されてからは、もう大丈夫だということでして。それに、不幸中の幸いで、火傷《やけど》もほとんどなさっておられないんですよ。服から出ていたところ、手とか足とかに、小さな絆創膏《ばんそうこう》を貼られていた程度です」 「それはそれは、よろしゅうございましたよね」  杉村は手を合わせて、こころの底から大喜びしていいながらも、すると、一緒にいて死んでしまった女性は、その猛毒のガスを吸いすぎちゃったのかしら、運悪く、などと考えていた。 「それはそうと、さっき、えー……神鷹さんでしたよね。帰って来たときに、廊下でお会いしたんですが、どこか、顔色がお悪いようでしたけど?」  静香が心配していう。 「あっ、そうなんですそうなんですよ。ショウくんが家にひとりになってしまいましたでしょう。ですから見張りが……あの子すごく律義な子のようで、もう寝なさい寝なさいって、わたし何度いったかわからないぐらいなんですが、押忍、といってるだけで、ちっとも聞かずに頑張って起きてるもんだから、もう疲れきっちゃってるみたいなんですね。だからひと晩寝れば、若いから元気になると思いますよ」  杉村は、真相など露知らず、能天気にいい、 「ところで、旦那さまはいつお戻りになられるんですか? 水野さまにも、そろそろ戻っていただきませんと、それこそショウくんが可哀想ですから」 「たぶん、明日には帰るといってました。そうそうお休みはできませんから……て」 「それもそうですよね。国会、やってございますものね」  杉村は、さらりといってから(さすがは代議士宅に何十年もいるお手伝いさんで)、 「それと、その火事の原因でございますが、新聞とかでは、ただ漏電としか書かれてませんでしたけど、どのあたりの電気が漏れたんでございますか?」  気になっていたことをたずねる。 「それはですね、向こうを発《た》つ直前に詳しい話が聞けたんですけど、一階の応接間に、古い!」  静香は強調していい、 「ステレオのアンプやスピーカーがたくさん置かれてましたでしょう。あのあたりらしいんですよ」 「ああー」  杉村も奇声を発して、 「あの大旦那さまの、ご趣味のコーナーでございましたか。あそこには古い! ご自慢の、戦前の真空管とやらが、たくさんつっ立ってましたですものね。そこに電気がつうじてることを考えると、いつ火が出たって、おかしくありませんですよね」  濁声《だみごえ》で、大納得していった。 「たしかに、真空管が火を吹くって俗にいいますよね。けど、真空管そのものが悪いってわけじゃなくて、真空管を使うためには、電圧を高くせざるをえないので、ちょっとした不具合が生じても、火花が飛ぶんですね」 「あら、そういえば、奥さまもそっちがご専門でございましたものね」 「けど、わたしに真空管の趣味はありませんよ」  もっぱら最速最新鋭のコンピューターが、大学以来の静香の趣味であったが。 「どっちにしても、そのあたりから火花が飛んで、それが燃えやすい何かに……カーテンとかは近くにありませんでしたよね。すると何かしら……やっぱり、埃《ほこり》かしらね? 遠藤さん、ちゃんと掃除していたのかしら?」  杉村はぶつくさ独《ひと》り言のようにいってから、 「けど、あの大旦那さまのご趣味のコーナーは、他人には、絶対に触らせませんでしたよね?」  静香も、そうだとうなずく。 「だったら、たぶん掃除もやってませんですよね。というより、真空管や何やらが剥《む》き出しでしたから、そんなの見るからに感電死しそうで、わたしたちは手で触れませんですものね。だから、それこそもう大旦那さまの!」  ……せいで、自業自得《じごうじとく》だといわんばかりに、杉村はいった。  杉村が、スーパーの買い物袋などを炊事場の方にもって行きかけてから、足を止めて、 「あら……」  たった今気づいたかのように、その袋につっ込んであった新聞(駅売りの夕刊紙《タブロイド》)を、それだけ出して、食堂のテーブルに置きながら、 「……奥さまは、これはご存じでございますか?」  おずおずとたずねる。 「ええ、あちらを発つときに読んできました。もう出ていましたから。それに、今日の朝方、信介さんの方には連絡が入ったようです。そういった記事が出るって」  さほど動揺はしていないように、静香はいう。 「けど、これはおっかしな話ですよね。大旦那さまが、そんな愛人を囲ってたなんてことは、わたしは長々とお仕えしてますから、自信をもっていえますけど、東京のこの家におられたときは、暇さえあれば秋葉原《あきはばら》に行っちゃう。それが大旦那さまの唯一の趣味といえるようなもので。こっちの方なんて」  杉村は小指を立てて、 「その素振りさえ見せたこともありませんよ」 「ええ、信介さんも、お義父さまにかぎって、それはないと断言されていました……」  とはいったものの、静香のこころのうちは複雑である。 「そうですよね。そのはずですよね。けど、山梨のお家に、そのお姉さんの妹さんがおられて、お亡くなりになられたのも事実ですからね。それにお姉さんの方は、何ヵ月か前に自殺されてたって話じゃありませんか? いったい、どうなってるんでございましょうかね?」  杉村も、解せない表情で首をかしげた。  ——斎藤邸(元大臣)火事の怪!    美人女優の姉妹に何が?  そんな見出しが躍っている夕刊紙には、中西が徹夜でチャットして盛り上がったときの話が、表現こそ手加減されてあったが、ほぼそのとおりにすっぱ抜かれて記事になっていた。誰かが漏らしたのだろうが、それなりに衝撃的な内容だったので、おもてに出てしまうのは無理もなかったろう。それに美人女優と元大臣だから、夕刊紙にはもってこいのネタである。それも単なるゴシップ記事ではなく、女優姉妹の死に関しての、いくばくかの真実らしきものが見え隠れもするから、関係者にとっては、さらにやっかいだ。 「信介さんが、黙《だんま》りでとおせ! と秘書の方々には、はっぱをかけておられました」  静香が、少し他人行儀《たにんぎょうぎ》にいった。 「ええええ、そうですともそうですとも、何もしゃべらないのが一番でございますよね」 「けど、そうそう無視もできないとは思いますよ。だって、その妹さんは、わたしどもの家の火事で、お亡くなりになられたわけですからね。そのご家族の方々が、おられますでしょう」 「奥さまは、お会いになられたんですか? そのご家族の方々とは?」 「いえ、病室の階がちがっていましたから。信介さんと、秘書の誰かが、会いに行かれたと思います。けど、そこでどういったお話があったのかは、わたしには……」  聾桟敷、そんな白けた表情で静香はいう。 「いえ、奥さまは、それにはノータッチの方がよろしゅうございますよ。殿方がおやりになった粗相《そそう》は、殿方たちだけで、始末をつけさせるべきです!」  杉村は、奥女中さながらにいった。  そのころ、神鷹は——  縁側に棒立ちしていて、暮れていこうとする空や冬枯れの庭を見つめながら、不思議にも、笑みを浮かべていた。ちょっとした高揚感にもひたっていた。今、神鷹の頭を占有しているのは、ほかならぬ、奥さま(静香)のことである。さっき、廊下ですれちがったときに見た彼女の顔が、以前のマリアさまのような慈愛に満ちた微笑《ほほえ》みではなく、苦痛にゆがんているように見えたからだった。  ……なぜだろう?       ……誰かが?    ……何かしたんだろうか?  彼女を苦しめるなんて、断じて許せなかった。  神鷹は、自身が今ここに在るわけが、わかった気がした。自分の役割を見つけ出した気がしたのだ。  マリアさまを守る聖戦士《ナイト》。それこそが自分だ!  彼の狂った脳が、そんな幻影を彼に見せていたのである。 [#改ページ] 第三章 「黄泉返り」  14  ——木曜日。  今日、すべてのことがおこる。  竜介は由希靉をともなって調査の旅に出るし、まな美と土門くんは放課後に洞窟探検だ。そして斎藤や水野も代々木上原の家に帰ってくる。いや、ふたりだけではなく、女性の客人をひとり連れ帰ってくるようだが。  それらは、あらかじめレールが敷かれてあったかのように、ある種の必然性に導かれている。  だから偶然なんてことは、ありえない。      ※  竜介と由希靉は、早朝、七時五十二分発の新幹線のぞみ号に乗車した。それでも名古屋を経由して桑名駅に着くころには十時をすぎてしまう。もっとも、それは桑名市で、目的地はさらに奥地の桑名郡である。  竜介はJRの京浜東北線一本を使って三十分ほどで東京駅まで行けるが、由希靉は、そうはいかない。高尾駅の近くにマンションを借りてひとり住まいをしている彼女は、六時に家を出たそうであった。  それゆえ、まだ半分寝ぼけ眼《まなこ》の由希靉は(中央線快速の中でも追加寝をしていたらしく)、 「先生は、よそでも見ててくださいね」  そんなしおらしいことをいって、窓側の席につくなりコンパクトをとり出し、化粧をなおしている。  竜介は、東京駅の売店で買った新聞やら静岡茶のアルミボトルなどを、前のテーブルを出して置いた。 「あ……」  由希靉が、その新聞の見出しに気づいて、 「斎藤さんのことが、それにも載ってますよね」  心配そうにいう。  が、化粧の手は止めない。  それは今朝のスポーツ紙で、よそを見ろといわれたことでもあり、その新聞をひらいて竜介はざっと目をとおしてみた。……昨日の夕刊紙と大差のない記事のようだ。けれど、ドレスで着飾った小田切姉妹がふたりそろって撮られた写真入りで、人間関係のイラストなども添えてあり、より派手に扱われていた。竜介は、テレビ女優の姉は記憶にあったが、妹の小田切美紗の顔は初めて知った。噂《うわさ》どおりの端正な美人である。そんな姉妹が、あいついで鬼籍《きせき》に入ったとは、いったい何の因果なのだろうかと、あらためて疑問に思う。  のぞみ号はしずしずと走り出した。  指定席はほぼ満席のようで、ふたりがいるのは禁煙車両である。吸わない彼女を気遣ってそうしたのだが、これは旅の常識であろうか。  まもなく開業するらしい品川駅をすぎたあたりで、由希靉がコンパクトをかたした。彼女は、小花を散らした蜜柑《みかん》色のワンピースに薄緑色のカーディガンをはおっている。初冬というより早春の装いだ。 「先生は、この記事はどう思われます?」  ——ととのった美しい顔を向けていった。 「うーんどうなんでしょうかね、実際のところは」  竜介は考え深げにいったが、心中わずかではあるが罪悪感が芽生えている。  昨日の夕刊紙を皮切りにしての一連の記事は、もとネタが例のチャットであることは明らかで、さらにもとをたどると、その火つけ人は誰あろう、竜介の一番弟子ともいうべき院生の中西なのだから。 「信介先生からも、何度か連絡が入ったんですよ。で……わたしの方から聞いたわけじゃないんですが、新聞に載っているような話は、全部ウソだからって、信じないようにって、そう念を押されてましたけどもね」  まあ、それはそういわざるをえないだろうなと、竜介は思いながら、 「その……連絡が入ったときに、ぼくからの伝言は、彼に伝えていただけました?」 「ええ、もちろん。警護を怠らないようにってお話でしたよね。けど、もう実際にそうされていまして、わたしたちが料亭で会った、その日の夜から、すっごく強い武道家の人に、二十四時間ついてもらっているそうです。その人は、何かの師範で、もう天下無敵だといっておられましたよ」  由希靉は、剽軽《ひょうきん》に、楽しそうにいう。 「じゃ、それはひとまず安心ですね」  その天下無敵を額面どおりうけたわけではないが、竜介も、自分にできる範囲の責務ははたしたという意味で、安心していった。 「それはそうと……」  由希靉が、竜介の顔をまじまじと見ながら、 「わたし、ずーっと気になっていることがあるんですよ」 「えっ……何か?」  そう彼女にまじまじと見つめられると、竜介としても気恥ずかしいが。 「あの病室で、彼が、イチゴのヘタを手でにぎったときに、手の平から消えちゃいましたよね。あれはどういうことなんですか?」 「あっ、あれ……」  竜介も思い出した。 「あれはどうなってたんですか? 先生は、手品とかにお詳しいですよね?」 「うーん……」  竜介も、やや首をかしげてから、 「いやあ、やり方はないことはないんですけど……たとえば、尾沼さんもストッキングをはかれますよね?」  いきなり意外なことをいうので、由希靉は自身の膝頭《ひざがしら》に目をやってから、怪訝《けげん》そうにうなずく。  彼女は濃い茶のブーツをはいているので、膝頭《そこ》ぐらいしか見えない。 「女性用のストッキングは、ほつれると糸がでてきますよね。けっこう細い糸ですが、それでも何本か寄り集まっているのがふつうで、それをさらにほぐしていくと、非常に細い糸になります。それを俗に、見えない糸……ていうんですけどね」 「へー……」  由希靉は感心しながらも、女性のストッキングをほどくなんて、薄気味悪く思う。 「一九五〇年代ぐらいから、おもに旧ソ連ですが、超能力者が数多く輩出《はいしゅつ》され始めます。テーブルの上のマッチ棒を動かしたり、ピンポン玉を宙に浮かしたりと、いわゆる、念力の超能力者ですけどもね。つまり、女性用のストッキングの発達史と、超能力の歴史とが、どうしたことか、きれーに重なっちゃうわけですよ」  竜介独特の、皮肉をこめていう。 「じゃ、その見えない糸を使ってたんですか?」 「そういうこと。当時のその種の超能力は、もう百パーセントそうだと、断言してもいいです」  竜介は自信満々にいい、 「もっとも、静電気が関係しているのが一部あるから、それは除いてですけどね。それに、ストッキングをほどいたのは昔の話で、今では、プロのマジシャン用に、それ専用の糸が何種類も売られてます。プロは単に、糸っていうんですが、一流のプロが用いてるような糸だと、たとえ目の前につき出されても、まず絶対といっていいほど見えません。そういった糸を使うと、彼が見せてくれたような不思議が、演じられないことも……ないんですけれどね」  そのあたりになってくると、竜介は自信なさそうにいう。 「それは、どうやるんですか?」  朗《ほが》らかに、由希靉が聞いてくる。 「えー……まず、ループ状の糸を作り、一メーターぐらいの糸を、先をつないで輪にすればいいですね。それを、手にひっかけるわけですよ」  竜介は、左の手の平を前に出して、糸はないが、それっぽく実演して見せながら、 「そうしておいて、ヘタを手の平においたときに、その糸にからませます。これは簡単にからみますからね。そして、手をにぎっていく、と同時に、ループ状の糸の下側をひっぱると……」 「あら、出ていっちゃいますよね、ヘタが」  由希靉も、想像をはたらかしていう。 「そうなんですよ。手は閉じていても、親指と人差し指の間で、隙間が作れますから、そこから外に逃がすことができるんですね。それも親指の陰になっているから、ちょうど見えないんですよ。そして、手を開くと……」 「そのときヘタは、手の裏側にあるわけですね。宙ぶらりんのかっこうで」 「そうそう」  その由希靉の言葉に、竜介は少し笑いながら、 「……で、手を閉じて、今度は逆に、ループ状の糸の上側をひっぱれば、ヘタは手の中にもどります」 「なるほど、そんな仕掛けだったんですね」  由希靉が、あらためて感心していった。 「いや、それはそうなんですけど」  竜介は苦笑いしていい、 「彼が手を開いて、イチゴのヘタが消えていたのを見た瞬間、ぼくはこのネタが頭に浮かんで、まあ、これぐらいしかやり方ありませんからね。なので、ぼくは別のところを見てたんですよ」 「別のところ?」 「つまり糸をあやつってるのは、逆の手でしょう。そっちを見てれば、たとえ見えない糸であっても、何をやってるかは見抜けるわけですよ。手品って、えてしてそういうものです」  竜介は、秘訣《ひけつ》めいたものをいってから、 「ところが、そのときの彼のもう片方の手は、膝に置かれたままで、何ひとつ動きがなかったんですね。だから、説明したネタとはちがっていたようで、正直なところ、ぼくにもよくわからないんですよ」 「えー……」  由希靉は、裏切られたといった顔で、 「先生がわからないとなると、いったい何をやったんですか? 彼は?」  竜介に詰め寄ってくる。 「いやあ、手品のタネって、現場ではそうそう見抜けるものじゃないんですよ。とくに突如やられた場合、タネが浮かんで、そこに着目して見て、それがハズれていたら、もうお手上げです。だからビデオにでも撮っておかないかぎり。ところで、あのときの映像は残してあるんですか?」 「あっ……」  忘れた、といった顔を由希靉はする。 「だったら、わかりっこないですね。もしくは、あれは手品なんかではなかったのかもしれません」 「えっ?」 「かりに、その映像が残っていたとして、それを見たら、さらに不思議なことが映っていたかもしれませんよ。たとえば、彼の手の平にあったヘタは、彼が手を開け閉めしている間、一度も消えたりはせず、そのまま手の平にずーっとあったりして」  ずーっとの部分を、竜介は怪談調《かいだんちょう》でいう。 「それは、どういったことなんですか?」 「つまり、幽霊を見せられたのかもしれない……てことですよ。特殊な訓練をつめば、他人に疑似《ぎじ》映像を見せる、そんなことが可能になります。見せられるぐらいだったら、消えているように見せかけることだって、可能なような気がしませんか? もっとも、すべて仮説ですが」 「うーん?」  その仮説は信じられない、そんな顔を由希靉はする。 「そもそもね、前提が変なんですよ。ぼくが手品をする。手品ができる。これは変じゃありませんよね。こういった仕事柄、いかさま超能力者を相手にするには、手品の基本ぐらいは知ってないと。けど、あの彼・神さまの場合は、手品をする、それもタネが見破れないほどの素晴らしい手品ができる……どこか、今ひとつ釈然としないんですよ。必然性が感じられないといった感じで、まさしく、感覚的な話なんですが」  竜介としては珍しく、理屈ではなくいう。 「だから、手品ではないって?」 「ぼくが先に、あんな小ワザを披露したものだから、彼も彼なりに、自分にもできるかなーとの軽い気持ちでやってみたら、うまくいった、そういったことではなかろうかと」 「そういったことじゃすみませんよ、先生!」  竜介のごまかしは許さず、由希靉はいう。 「だから、ほんとにわからないんですよ。真相は永久に闇の中って様相ですかね」  言葉をつむいで、竜介が敗北宣言を出していった。  静岡茶のアルミボトルはJRでしか売っていないようで、それが竜介のお気に入りらしく、その冷たい煎茶《せんちゃ》をひと口飲んでから、 「ぼくも、ずーっと気になっていたことがあるんですよ」  茶目っ気を出して、おなじようにいう。 「そもそもですね、どうしてぼくの研究室に電話をかけてこられたんですか? 一番最初」 「あ、それはですね、ちょっと意外な話なんですけれど、満子叔母さんが……院長夫人が、先生のお名前を出されたんですよ。特殊な研究をされているようだから、ご意見をおうかがいしてみたら、て」 「へー……」  それは竜介としても意外であったが。 「それもあって、叔母が中にいるのを承知で、彼の病室を訪ねたんですね。一度きちんとご紹介をしなければと思って。でも、あのときには桑名さんがおられましたから、そんな雰囲気にはならなくって」  由希靉は小さく頭をさげていい、 「けど、あの後で、わたしと一緒におられた人が、その先生なんですよ、と叔母に話したところ、あら、ほんとに呼んじゃったの、といわんばかりの冷たい顔をするんですよ。叔母はムラッけがすごいんですね。だから何を考えてるのかよくわからなくって」 「いや……」  由希靉の要領をえない話に、竜介は核心を開く。 「院長夫人は、なぜぼくを知ってたんですか?」 「それは……わたしが思うに、先生の論文か何かをお読みになったんじゃないでしょうかね。おなじく心理学が専攻ですから」 「いや、たしかに論文は書いてますけど、純粋に、映像認知の話だけですよ。予知・予言の類《たぐ》いなんかいっさい、噫気《おくび》にも出してませんよ。だって、そんな論文うけつけてもらえませんからね、はなから」  講師である竜介は、勝手に論文を出すわけにはいかない。助教授や教授の目が光っているからだ。 「じゃ、何でご存じだったんでしょうかね? 叔母は? 先生のことを?」  由希靉は、頼りなげにいう。 「うーん、わからない話が多いですよね、世の中には……というより、我々のまわりだけかもしれませんが」  竜介は苦笑ぎみに、だが実際そう思いながらいった。 「そうそう、院長先生に、あのハマダ社長さんのことを聞いてみたんですよ。けど、覚えはないとのことでした。大学がおなじだったなんて、初めて知ったと驚かれてました」  それは中西からの質問の横流しであったが、 「ふーん、なるほどね」  竜介が予期していたとおりの回答で、それに顔見知りだからといって、何かの謎《なぞ》が解けるわけでもないのだ。神さまの一連の予知・予言は、小田切姉妹という項目を除いては、それすらも謎だが、依然として謎のままである。  のぞみ号は定刻どおりに名古屋駅に到着し、六分というきわどい乗り換え時間で、関西本線の下り列車に飛び乗って、三十分ほどで桑名駅に着いた。  そこからは近鉄|養老《ようろう》線を使うのが本来の行き方だろうが、それは一時間に一、二本という閑線《かんせん》なので、それに最寄り駅からも歩いて行けそうにはなく、だから桑名駅からタクシーに乗った。  桑名市は、そう大きくはないが、近代的な整った町並みである。  ——長良《ながら》川、木曾《きそ》川、揖斐《いび》川の三大河川の河口に位置する港町で、また、東海道五十三次の四十二番目の宿場町でもあったから、それに伊勢《いせ》の国の玄関口にもあたっていたので、昔から栄えていたそうである。  そういった話を、タクシーの運転手が気さくに説明してくれた。白髪《しらが》まじりの年輩の運転手だったが、その彼に聞かれて、竜介たちが、地元人ではなく、東京から来たことを話したからだ。  運転手は、バックミラーでちらちら後部座席を気にしながら(美人を乗っけてるからだろうが)、さらにこんな話をする。  ——町並みが整っているのは、城下町だからで、城を築いて、そのさいに大規模な都市開発をやって、今あるような桑名市を作ったのは、本多忠勝《ほんだただかつ》だそうである。別名・本多|平八郎《へいはちろう》ともいうが、徳川家康《とくがわいえやす》の腹心の部下で、五十以上の合戦に出陣して一度も負けたことがないという猛将だ。そんな彼が、桑名の川べりに城を築いたのは一六〇一年のこと。四重六層の、当時としては巨大な城で、その城内から直接、船で川に出ることもできた、最先端の城でもあったという。 「一六〇一年だと、関ヶ原の翌年ですよね?」  竜介が、相手をしていった。 「そうです。徳川方が勝ったから、桑名の地に城が建ったわけですよ。北に一時間も走れば、その関ヶ原なんですよ」  運転手の話は今ひとつ要領をえないが、 「へー、そんなに近いんですか」  竜介は、てきとうに話をあわせていう。 「このあたりで城といったら、どこの城を思い浮かべますか?」 「うーん、やはり名古屋城でしょうかね」 「金の鯱《しゃちほこ》ですものね」  由希靉もいう。 「皆さんそう思っちゃいますよね。けど、あの名古屋城ってのは、当時はなかったんですよ。それに関ヶ原で勝っても、まだ大坂城は残ったままでしょう。だから、その大坂城にニラみをきかすために、徳川方の最先端の城として、桑名城を建てたんですよ」 「あっ、それで家康の一の子分の、本多忠勝を」 「ええ、そういうことですね」  運転手は、自分のいいたかったことを理解してもらえて、嬉《うれ》しそうにいい、 「さらに続きがありましてね、忠勝公は、この桑名の地で没したんですが、彼の子孫は、桑名城は継がなかったんです。また別の特命をうけるんですね。大坂冬の陣・夏の陣で、大坂城が陥落した直後に、今度は姫路《ひめじ》城に入ったんですよ」 「あー、あの日本一の大きな城ですね。今ある姫路城が、その当時できてたんですか?」 「ええ、大坂の陣の、何年か前に完成してたんです。大坂城が落ちて豊臣《とよとみ》が滅んでも、島津《しまづ》や何やかんや、徳川に刃向かいそうな西国の大名が、まだ生きてましたでしょう。姫路城は、それにニラみをきかすためだったんですよ」 「あっ……なるほど。要《かなめ》の城は、きまって、本多に任してたわけですね」 「家康さんが、一番信頼してた部下ですからね。でこの話には、さらに面白い続きがあって、大城城が燃え落ちていくさなか、その城から、女性がひとり助け出されてるでしょう。千姫《せんひめ》さんが」 「あっ……千姫……」  由希靉が知ってそうにいったが、つづく言葉がないので、 「豊臣|秀頼《ひでより》の妻ですよね。けど、徳川の血筋で、二代将軍・秀忠《ひでただ》の娘、家康からいくと、孫娘ですよね。豊臣|秀吉《ひでよし》の今際《いまわ》の際《きわ》に、諸大名が列席してるところで、家康が無理やり約束させられて、しかたなく嫁がせた娘さんですよね」  竜介が、ていねいに解説していった。 「そうそう、ですが、千姫さんは驚くほどに若くって、秀頼に嫁いだのが六歳、大坂城から助け出された時点で、まだ十八ぐらいなんですよ。これからって感じの歳《とし》でしょう。だから再婚話がもちあがって、そして嫁いだ先が、その姫路城の本多なんですよ。本多|忠刻《ただとき》っていうんですが、これは忠勝公からいくと、孫にあたります。だから孫孫どうしの結婚だったわけですよ。家康さんと忠勝公の——」  運転手は、ことのほか嬉しそうにいった。 「へー、そんな経緯《いきさつ》だったんですか。それは知らなかったですね」  竜介としても、実際、面白い話を聞かせてくれたので、謝意をこめていった。  車は、ほぼ真っすぐな国道・二五八号線に入って、北へとひた走っている。窓から見えるのは、お世辞にも美しいとはいえない人工的な田舎《いなか》の景色である。冬だから、なおさらである。  タクシーに乗ってから十五分ほどかかっただろうか、その真っすぐな国道の、ひらけた前方に、まだかなりの距離がありそうだが、純白の大|鳥居《とりい》が見えてきた。 「お客さん、先に、お多度《たど》さんの方に行かれるんでしたよね?」 「ええ、お願いします」  竜介が答えた。  お多度さんとは、多度大社《たどたいしゃ》のことで、地元の人は親しみをこめてそう呼ぶ。 「あの白いのは……鳥居なんですか?」  それとわかって、由希靉が驚いていう。 「大きいでしょう。こんな手前からも見えるぐらいなんで。十……何年か前に、あそこに陸橋ができたときに、一緒に立ったんですよ。今は昼間だからわかりませんけど、夜になると、あの鳥居がライトアップされて……ちょっとした、幻想的な景色が見えるんですよ。今ふうの御伽噺《おとぎばなし》って感じですかね」 「ほう……」  竜介は、多度大社には以前に一度来たことがあったが、もちろん昼間だったので、そういった幻想的な夜の景色などは知らなかった。 「それにですね、あれは東海三県から見える鳥居なんですよ」 「えっ?」 「三県?」  由希靉と竜介が、同時に声をあげた。 「つまりね、今いるところは三重県でしょう。けど、お多度さんの裏山は多度山《たどやま》っていうですが、低い山だけど、その尾根が岐阜《ぎふ》県との県境なんですね。それに右にちょっと行ったら、尾張《おわり》名古屋の愛知県だから、なのでねえ……」 「なるほど、三つの県から見えるなんて、珍しいですよね」 「まずここぐらいしかないと思いますよ」  そんな郷土の自慢話を聞いていると、ようやく、その白い大鳥居がせまってきた。 「近くで見ると……巨大ですよねえ」  由希靉が、感情をこめていった。 「高さが十七メートルを超えてるそうです。だから建物でいくと、五階建ぐらいですかね。この陸橋を作ったときに、そこの建設会社の社長さんが、寄付されたそうなんですよ」  その奇特な大鳥居は、国道から左に直角に折れる分かれ道の上に(下を近鉄養老線が通っているから陸橋でもあるが)、道をまたいで立っている。  ——多度大社はこっち!  そう叫んでいるようにも見え、これほどの道案内はそうそうないだろうと竜介は思う。  車が、その純白の大鳥居の下をくぐった。  そして、真っすぐな道をしばらく走っていると、 「あら! もうひとつ立ってますよ」  由希靉が嬉しそうにいった。  右へと折れる分かれ道があって、その入口に、おなじく白い大鳥居が立っているのだ。 「こちらは、ちょっと小さいらしいですよ。たしか、十二メートルとかいってましたですかね」  それでも、十分にデカいと竜介は思う。  車はふたつ目の大鳥居をくぐって、その少し先にあった、神社前の駐車場に入って止まった。  運転手が、お多度さんの案内をと申し出てもくれたのだが、それは辞退して、ただ待っていてくれるように頼んだ。  付近には古い家並みがあって、茶店や土産物屋なども何軒か立ち並んでいる。 「ちょっとした、神社町の雰囲気でしょう。もっとも、戦前ぐらいまでは、さぞかし立派な神社町が栄えていたはずで、その名残《なごり》が……どことなくね」  由希靉も、うなずいた。  そして百八十度目を転じると、裏山の森がおおいかぶさってきているように見える、多度大社の入口がある。  竜介は、彼女をともなって、その境内の方へと進み入りながら、 「神社にも格付けがあってね、一番上は官幣《かんぺい》大社といって、明治神宮や出雲《いずも》大社などの錚々《そうそう》たるのが、それですね。ここの多度大社は、つぎの国幣《こくへい》大社なんですよ。これも戦前の格付けですけどね」  ……声をひそめぎみにしていった。  平日の午前中でもあってか、参拝客は見あたらず、あたりが静まり返っているからである。 「けど、あまり知られてませんよね」  由希靉もささやき声でいう。 「ええ、たしかに名前は知られてませんよね。桑名では、もちろん一番の神社ですが、三重県でも、二番目の神社なんですよ」 「へー、じゃ、一番目はどこなんですか?」 「それは……日本で一番の神社です」  苦笑ぎみに竜介がいうと、 「……!」  何秒後かに、由希靉も気づいた。 「けど、尾沼さんも、ここの祭りの映像だったら、見てるかもしれませんよ」 「映像をですか?」 「もうそこに見えてるんですけどね」  竜介が、左前方を指さした。  すぐ前に、かなりの高さ(五、六十段)の幅広の石段がそびえていて、その左横に、赤土が剥《む》き出しになったままの坂道があるのだ。さらには、その坂道を観覧できるような、ずらりと格子窓がはまっている独特の古めかしい建物が、坂に沿って立ってもいる。 「この赤土の坂道を、馬が駆け上がっていくんですよ。乗り手は、陣笠にはかま姿の少年です。上《あ》げ馬神事《うましんじ》、と呼ぶんですけどね」  ふたりは石段を登っていきながら、 「坂の頂上のところが崖《がけ》になってて、けっこうきつそうでしょう。あそこを馬が上がれるか上がれないか……って頑張るんですが、それで、その年の豊作や吉凶を占ったりするそうです」 「あ! いわれてみれば」  由希靉は思い出したらしく、 「わたしもテレビで見たことがありますよ。あれはここでやってたんですね」 「ええ、多度大社のお祭りは、ちょうど五月|節供《せっく》の日にあたって、男子の祝日にふさわしい勇壮な神事だから、きまって、ニュースで流されるんですよ。だから上げ馬神事はよく知られてるんですね。けど、それをどこでやっているのかは……」 「わたしみたいに知らないんですね」  由希靉が、すねた表情でいった。  石段を上がりきると、少しひらけた空間で、石の大鳥居が立っている。  白馬が飼われている神厩舎《しんきゅうしゃ》があり、人参《にんじん》が小皿に盛られて百円で売られていた。かと思うと、白馬の像が鎮座している小屋もあり、歯ぎしり除《よ》け豆、なるものが、やはり百円で売られていた。が、売り子さんなどはいない。  由希靉が、それを見て笑ってから、 「けど……静かですよね。木も鬱蒼《うっそう》としてますし」  しみじみという。 「ええ、奥に行けば行くほど、さらにね」  紅葉はすでに終わっているが、常緑の広葉樹が多いらしく、冬枯れの森といった感じはしない。  ふたりは素木《しらき》の鳥居をくぐった。  砂利が敷かれた参道は狭くなっていき、また石段があって、そして素木の鳥居がある、そんな森の中の参道がしばらくは続くのだ。  竜介は、先にふっておいた話をする。 「昔はね、東の方からお伊勢参りをする場合は、尾張にあった、熱田《あつた》の宮《みや》の渡《わた》しから船に乗って、この桑名の浜に着き、そこからは陸路というのが、ふつうの行き方だったんですね。で……伊勢神宮に対して、ここの多度大社は、北伊勢大神宮とも呼ばれていたんです」 「大神宮だと、伊勢神宮よりも大きくなってしまいますよ」 「……たしかにね」  竜介は笑いながら、 「けど実際に、伊勢神宮の、ほぼ真北の位置にあるんですよ。……鳥居をいくつかくぐってきましたけど、道にあった白い巨大なのも含めて、それらはすべて、神明鳥居《しんめいとりい》と呼ばれる形式で、これも伊勢神宮とおなじなんですね」 「素朴な鳥居ですよね……ほぼ直線で」  前方に立っているそれを見て、由希靉はいった。 「そして、熱田の宮の渡しには、その名前どおり、すぐそばに熱田神宮があるんですが、熱田神宮っていうのは、日本で二番目の神社なんですよ」 「二番目ですか……」 「一番二番っていうのも変な話ですが、熱田神宮にはね、天皇家の三種の神器《じんぎ》のひとつの、草薙剣《くさなぎのつるぎ》が置かれてますから。伊勢神宮には、八咫鏡《やたのかがみ》でしょう。そういった関係でね」 「なるほど……すると一番と二番の神社に、はさまれてあるんですね、ここは」 「ええ、まさにそんな場所にあたるんですよ。お伊勢参りをする人たちは、当然、熱田神宮にも参って、そして桑名の浜に着いたら、ちょっと足を延ばして、ここにも寄っていた。そういった神社だったんですね。もっとも、それは江戸時代の話……」 「あー、だから前にある神社町が……」 「ひなびてしまったわけですね……」  参道をそぞろ歩きしながら、ふたりして、仲良く物語をつむいでいった。  十段ほどの石段の上に、鳥居ではなく、神門が立っていた。銅葺《どうぶき》屋根がのった素木造りの門である。  ——『多度兩宮』。  そんな金字の額が、くぐり口の上にかかげられてある。 「……雨宮ではなくって、両方の両ですよね?」  由希靉が自信なさそうに聞いてくる。 「雨も……あながちって感じですよ。雨の神さまが、いることはいますからね」  竜介は冗談めかしていい、 「実際は、もう奥に見えてますけど、社殿がふたつあって、神さまがふたり祀《まつ》られてるんですね」  神門をくぐると、それまでの参道とはまたちがった、森厳《しんげん》で神妙なる空間がひろがっている。 「うわ……」  由希靉が驚きの声をもらしたっきり、その景観に見惚《みと》れてしまったようだ。  欄干《らんかん》のついた素朴な木の橋がかかっている。  右と左奥に離れて、全体が茶の色調の、飾り気のない社殿がふたつ立っている。  すぐ背後に裏山の崖がせまってきていて、老樹の枝々が、あやしげに天へと手を伸ばしているかのようで、空は七割がたが葉でおおい隠されている。  小川が流れているせいで、あたり全体がしっとりとしていて、愁《うれ》いをおびている。そのせせらぎの音だけが木霊《こだま》しているのである。 「……原始の神社、そんな感じがしませんか? 実際そうなんですけどね」  竜介が意味ありげなことをいって、ふたりは神門の横にあった手水舎《てみずや》で手と口を清めてから、木の橋を渡った。  途中の参道では何人かとすれちがったが、この奥まった場所には、今はふたりしかいない。 「先に、左奥へ行きましょう」  竜介が誘導していった。  社殿は、数段の石段の先に、ごつごつした石積《いしづみ》の土台の上に立っていて、間口《まぐち》が三間ほどの小ぢんまりとした素木造りだ。中央に開口部があるが、白布のすだれが下がっていて、それに木の柵もあり、奥はうかがい知ることはできない。鈴などはなく、石段の手前に小屋根がのった賽銭箱《さいせんばこ》が置かれてあるだけだ。  由希靉は小銭を投げ入れると、二礼二拍手一礼の、きちっとした作法で参拝をする。  竜介は、お付き合いで参拝してから、 「尾沼さん、神社とかによく来られるんですか?」  ……聞いてみる。 「初詣《はつもう》でぐらいですね。けど、こんな原始の神社に来たのは、生まれて初めてですよ」  竜介の言葉を使って、由希靉は答える。 「初詣では、どこに行かれるんですか?」 「決めてはいませんけど、富士吉田にある、だから斎藤先生の実家の近くの、浅間神社が多いですね」 「あっ、山梨だったですもんね」  竜介は、気づいていう。 「浅間神社だらけですよね」 「えー……こちらには、天津彦根命《あまつひこねのみこと》という神さまが祀られています」  竜介は、おごそかに説明する。 「何者かといいますとね、天照大神《あまてらすおおみかみ》が五人の男神を産むんですが、そのひとりです。高天原《たかまがはら》へ降りてきたのは天孫《てんそん》で、つまり、天照大神の孫なわけですよね。長ったらしい名前なので略して、瓊瓊杵尊《ににぎのみこと》といいます。それが神武天皇《じんむてんのう》へとつながっていく、今の天皇家の祖ですよね。その彼からいくと、こちらの天津彦根命は、叔父《おじ》さんにあたります」 「へー、叔父さんなんですね」  かといって、ぴんとこない顔を由希靉はする。 「それに、ここの銅葺屋根は直線的で、凜々《りり》しいでしょう。これは神明造りといって、やはり伊勢神宮とおなじ形式なんですよ」 「そういわれてみれば、くねーと曲がっているような屋根の神社も、けっこう多いですよね」 「あれは流造《ながれづく》りといって、仏教の影響をうけた造りなんです。江戸時代より以前は、神仏習合《しんぶつしゅうごう》だから、お寺がメインで神社はつけたし、もしくは、有名な神社であっても、そばには神宮寺《じんぐうじ》が建っている。それがふつうだったんですが、ここは稀《めず》らしく、神社単独であったそうです。というのもですね、戦国時代に一度、かの織田信長《おだのぶなが》に、ここは完全に燃やされちゃったんですよ」 「あら……」 「やつはマメですからね、こんなところにまで火を放ってるんですよ。当時、彼はキリスト教という一神教にかぶれていたから、他の神々や仏は、いっさい許容できないんですね。その燃やされる以前は、ここにもお寺があったそうです。そして、再建をしたのは、奇《く》しくも、タクシーの運転手が話してましたけど、本多忠勝なんですよ」 「あっ、桑名城の……」 「千姫さんの、義理のおじいさんですよね」  竜介は、運転手から聞いて面白かった話をひとひねりしていい、 「その再建のさいに、彼がどうひらめいたのかは不明ですが、お寺の方は再建しなかったんですね。これはほんとに、稀《まれ》な話だと思います。なので、ここには仏教色がありません。朱などは塗られてなくって、飾りっ気がないのが、本来の神社なんですね。じゃ、もうひとつに行きましょうか……」  右手にあった社殿も、ほぼおなじ大きさで、同様に参拝をすませてから、 「……こちらはですね、天目一箇命《あまのまひとつのみこと》という神さまが祀られています。さっきの、天津彦根命の、子供なんですよ。だから、おなじく天孫です。そして瓊瓊杵尊からいけば、従兄弟《いとこ》にあたります」 「従兄弟ですかあ……」  由希靉は、少し笑いながらいう。 「こちらにも、おなじく白いすだれがかかってますよね。けど、この奥には何もなくって、というより、素通しになっていて、水がちょろちょろ流れ落ちている、そういった岩肌が見えるそうです」 「さっきの方も、奥には何もないんですか?」 「いえ、あちらは扉があって、奥には秘密のご神体《しんたい》なりが仕舞われているそうです。だから、このふたつの社殿は、ちょっと性格が異なるんですね。たとえば、日本で最古の神社は、大神神社《おおみわじんじゃ》ですが、そこは三輪山《みわやま》そのものを、ご神体だとみなしています。そういうのが、神社の原始の形態なんですね」 「すると、こちらも、裏の山がですか?」 「うーん近いんだけど、ちょっとちがっていて、この裏山には、そもそもは竜が住んでいた。そういった伝承がもとになっているんですよ。竜には、水がつきものでしょう。だからこのあたりから……」  竜介は社殿の方を指さしながら、 「竜が、ふわーっと空へと立ち昇っていった。そんな感覚だったと、思います」  由希靉も、空を見上げていってから、 「竜って、たしか雨乞いをするときの神さまでしたよね。だから、雨……」  神門にあった額を思い出して、微笑《ほほえ》んでいう。 「その竜なんですが、大昔に山崩れがあったときに、熊手の先が竜の目にあたって、ひとつ目竜になったという伝承なんですよ。それもあって、こちらの社殿は、一目連《いちもくれん》神社とも呼ばれています」 「目がひとつだったんですか……」  由希靉は、考え深げにいい、 「それは、先生のご研究とも、関係があるんでしょう?」 「ええ、関係は大ありなんだけど、説明は難解なので、時間があるときにでも。……で、竜というのは、仏教的、もしくは道教的なものだから、神道《しんとう》の神に置き換えなきゃなりません。それが、天目一箇命なんですよ。これも目が一箇の神といった意味です。ところが、天目一箇命は、日本書紀のある書《ふみ》に、補足説明のようなところですが、そこにチラッと書かれているぐらいの、マイナーな神さまなんですよ。ここは北伊勢と称されるほどの好立地の場所だから、その天目一箇命だけでは、いわば役不足で、だからビッグネームの、父親の天津彦根命が、一緒に祀られているわけですね。けど、あちらの社殿には、ご神体があるといったでしょう?」 「ええ」 「ということは、この地に直接、天津彦根命が降り立ったわけではなく、そのご神体に、彼の魂なりを憑依《ひょうい》させて、よそから運んできた。そんな意味が隠されていそうですよね?」 「あっ、そう考えるわけですね」 「もっとも、多度大社の神官は、ふたりの神さまが最初からおられました! と断じていわれるでしょうけどね。いずれにせよ、こちらの社殿にはご神体などはないので、神は、最初からこの地にいて、今もなおここにおられます。そんな感覚のはずです」 「なるほど……先生がおっしゃった、原始の神社という意味が、ようやくわかってきましたわ。わたしは景色がそうだからと、思ってたんですけどね」  茶目っ気をだして、由希靉はいう。 「さてさて、ところで……」  竜介は、あらたまった口調でいい、 「この桑名の地には、もともと、桑名|首《おびと》と呼ばれる一族が住んでいたんですよ。だから人名が、イコール地名になってるんですね」 「それは、どのくらい前の話なんですか?」 「文献に出てくるのは、天平《てんぴょう》年間ぐらいですが、つまり奈良時代の前半ですね。けど、もう神代《かみよ》の時代からだと考えても、さしつかえありません」 「神代の時代からですかあ……」  由希靉は、想像できないといった顔をする。 「平安初期に古代氏族の系譜《けいふ》をまとめた『新撰姓氏録《しんせんしょうじろく》』や、および『古語拾遺《こごしゅうい》』などによると、桑名首は、天津彦根命の御子の、天目一箇命が祖であると記されています。まさに! ここのことですよ」  竜介は、社殿を指さしていい、 「だから、この近辺に住んでいる桑名さんは、そういった神の系譜なんですね」 「えー……?」  由希靉は、ひとしきり驚いてから、 「すると、おおもとをたどっていくと、もう天皇家とご親戚じゃありませんか。叔父さんや従兄弟の関係なんですから」 「まあ、たしかにそうもなってしまいますが。なので、病院におられるK・Yさんも、そのような日本古来の神々が関与している、由緒正しき血筋。それを理解していただこうと思って、この多度大社に先に寄ったわけですよ」 「うーん……」  由希靉は可愛らしく腕組みをして、思案をめぐらせている。けど、だからといって、彼女にしてみれば、何かの謎が解けるわけではないのだ。  ふたりは足早に参道を下って、お多度さんというある種の御伽噺のような世界から抜け出して、待たせていたタクシーに乗った。 「もうもどってこないかと思ってましたよ」  運転手からは厭味《いやみ》をいわれたが、 「すいません。じゃ、多度町の……」  由希靉が、紙切れを見ながら所番地を告げた。  つぎに向かうは、そのK・Yさんの実家である。 「それはちょっと山ん中ですね、そう時間はかかりませんけど……」  運転手は車を発進させた。  山間《やまあい》の道に入って十分ほど走ると、のろのろと停車しながら、 「……このあたりだと思うんですけどね」  運転手は自信なさそうにいった。  そのあたりはもう本当に山の中で、数百メーターに一軒の割合ぐらいでしか、民家はない。  絶対に待っててくれるようにと念を押してから、ふたりはタクシーから降りた。 「あのお家《うち》でしょうかね?」  とりあえず近くに見えるそれを指さして、竜介はいう。  タクシーが走って来た道はかろうじて舗装《ほそう》されてあったが、その豪農《ごうのう》ふうの民家は、脇道にそれて、がらがら道を五十メーターほど行った先にある。 「行ってみましょう。ちがってたら聞けばいいんだし」  元気に由希靉はいう。  が、彼女はヒールの細高いブーツをはいているので、がらがら道はいかにも歩きづらそうである。  それに、その家に近づいて行くと、  ——わんわんわんわんわーん!  犬がけたたましく吠え出した。 「あらー……」  由希靉が鼻にかかった声で、 「わたし、犬は苦手なんですよ。猫派なんですよ」  そんな泣き言をいいながら、竜介の背中に隠れるようにして歩いて行く。  ふたりが着く前に、家から人が出てきた。黒いジャンパーをはおっているが、中年のご婦人である。それに、犬は鎖でつながれているようで、こちらに飛び出してくる気配はない。 「すいません」  まだ少し遠いが、竜介が会釈《えしゃく》しながら声をかけて、 「失礼ですが、こちらは桑名さんのお宅ですか?」  由希靉が問いかける。  婦人は、ええええ、と顔でうなずいている。 「では、桑名|裕也《ゆうや》さんのお宅でございますね?」 「ええ、そうですけど」  婦人は声に出していった。  ——桑名裕也。  それがK・Yの本名であるらしいことを、竜介は今初めて知った。 「突然お訪ねしちゃってすいません。わたし、尾沼病院の、尾沼という者なんです」  由希靉は頭を下げてから、自己紹介をしていう。  婦人は、門の裏あたりにいるらしい犬に向かって、しー! とひと声叱ってから、 「ごめんなさい。犬がうるさくて聞こえなくって」 「あのう、わたくし、尾沼記念病院の医師で、担当医をさせていただいております、尾沼といいます。近くに来たものですから、ご挨拶《あいさつ》をかねまして」  由希靉は、あらためて丁寧にいった。 「あらー、いわゆる女医さんなんですね、そんなにお若くって。で、どういったご用なんですか?」  婦人は朗らかにいうが、話は通じていそうにない。 「えー……」  由希靉としては、そのご婦人に委細を話していいものかどうか判断がつかないので、 「桑名|行成《ゆきなり》さんは、今、お家にはおられませんでしょうか?」  知っている人の名前を出した。 「あ、うちの旦那はね、市内の方に出ちゃってるんですよ。けど、あなたみたいな奇麗《きれい》なお嬢さんが、うちの夫《ひと》と、どこで知り合いになったのかしら?」  婦人は、嫉妬《しっと》めかしていう。 「いえ、三ヵ月前に、わたしどもの病院に転院して来られたさい、一度だけお会いしたんですけれど」 「え!? うちの夫、どこか体の具合が悪いんですか? わたしに内緒で、病院にかよってるんですか?」  婦人は真顔になって、心配していう。  が、かみ合わない話である。 「いえ、そうじゃありませんでして、息子さんの、裕也さんのことですけれど」 「何おっしゃるんですか! 裕也は、それこそピンシャンとしてて、どっこも悪くなんてありませんよ。それとも、大阪で事故にでも遭《あ》ったんですか?」 「……大阪? といいますと?」  話は、ますます混沌《こんとん》としてくるが。 「裕也は大阪の大学に行ってて、あちらでアパート住まいをしてるんですが、その裕也に、何か?」  婦人は怪訝《けげん》そうな顔で、詰問《きつもん》していう。 「えー……?」  由希靉が当惑顔で竜介の方を見るので、 「えーと、この近辺に、桑名さんというお名前のお家は、ほかにもあるんですか?」  解決策を模索《もさく》して、竜介は聞いてみる。 「ええ、隣も桑名さんだし、この近くだけでも、五、六軒はありますよ」 「……まちがったのかしらー」  由希靉が小声でうめいている。 「だけど、夫が桑名行成で、息子が裕也は、わたしどもの家以外にはありませんよ!」  婦人は断固としていう。 「じゃあですね、あのう……車椅子に乗ってた桑名さんは?」  竜介が小声で由希靉にうながしていった。 「あ、そうそう、桑名……うろ覚えなんですけれど、竜がつくお名前の桑名さんで、車椅子に乗っておられるご老人は、ご親戚の方におられませんでしょうか?」  そう由希靉がたずねると、 「はい」  婦人は、急にあらたまった態度で、 「それは、ご本家の桑名さまではありませんでしょうか? お名前に竜が入っておられるのでしたら。ですが、わたしどもは分家のまた分家ですから、そのようなご本家の桑名さまを、親戚だなどとはとてもいえませんですし、それにお話をしたことすらも、ございませんのですよ」  馬鹿ていねいな言葉が返ってきた。  ……親戚、親戚、その点だけでは話がかみ合ったようでもあったが。 「やー、どこかで根本的な勘違いがあったようで」  竜介は、大袈裟《おおげさ》に頭をかきながらいい、 「変なこといっちゃってすいませんでした。旦那さまも息子さんも、いたって元気で、病院とは何の関係もありませんから、ご安心なさって下さい。それじゃ、失礼いたしました」  ——強引に手仕舞いをするや、なかば唖然としている由希靉の袖をひっぱるようにして、来たがらがら道をさっさと帰って行く。 「えー、先生、どういったことなんですか?」  由希靉が駄々《だだ》をこねるようにいう。 「それは、こっちが聞きたい——」  竜介はすごんでいってから、 「あのさ、病院での本人確認っていうのは、何をもってしてやるの?」 「それは……健康保険証がふつうですけど」 「じゃ、それがふつうじゃなかったんでしょうね」  別の意味で、竜介はいう。 「すると、さっきの桑名さん家《ち》の、他人のそれを使って、入院してたわけですね。それも尾沼病院《わたしんち》だけじゃなく、名古屋の病院を初めとして、ずーっと」  由希靉は、ふてくされぎみにいう。 「としか考えられませんよね。そのことは、夫は知っていたが、妻は知らなかった。いや、夫も……尾沼さんが会った人も、別人かもしれません。もうどっちでもいい話ですが」  竜介は苦笑しながらいう。 「けど、先生は、先方を訪ねることを、事前に電話を入れない方がいいっていわれたでしょう。あれは、こんなことになるって予期されてたんですか?」 「まさか、あれはいったとおりの意味で、わざわざ東京から出向くといったら、かまえられちゃうでしょう。だからついでを装った気さくな雰囲気なら、ぽろっと話が聞けるんじゃないかと思って……」  実際、別人だなどとは、竜介は考えも及ばなかったことである。 「ですけど、大きな謎がひとつ増えちゃいましたですよね。あの神さまK・Yさんは、いったいどこの誰なんですか?」 「さあ……」 [#改ページ]  15  代々木上原の斎藤邸に、主人《あるじ》の斎藤が、水野に警護をされながら、そして客人をともなって帰ってきたのは、午前の十一時ごろであった。  客人は三十歳ぐらいのすらりとした女性で、端正な顔立ちの美人である。が、顔色がやや青ざめていて、それに旅の疲れもあってか、妻の静香とお手伝いの杉村に、斎藤が簡単に紹介した後、休むといって、一階の和室にこもったきりである。  ——名前は、ヒメノサヤコ。  どんな漢字かは斎藤がいわなかったから不明で、誰の関係者なのかも教えずに、しばらくは我が家に泊まるから、との一方的な話であった。  杉村が和室に布団を出したり、静香は、彼女の着替えなどを見繕《みつくろ》ったりして、かいがいしく世話を焼いた。夫にそれ以上のことは聞こうとはせず、イヤな顔ひとつせずに……。  斎藤は、家に帰ってはきたものの、国会に出向く様子はなく、さりげなく水野を誘うと、縁側のところからサンダルをつっかけて庭へと出ていき、そして石灯籠《いしどうろう》の近くまで先導して歩いてから、 「ごめんね水野さん。何も話さなくって」  ——頭を下げていった。 「いや、わけありなことぐらいは、重々わかってたから」  水野は、万事承知で、気にもしていなかったふうにいう。 「いやね、親父からようやく連絡があって、水野さんには委細を話してもいいと、そんな回答をもらったから、だから話せるわけさ。けど、家の中では、ちょっとまずいんで」 「え? どうして?」 「……盗聴器があるかもしれないから」  斎藤は、抑揚のない声でいう。 「なにを物騒な。国会議員の家にか?」 「いや実際、山梨の家にはあったんだからさ。もう燃えちゃって跡形もないだろうけど。うちの親父は電気いじりが趣味で、盗聴器を見つける機械とかを自分で買ってきて、家をくまなく調べたらしいのね。そして見つけたってわけよ」 「ッ、なんてことだ——」  舌打ちしてから、水野はいう。 「それは警察にいったの?」 「いや、いってない。というより、いえない。それは単なる盗聴器じゃなく、物語の核心なので」  斎藤は、意味深《いみしん》なことをいってから、 「もっとも、これからする話は、その盗聴器のことも含めて、すべて親父のうけ売りで、裏をとってる話じゃないからね、そのへん考えながら聞いてね」  さらに念を押してから、 「まずさ、意識不明の重体だからと慌てて飛んでった初日、そして翌日も、おれひとりだけでずーっと病室にこもってたろう。親父の看病をしてるもんだと、ふつう思うよな。そこからしてちがうんだわ。この種の話を延々聞かされてたのよ。重体だなんてことは大嘘《おおうそ》で、かすり傷ひとつ負ってないんだから。ともかくも、おもてに見えていたことは、すべて大嘘。真実は何ひとつとしてないのね」 「ええー、おれをからかってるのか?」  水野は不快そうにいう。 「いや、ごめんね。おれもおなじよーに、親父にからかわれていたわけなのよ」  斎藤は、情けない声でいってから、 「要するに、すべて芝居で、親父がうった一世一代の大芝居だと、みずからいってた。で、そんな芝居をうつはめになった、そもそもの原因はというと、親父が、とある特別な神さんを信じているから、だそうなのね。ところで、水野さん家《ち》の大師範も、何か、みょーな神さんを信じてるって話、聞いたことない? アマノメの神っていうそうなんだけど?」  うかがうような目つきで、たずねる。 「あー、何となくは知ってるな」 「やっぱり」  斎藤は、肩の荷をおろしたようで、 「おなじく、おれも何となくぐらいは知ってたんだけど、神さんなんて興味ないからさ」 「たしか……森羅万象《しんらばんしょう》をことごとく見とおすことのできる神。そんな、ご大層なこといってたな、うちの大師範が」 「そうそう、そんな感じよ。だから斎藤家も水野家も、おなじ神さんを信じてる、氏子《うじこ》だったわけね。ところが、その氏子が、最近、二派に分裂しちゃったらしいのよ。だから誰がどっちかわからないんで、確認に手間どって、そして幸いにも、水野さん家《ち》は味方だったわけね」 「けど、そんなこといわれたって、それは爺《じ》っさん連中の話だろう。自分らに何の関係があるんだ?」 「うん! もっともな話よな!」  ふたりは意見の同意をみてから、 「でさ、なぜ今までに、その神さんのことをきちんと説明しなかったのか聞くと、けど、おまえにいっても信じないだろう、て親父はいうわけ」 「うん、おれも信じないな」  水野も、顔をふっていう。 「けど、その神さんに直《じか》に会えば、おまえも絶対に信じるはずだ! そう断固いいはるのね。だったら、会わせればいいじゃないか、て話になるよな。けど、それができなかったらしいのね。というのも、アマノメの神は要するに人間だから、いつかは死ぬのね。で、何でも、先代のアマノメが、十数年前に、突然の事故で死んで、継《つ》ぐべき人間がまだ幼くて、アマノメの神は降りず、つまり、お隠れになっちゃったままで、だから会えるチャンスがなく、ずるずるときてしまって今に至っている……らしいのね。だから自分らの代が知らないのは、仕方ない話なのよ」 「なるほど。いちおう筋はとおってるな」  水野は、その言葉どおり、いちおう話を信じる。 「でさ、その継ぐべき子供なんだけど、わけありで、神さんとしては、ちょっと使えないらしいのね」 「それは、どんなわけあり?」 「それは聞いても、親父は黙《だんま》りなのよ。けど、その子供を囲ってるグループと、そうでないのに、氏子は二派に分かれてるわけね。もちろん、親父は子供側なわけ。ところが、別ルートのひょんな話から、その子供がどこにいるのかを、おれは知ってるんだ。今、精神病院に入ってるのよ」 「なっ、なんと……」  水野は驚いて、眉間《みけん》にしわを寄せた。 「その病院の経営者は親父の知り合いで、すごく親しいのね。だから親父が仲介したんだと思う。もっとも、黙ってんだから、おれが知ってることはいわなかったけど。話したくない親父の気持ちもわかる、その子供が、いわば最後の砦《とりで》だから」 「だけど、その子供は、神さんとしては使えないんだろう? どうするの?」 「うん、物語はそこから始まるのよ。たとえ、その子供はダメでも、神の血筋というものがあるから、さらに、その子供を作ってしまおう、そう考えたわけね」 「けど、さらに十年二十年かかっちゃうじゃないか。そんな気の長い」 「おれもまったくおなじこといったんだけど、親父いわく、うちはアマノメの氏子を千年以上やってんだから、十年二十年待つぐらい、軽いもんだって」  笑いながら、斎藤はいった。  水野も苦笑しながら、 「我が家もそうなのか……」 「氏子は、どこも古いんだって。氏子の一番新参者ですら、江戸時代からだそうよ。ちなみに、こんなの例に引くのはあれだけど、うちの妻《かみ》さんは、西園寺家の娘さんなのね。西園寺家は鎌倉時代の公家《くげ》の筆頭だけど、その時点で、やはりアマノメの氏子で、さらに溯《さかのぼ》れば藤原《ふじわら》なんだけど、そのころからのね。もちろん、おれは初めて知ったんだけど」 「ちなみに、ずばり聞くが、その西園寺家はどっち側なの?」 「あっ、それは微妙らしくって、西園寺家は、アマノメの氏子の中でも筆頭格らしいのね。アマノメの神の血筋を輩出《はいしゅつ》するような家柄でもあるらしく、けど、今はどっちにもつかずに、鳴りをひそめてるって、親父はいってた」 「そういうことは、奥さんは知らない?」 「うん、ぼくらがそうであったように、まず知らないと思う。だから、悪いんだけど、彼女には話せないのね。漏れるといったことじゃなく、巻き込みたくないから」  斎藤は、本心、そう思っていった。 「で、その子供の子供を作るって話だけど?」  水野は先をうながしていう。 「うん、その計画の中心になっていた氏子は、浜田さんといって、玩具メーカーの社長さんだった人ね。その彼が、子供を産んでくれるにふさわしい女性を選んで、もっとも、その女性の実家も、アマノメの氏子なんだけどね。そして、ご懐妊《かいにん》となったわけよ。それが三ヵ月ほど前の話ね。ところが、その先、きな臭い話になってくるのよ——」 「きな臭い?」 「うん、まわりで奇妙な、というより悲惨な事件がおこり始めるのね。まず二ヵ月ほど前に、その女性のお姉さんが亡くなるんだ。これは警察発表は自殺なんだけど、多分に、あやしいのね。そうこうしていたら、その浜田さん本人が殺されたわけさ」 「ええー?」 「これは明らかに殺人事件。なんだけど、外国人の押し込み強盗の手口なのね。だから敵が何者なのか、正体がつかめないのよ。かといって、偶然の蛮行《ばんこう》だとも思えないだろう。そのとき、その女性は別の家にいて、難は逃れたんだけどね。そこで、親父は考えた。親父も、そのご懐妊計画に最初から加担《かたん》してた氏子のひとりね。そして秋葉原に飛んでって、例の機械を買って、家ん中を探しまくったら——」 「ッ、それで見つけたわけか」  水野は、経緯《いきさつ》を理解して、舌打ちしていった。 「業者などには頼まず、自分でやる、それが親父の賢いところね。その盗聴器なんだけど、親父が趣味にしているステレオ装置の、古い木製のスピーカーの、ボックスの内側についてたのね」 「そんなややっこしいところに? それは一、二分ではつけられないじゃない」 「そうなのよ。家に自由に出入りできる人間が犯人である可能性大。さらに驚くべきことに、その盗聴器からは別の線が出ていて……スピーカーの中には、クッション材みたいなのが入ってるらしいのね。そこに導かれてて、発火装置がついてたわけよ」 「なっ——」  水野はしばし絶句してから、 「それなら、火事は放火だったわけか!? 」  といってから、 「ちょっと待て! それをお父さんはご存じだったんだろう?」 「もちろん、自分で見つけてんだから」 「じゃあ何か、放火されるのがわかってて、それを見すごしたわけか?」 「いや、見すごしたんじゃなくて、逆手《さかて》にとったの。それが、親父がいうところの大芝居さ」 「ええー、自分の家が燃やされることを、知っててまで?」 「そういうこと。親父はとことんやる人間だから。それに家はボロで、どのみち建てなおす予定だったし。それに燃やしちゃいけないものは、ちゃんと蔵《くら》にしまってて、そのへんは抜け目ないさ」 「けれど! その守るべき女性は、けっきょく亡くなってるじゃないか!」 「いや、生きてるよ。うちに連れてきた女性が、その彼女なんだから」 「…………」 「車での移動の途中、気分が悪いって何度か降りたでしょう。あれはつわりなのね」 「…………」 「だから、再度、ごめんね。見えていることに、何ひとつ真実はないの」 「……嘘にも、芝居にも、限度ってもんがあるぞ」  水野は、憤懣《ふんまん》やる方ない形相《ぎょうそう》でいった。 「おれもまったくの同感。親父に、まったくおなじことをいった」 「うーん? けどさ……」  水野は、頭の中を切り替えたようで、 「だったら、その死んだ人は、いったい誰なの?」  つぎの疑問を提示する。 「いや、誰も死んでない。そもそもあの斎藤病院は、親父の弟がやってる病院で、弟もアマノメの氏子で、つまりグルなわけさ」 「…………」 「具体的にどうごまかしたのかは、おれは知らないけど、身代わりの死体までは、作ってないと思う。警察の方にも、氏子はいるようだから」 「…………」 「その特殊な盗聴器を見つけた時点で、親父が関係者を集めて、策を練ったみたい。どうやったら敵の裏をかけるかとね。それにはもう、世間そのものをだまくらかすにかぎる。親父の考えそうなことよ。政治家を長々とやってたから、そっちの方面には、知恵がはたらくのね」 「……ッ、さすがというべきか、もう驚くべき話だよな。無茶苦茶の」  水野は、あきれかえっていう。 「そう、もうほんとに無茶苦茶な話さ」  斎藤も、力なくうなだれていってから、 「けど、病院に運ばれる身代わりの女性は、たてたみたい。背格好が似た女性をね。そして、本人の声を盗聴器に聞かせて、今日はここに泊まるね……と、その彼女は別のところに逃がして、親父と、その身代わりとで、応接間でじーっと見張ってて、そしたら案の定、スピーカーからぶすぶす煙が出てきたんで、ころあいを見計らって、庭に出て倒れている。そんな猿芝居を演《や》ったんだと、おれは想像する」 「ふむ……」  水野は少し笑ってから、 「えーと、ちょっと気になったんだけど、その敵対している氏子の側は、それほどまでに凶悪なの?」  真顔になって、たずねる。 「いや、それがわからないんだわ。親父がいうには、アマノメの氏子たちは、みんな錚々たる家柄で、うちは下《した》っ端《ぱ》だというぐらいにね。それに千年以上も、ずーっと仲良くやってきて……それこそアマノメさまのおかげで、どの家も潤《うるお》って……だから、たとえ二派に分かれても、そう突然凶暴になって牙《きば》を剥くなんて、考えられないって親父はいうのね」 「けど、凶暴な敵がいることは、事実だろう?」 「うん、それはそうなんだ……」  斎藤は深刻な表情で、 「敵の総大将の氏子は、わかってるのよ。大炊御門という名前だけど、聞いたことないかな?」 「いや、ちょっとわからないな」 「うん、世間一般には知られてないからね。永田町《ながたちょう》界隈では有名人だけど、土建や不動産関係の大ボスで、いわゆる黒幕のひとりさ。で、氏子たちの上に、宗家《そうけ》のような一族がいるのね。そこがアマノメの神を直接囲ってるんだけど、その宗家を、今や大炊御門がのっとってるような状況なんだって。つまり、その大炊御門の血筋にあたる神さんを、最近、強引にたてちゃったらしいのね。だから宗家も分裂して、少数だけど、こっち側の人もいるそうだ。そんなわけで、大炊御門が敵であることは間違いないの。けれど、いかに黒幕とはいっても、それは政財界の話であって、犯罪組織《マフィア》のボスって雰囲気ではないんだ。だから、よくわからないのね……」 「ふーん、それにしても、えらい話に巻き込まれてるよな。おれたちは」  水野も、我が家《いえ》のこととして考え始めていった。 「それと、夕刊紙《タブロイド》に載ってたような記事も、だからぜんぶ嘘ね」 「おれはほとんど読んでないけど」  水野は、実際にそうだったようだが。 「たとえば、親父の愛人の話も、氏子の娘さんが東京に出てきて芸能活動をやるからと、挨拶があって、それで何度か一緒にメシを食いにいった程度……だそうよ。それは浜田さんも似たようなものだったらしい。けれど、釈明はいっさいできないのね」 「そりゃそうだな。これだけ複雑怪奇な裏があると。それに、彼女は死んでないんだから……」  そうはいったものの、水野の頭の中では、一抹《いちまつ》の不安が頭をもたげ始めてもいた。  はたして、これで思惑《おもわく》どおりに、その正体すらもわからないような敵の裏を、まんまとかけているのだろうか——? 「だから、あの彼女を守りとおして、産まれてくる子供をアマノメの神として擁立《ようりつ》できれば、うちが宗家になれる。親父は、そんな野望までいだいてるわけよ」 「自分の家を燃やしてまでか? そこまでする価値があるの?」 「……あるみたいだね。あの病院にいる子供だって、そこは腐っても鯛《たい》。神の片鱗《へんりん》はあらわすんだな」 「片鱗……?」  斎藤は、それについては水野に語らなかった。  まさに今、それは我が身にふりかかっている事態であり、  ——森羅万象のことごとくを見とおせる神。  それを額面どおりに信じるならば、自身の命運はすでに尽きたも同然だからである。  そんな馬鹿な!  誰しもがそう思うはずだろう。  けど、父親は、こんなことまでもいったのだ。  ——もしアマノメの御神《おんかみ》さまがお隠れになっていなければ、母親の病死も、そして父親の病気すらも、事前に警告なりが発せられていたはずで、事なきをえていたに違いなかったろう。  それほどまでに父親が心酔しきっているアマノメから、こともあろうに、斎藤自身には、最後通告がつきつけられているのである。  もうまったく理解しがたい話だ!  それを防ぐ手立てや敵を教えてくれるのが本来の神であるはずなのに、病院にいる彼は、まるで役立たずではないか!  だが、料亭で聞かされた話を思いおこすに、姉の小田切美子や、そして浜田社長の死を予言したのは事実らしく、実際、そのとおりに事は運んだ。  つぎなる予言は——自分なのである。  それはどう悪あがきしたところで変えられない。避けられない、運命の歯車だとでもいうのか?  斎藤は、どこかから悪魔にでも凝視《みつ》められている気がして、身がすくんだ。  今日の東京の空は雲ひとつなく真っ青であった。  ぽかぽかと心地よい陽の光が、この古ぼけた庭にも降りそそいでいる。  だが、ぞくぞくと寒気が襲ってきた。 「水野さん……」  斎藤は、何かいっておこうかと思ったが、 「うん?」 「いや……」  ふさわしい言葉が、浮かんではこなかった。 [#改ページ]  16  庭で話し込んでいる斎藤と水野を、縁側の古びたガラス戸ごしに、神鷹が凝視《みつ》めていた。  いわば運命の歯車のもう片輪であろうか。  神鷹は、ことのほか冷静のようであった。少なくとも自身はそう感じている。それに、今ここに在る自分が何をなすべきかは、すでに決まっていた。  ……殺せ!       ……息の根を止めろ!   ……ふたりを殺せ!  心の声が、彼にそう叫びつづけていたからだ。  神鷹は、ある側面においては、常人を超越した異様に鋭くとがった感性で、物事を見ていた。  客人・ヒメノサヤコの紹介が家人にあったさいには、戸口付近でその様子をうかがっていた神鷹は、静香の顔に一瞬だけ浮かんだ訝《いぶか》しげな表情を見逃しはしなかった。  それに、ヒメノサヤコの着替えの服などをたずさえた静香と廊下ですれちがった神鷹は、彼女が泣いているようにすら見えたのだった。  ……マリアさまを泣かせるなんて! 神鷹としては断じて許せなかった。  だから、斎藤らが庭でどんな相談事をしているのかも、神鷹なりに想像できた。  それはマリアさまを亡きものにする密談にちがいなく、だから庭などに出てこそこそと話し合いをし、そしてマリアさまの代わりに、あの女をこの家に住まわせる考えだなと、神鷹は容易に結論づけた。  ……殺せ!       ……息の根を止めろ!   ……ふたりを殺せ!  けど、人殺しなんて、教会の小僧さん生活をしていた神鷹にとっては、それこそ神の教えに背《そむ》くというものだ。が、相手が悪魔ならば話は別だ。マリアさまを泣かせるなんて、悪魔に決まっていたからだ。  ……殺せ!       ……息の根を止めろ!   ……ふたりの悪魔を殺せ!  けど、水野師範との対決は避けなければならない。神鷹が勝てる相手ではないからだ。だから水野師範の目をかいくぐって実行に移せるチャンスを、神鷹は虎視眈々《こしたんたん》とねらっていた。  が、神鷹の思考は、ある側面においては、常人が想像もつかないほどに混乱の極みにあった。  彼は、悪魔退治をなしとげた後は、庭に出て、すみっこにあるはずの洞窟《どうくつ》に隠れるつもりだった。そこならば、誰にも見つかるまいと思ったからだ。  それに、その後もマリアさまを陰から見守りつづけることができ、いざというときには助けに飛び出して行ける、そんなふうにも考えたからだ。  神鷹は、別のことも思い出していた。  洞窟には、お寺から持ち出した、この世とあの世とをつなぐカギ……が置かれてあったことを。  神鷹は、お寺の火事の後も、洞窟には何度か足を運んでいたのだ。火事から一週間ほど後に行ったのが最初だったろうか。すると、火事の前日そのままに、石の祭壇の上に、黒い大箱の前に、その小さな木箱は置かれてあった。そのままに放置しておくと自身の悪行《あくぎょう》がバレてしまいそうにも思った神鷹は、それを、洞窟の秘密の場所に隠したのだ。だから、今もそこに置かれているはずだった。  ——この世とあの世とをつなぐカギ。  その使い途《みち》が、神鷹にはわかったような気がした。そのカギを使えば、あの世という別世界に行ける。そして別の自分に生まれ変われる。そんな茫漠《ぼうばく》とした希望が、彼のこころをとらえてもいた。  神鷹は、変でいるときの今の自分は、断じて嫌いだった。頭は狂っていようとも、真実のかけら、ぐらいは、こころの奥底にまだ残ってはいるのだ……。 [#改ページ]  17  ——そのころ。  竜介と由希靉は、町役場に来ていた。  桑名裕也とは何者で、今どこにいるのか、その種の戸籍《こせき》や住民票に関するような簡単なことを教えてもらおうと思ってのことだが、そして、健康保険証を偽って使われていることを尾沼記念病院の医師である尾沼由希靉みずからが役場の担当者に説明もしたのだが、だったら、公文書偽造・同行使だから一度警察をとおしてからにして下さいと、話を聞き入れてもらえずにいた。  竜介は、警察を介するのは賛成しかねた。  神さまK・Yは、たしかに法には触れているだろうが、悪事のためにやっていそうには思えず、むしろ逆で、他人を装って身を隠さざるをえない、転院をくり返してきたことからいってもそうだろうが、よんどころのない事情がありそうなことぐらいは、にわか探偵にだって推理できる。それを警察沙汰にしてしまったりすると、非・正義の味方になってしまう可能性大だ。  由希靉も竜介のそんな考えに同意で、役場の人を相手に、その種の押し問答をしばらくやっていると、少し離れたガラス窓ぎわで、日向《ひなた》ぼっこをかねて将棋《しょうぎ》をさしているらしい老人連のひとりが、こちらに手招きの合図を送っているのが見えた。  役場への嘆願はラチがあきそうにないし、それに間もなく正午で昼休みに入ることもあって打ち切り、竜介と由希靉は、そちらに行ってみた。 「あなたたち、桑名さんがどうのとか、いってたよね?」  手招きした老人が、気さくに話しかけてくる。 「ええ、ちょっとばかし、聞きたいことがありましてね」  竜介も親しみをこめた声で、馴《な》れ馴《な》れしくいう。 「だけど、それは最初から無理だわさ。この役場のすみっこにだって、桑名さんはひとりいるからね」  そちらには顔は向けずに老人はいい、 「それで、いったい何のことが聞きたいの? 自分らでわかる範囲だったら、なあ」  将棋の相手の老人にも、うながしていう。 「じゃ、お言葉に甘えて、えー……桑名裕也さんという男性についてなんですが、二十一歳で、家は」  所番地については由希靉が話した。 「あー、そこまではわかんないわ。桑名という名前の人は、このへんにはたくさんいるからね。それにそんな山ん中までは知らないな」  さも自分は都会人であるかのように老人はいう。 「じゃあ、あの事故のことは?」  竜介は、由希靉にうながしていう。 「そうそう」  彼女もそれが近道だと察して、 「今から二年ほど前なんですが、桑名さんに関係する若い男性が、交通事故に遭われてるんですよ。かなりの事故だったと思われるんですけど、何か思いあたるような事故は、ありませんでしょうか?」 「えっ? 二年前——」  老人は驚いた顔で、 「っていうと、あの事故のことか?」 「あれぐらいしか思いつかないよな」  ふたりして、深刻そうに顔を見合わせていった。 「あれ……と申しますと?」  由希靉がたずねる。 「いやさ、これはこのへんの人はみんな知ってるから、話しても差《さ》し障《さわ》りはないだろうけど、ちょっと悲惨な事故だったのよ。その事故で、桑名の分家筋の、分家の筆頭格のお家があって、そこのご長男さんが亡くなってるのね」  老人は、さすがに声をひそめていう。 「それは……どういった方で? どんな事故で?」  竜介がたずねる。 「それは桑名|政嗣《まさつぐ》さんといってね、まだ二十代のなかば、ちょうど二十五ぐらいだったかな。もう絵に描いたような好青年でね、このへんの若い娘たちが、みんな憧《あこが》れとったぐらいの……」  そんな、ありし日の面影《おもかげ》を思い出してか、老人はしみじみという。 「あれは国道だったよな。ちょい行って、岐阜県に入ったところの」  もうひとりの老人がいった。 「そうよ、大型トラックが突っ込んできての、正面衝突だったもんな。あれは避けようがないさ、真っすぐの道なんだから。そのとき車を運転していたのが、たぶん桑名政嗣さんね」  うん? たぶん、とはあやふやな話だなと竜介は感じもしたが、 「その車には、ほかに誰が乗ってたんですか?」  本筋のことを聞く。 「うーん、そうなってくると、ちょっとよくわかんないんだわ」  老人は、くねくねと首をかしげる。 「あのう、車椅子に乗っておられる、笑顔がとってもニコやかな白髪のご老人で、名前に竜がつく桑名さんなんですが、そのご老人は、車に乗っておられたようですか?」  由希靉がたずねた。 「あーあー、顔はなんとなく浮かぶ。どっちにしても、本家筋の人だよな。たしか当時も、本家の誰かが乗ってたんじゃないかって、噂は出たよね。けど、その彼は、車椅子なんかに乗ってるの?」 「ええ、ここ一、二ヵ月の話ですけれども」 「へー、じゃ別人かもしれないな。自分が知ってんのは、矍鑠《かくしゃく》とした老人だけどね。高い山でも平気で登っちゃいそうな」 「……最近顔は見ないな。事故の後は、おれは見てないぞ」  もうひとりの老人がいった。 「ふーん、だったら、そうかもしれないな。あの事故のせいで、車椅子になったのかもね……」 「ほかに、若い人が乗っていたという話はありませんか?」  竜介がたずねる。 「いや、それ以上はわかんないね」 「あの事故は、テレビニュースではやらなかったからな」 「新聞にだって載らなかったさ。一行も」  老人は、悪態をついていった。 「ええ? そんな大事故なのにですか?」  竜介が聞く。 「それはさ、桑名の本家が止めちゃったのよ。そういったことができるお家なんで。だから自分らが話してるのは、噂話を集めてきたようなもんね。でも事故の現場は大勢が見てるし、お葬式もあったことだから、ほとんどは間違いない話だけど」 「事故した大型トラックは、盗難車だったって噂だろ?」 「うん、そうもいってたね。それに乗ってたやつは、現場からトンずらこいて、けっきょく誰だかわかんないって話もあったよな。あんな直線道路で、それも真っ昼間に反対車線に突っ込んでくるなんて、ふつう考えられないから、誰かをねらった殺人だったんじゃないかって、そんな噂も出たよね」  ——誰かをねらった殺人!?  竜介は、その言葉には大いにひっかかったが、 「その……桑名の本家というのは、どんなお仕事をなさってるんですか?」  別の聞きたかったことをたずねる。 「あー、それはね」  老人はニヤついた笑いをしながら、 「このへんの人たちはみんな知ってるけど、黙ってる。いわば公然の秘密ってやつで……」 「しゃべると、祟《たた》られるぞ」 「馬鹿いうなよ。自分は何ひとつとして恩恵をこうむってないんだから、祟るとこだけ祟られてたまるかよ!」  老人は、もうひとりに管《くだ》を巻いていってから、 「桑名の本家さんはね、代々、生き神さまを奉《たてまつ》ってるお家なのよ」 「生き神さま……?」  由希靉が不思議そうな顔でいう。 「要するに人間さ。なんだけど神さま。そういったのを桑名の本家さんは、言葉は悪いけど、自分ん家《ち》に囲ってるわけね」 「……そうだったんですか」  由希靉は、事の真相に気づいた顔で、竜介の方を見る。 「けどね、その生き神さんは、自分らの願い事をかなえてくれるような、下々《しもじも》の神さんじゃないのよ。もうすっごいお金持ちとか、政治家とか、そういったのしか相手にされないのね」 「その生き神さんは、いつごろからおられるんですか?」  竜介がたずねる。 「そりゃあもう、お多度さんとおなじだわな」 「お多度さんと?」  由希靉が、驚いた声でいう。 「もちろん、ひとりが何千年も生きてるわけじゃないよ。生き神さんだから寿命があって、代替わりしていくのね。お多度さんには、行ってみた?」 「ええ、さきほど」 「あそこはいいとこだったでしょう。まさに、神さまの住まいにふさわしいよね。そんなお多度さんにおられる神さまが、ふっと人間に降りる、それが桑名の本家にいる生き神さんだと、そんなふうに、自分らは思ってんだけどね。まあ、いいように考えてやればの話だが」  ——ニッ、と黄ばんだ歯を老人は見せる。 「多度大社には社殿がふたつあって、神さまがふたりおられますけど、そのふっと人間に降りるのは、どちらの神さまなんですか?」 「おっ、若いの、いいとこついてくるよなあ」  老人は、さらに笑顔になっていい、 「けどさ、それはもう問うた時点で、あなたは知ってるだろう? 念のために聞いただけのことよな。だから、ご想像におまかせしますよ」  竜介は、丁重にうなずいた。 「そうそう、その生き神さんの話だけどよ」  もうひとりの老人がいう。 「最近、妙な噂を耳にしたんだわ。生き神さんが、女神《おんながみ》になってるていうんだ」 「まさか、あそこは代々|男神《おとこがみ》だと、決まってんじゃないのか?」 「おれもそうだと思ってたんだけど、けっこう若い女で、本家の車から、しゃなりしゃなりと降りてくるところを、見たっていう人がいるんだ。そのとき、まわりにいた桑名の連中が、いっせいに頭を下げてたんで、まず生き神さんに間違いないだろうってな。お嬢さんも……」  由希靉の顔をまじまじと見ながら、 「とっても奇麗だけど、もっとさ、白塗りで厚化粧をした美人、そんな感じの女神《おんながみ》だって」 「えー、それはちょっと信じられないよ。何千年も、ていうのは大袈裟だけど、少なくとも一千年以上も守ってきた仕来《しきた》りを、今になって変えるか?」 「いや、今のご時世だから、変えたんかもよ」 「どうして?」 「そりゃーもう、この国はどっちみち滅ぶんだからさ。自棄《やけ》っぱちになってんじゃないの、神さんたちの世界も——」  竜介と由希靉は、核心にせまれる貴重な話を聞かせてくれたふたりの老人に、ねんごろに礼を述べてから、役場のだだっ広いフロアのすみにあった売店の椅子に腰を下ろした。  表にタクシーは待たせているが、その車の中では話せない話を、少ししたかったからである。  ふたりは丸テーブルに肘《ひじ》をついて、顔を寄せぎみにして、ひそひそ声で話す。 「病院にいる彼は、一番最初は被害妄想だったよね。誰かが自分を殺そうとしている、食事に毒が入っている、といったふうな……けど、それはひょっとすると、実話だったのかもしれないよね」 「ええ、わたしもそんなことを思いました」 「それに、食事に毒……殺すための毒薬ではなく、とある薬を使えば、健常な人間を、分裂病の患者に仕立てあげることだって、可能ですよね?」 「……はい。医者のわたしがこんなことをいうのも不謹慎ですけど、実際、可能でしょうね」  やるせない表情で由希靉はいい、 「けど、投薬をやめてしまえば、もとの健常者にもどるはずなんですけど……でもパラノイアの世界が構築されちゃってると、それに能力も発現していたりすると……何ともいえないですよね」 「まあ、薬を盛られたかどうかは、確証のある話ではないですからね」 「けど、トラックが突っ込んできたのは実際のお話でしょう。誰が、そんな悪いことをしたんでしょうか? 彼を亡きものにしようと考えているのは、誰なんですか?」  由希靉は、答えられるはずもない問いかけをする。 「うーん、わかりませんよね」  竜介にはわかろうはずもなかった(この世にいる竜介には、実際、わかろうはずもなかった)。  さあ、そろそろタクシーに向かわねばと、ふたりが椅子から立ち上がって、何歩かあるきかけたときであった。  竜介の携帯電話が鳴った。 「失礼……」  それを常用の小さな仕事鞄《ブリーフケース》からとり出していると、由希靉の携帯電話も鳴り出した。  ふたりは立ち止まって、ほぼ同時に着信ボタンを押してベルを止め、受話器を耳にあてがった。  竜介の電話は(画面の表示によると)院生の中西からであった。 「……せっ、せ、先生、大変でーす!」  絶叫ぎみの声が聞こえてくる。 「今、テレビにテロップが流れたんですけど……」  つづいて語られた短い話は、竜介は、まったく信じられなかった。 「何かの間違いじゃないのか!」  竜介は怒鳴った。 「い……今もおなじのが流れました。テレビですよ、そんなの間違いっこありませんよ……」  かたわらを見ると、由希靉が携帯電話を耳にあてがったまま、その細身がゆらゆらと動いている。今にもくずれ落ちそうだ。彼女も、おなじ内容の電話をうけているにちがいなかった。  竜介が、手をさしのべて支えようともしたけど、由希靉はフロアに座り込んでしまった。  中西は、なおもおなじ内容をくり返し叫んでいるだけだった。 「……いったん切るな。何か新しい情報が入ったら教えて」  竜介は、とりあえず電話を切った。  由希靉が、しゃがみ込んだ姿勢のままで、泣きじゃくり始めた。竜介も、泣きたい気分であった。 [#改ページ]  18  ——放課後に即行で。  歴史部のふたりは、念願の洞窟探検へと向かう。  目的地は浦和市の郊外だが、学校の最寄り駅のふた駅隣で、駅からはタクシーしか手段がなく、基本料金プラス三《スリー》メーターかかった。 「このタクシー代は、わたしが奢《おご》るわねえ」  まな美が豪気風を吹かせていうと、 「後でアイスクリーム買《こ》うてくれいうんちゃうん」  あいかわらずの、土門くんであった。  付近は、田畑の中に新しい家が点在している、中途半端な新興住宅地である。駅からはかなり遠いので、泡景気《バブル》のときにだけ需要があった、そんな場所なのだろう。 「この囲いやろ? けっこう広い敷地やねんな」  白ペンキが塗られた金属製の板のフェンスが、ずらーっと先が見えないほどに立ち並んでいる。 「そやけど、こんな半分田舎みたいなとこに、高層マンション建てようとしてたんか。昔の人は阿呆やなあ」  あたりを見渡しながら、土門くんはいう。 「マンションだけじゃなくって、映画館やお店が入る、複合……なんとかという施設を、建てようとしてたみたいよ。どうせみんな車でくるから、郊外の方がいいんだって」  まな美は、大炊御門から聞いた話をする。 「あっ、姫姫、フェンスのあそこ、ひん曲がってて、あそこから入れるやんか」  指さして、土門くんはいう。 「ダメよ。ちゃんと鍵もらってるんだから、なんのためだかわかんないじゃなーい」  まな美は、身悶《みもだ》えぎみにいった。  道を挟んでフェンスの反対側に、わずかな木々に囲まれて、朱塗りの鳥居と小さなお社《やしろ》が建っている。 「土門くん、先にこっちね」  まな美は小走りに歩み寄っていき、 「洞窟の上にあった神社を、ここに移したのね」 「なるほど。近所への引っ越しやったんやな。そやけど、こういうんは、勝手に動かしてええの?」 「勝手はダメだと思うけど、道端にあるような小さなお社って、けっこう動かされちゃうのね。これは、一間社《いっけんしゃ》・流造《ながれづくり》、という形式ね」 「へー、スキーのジャンプ台みたいな屋根やな。そやけど、前にだけびよーんと流れ出てて、横から見ると釣り合いとれてへんぞう」 「これでいいの! これが一番多い形なんだから」  まな美は叱っていう。  ——浅間神社。  横に立っている古びた石柱に、そう刻まれてある。  土門くんはそれを見ながら、 「この浅間神社って、浅間山を祀ってはんの?」 「いうと思ったわ」  まな美は、予期してたかのように嬉《うれ》しそうにいい、 「じゃなくって、富士山を祀ってるの。だから富士山のまわりにたくさんあって、関東平野にも、ぽつぽつあるのね」 「そやったら、なんで富士神社いわへんの? そんなまぎらわしい」  土門くんらしい、問いかけをする。 「それはね、あさま、ていうのが、神々しい山の一般的な呼び名だったから……だそうよ。それを日本一の富士山の神社にだけ、使うようになったのね。静岡県にある浅間大社が総本宮で、裏の山梨県側にもあって、富士吉田市にある、北口本宮……が有名で、吉田の火祭りというのが夏にあって、町じゅうに松明《たいまつ》を灯《とも》して、一面火の海にするそうなのね。わたしも一度観に行ってみたいんだけど……」 「そやったら、自分がお供しますよう」  まな美は、その彼の言葉は無視して、 「浅間神社は、ご神体は富士山なんだけど、別にきまった神さまが祀られていて、木花之《このはなの》佐久夜毘賣《さくやびめ》、という女神さまなのね。それはどこの浅間神社もおなじね。その彼女は、天孫・瓊瓊杵尊の、妻だった人なのよ」 「あっ、そんな関係やったんか」  予習などしていない土門くんは、ちょっと驚いてから、 「そやけど、なんでこっちに来てはんの? 結婚して、九州に住んではったんちゃうん?」 「それにはいろんな説があって、木花之佐久夜毘賣は、水の神さまだから、富士山を鎮めるために祀ったとか。彼女の父親は、大山津見神《おおやまつみのかみ》といって、山の神さまのボスなのね。だからその娘が、日本一の山にいるのは当然だとか。あるいは、木花之佐久夜毘賣の血筋につながる巫女《みこ》さんがいて、その彼女を九州から連れてきて、拝ませたら、富士山の噴火が鎮まった、そういった説もあるのね」 「その最後のやつだけ、ちょっと具体的やなあ」 「それに、木花之佐久夜毘賣って、木に花が咲いたごとくに……の意味で、つまり絶世の美女なのよ」 「そうそう、ここにおわします姫も」  土門くんはおべんちゃらをいう。 「だからいろんな意味で、富士山にふさわしいのね。けど、木花之佐久夜毘賣と瓊瓊杵尊の結婚話は、土門くん知ってるの?」 「ふーん……」  お社の屋根のスロープ(ジャンプ台)にそって顔を動かし、うなっているだけだ。 「これすっごく面白い話なのよ。ふたりが出会ったのは、笠沙《かささ》の御前《みさき》、これは鹿児島県の笠沙みたいね。瓊瓊杵尊が見初《みそ》めちゃって、彼女の名前を聞いたりするのね。そしてつぎに、姉妹はいないか? て聞くのよ」 「ええ? 絶世の美女と出会《でお》とんのに、そのひとりだけじゃ我慢でけへんの?」 「まさにそんな雰囲気なのね。そしたらお姉さんがいると答えて、石長比賣《いわながひめ》、というのね。その名前を聞いておいてから、妹の木花之佐久夜毘賣に、結婚を申し込むのよ」 「へんなやつやな……」  土門くんは正直な感想を述べる。 「で、妹のヒメは、お父さんの許しをえなきゃーて、一度家に帰るのね。すると大山津見神は大いに喜んで、でもどうしたことか、お姉さんも一緒につけて、送り届けちゃうのよ。ところが、そのお姉さんときたら、甚凶醜《いとみにく》きによりて……返し送りて……これはそのとおり書かれてあるんだけど」 「いと醜きてとは、いと露骨な表現するなあ」 「だから親元に送り返しちゃって、妹とだけ、よろしくやるわけね」 「気持ちはわからんでもないぞう。けど、そやったら、姉妹のことなんか、最初から聞かへんかったらええのに?」 「誰もがそう思っちゃうわよね。ところで、この話にはオチがあるのよ」 「日本の神話にオチがー?」  がー、と濁って土門くんはいう。 「そのオチを語るのは、大山津見神で、彼いわく、ふたりを一緒に送り届けたのにはわけがあり、姉の石長比賣とよろしくやれば、瓊瓊杵尊の命は、雪降り風吹いても、常に石のごとくに永遠に変わらない。妹の方は、木の花の栄えるがごとくに繁栄するだろう。ところが、姉を返しちゃったので、瓊瓊杵尊の寿命は、木の花のようにはかなくなるでしょう」 「それ、まさに落語やんか」 「さらに、その後につづく天皇たちの寿命も、そう長くはならなくなりました……てオチなのね」 「あっ、そうなってくると、それはアダムとイブが食べはった、禁断の木の実と雰囲気似てるぞう」 「そして、さらに面白いつづきがあって、ふたりのお付き合いは、一夜きりだったのね。なのに、姫がご懐妊してしまったから、瓊瓊杵尊が、自分の子ではあるまい! 誰の子だーて問いつめるのね」 「そいつけっこう性格悪いんちゃうか」  土門くんは、思ったことをずけずけという。 「それで、その証《あか》しにと、彼女は子供を産むときに、その産屋《うぶや》に火をはなって、その中で出産するのね。無事に産まれたら、あなたの子供よ、て意味で」 「えー、燃えてしまうぞう。それにやな、そんなことが証明になるんか?」 「神話だから、理屈はとおらないの——」  まな美は、問答無用の、切り札を出していった。  ふたりは、小銭を賽銭箱に投げ入れて、鈴を鳴らし、型通りの参拝をすませてから、洞窟がある敷地の入口の方へと向かった。  入口は、道沿いに立っている長々としたフェンスの真ん中あたりにあって、大型車両が出入りできる大扉の横に、人間用の小さな扉があり、まな美がもらった鍵は、そこの鍵である。  そして、中に入ってみると、 「うわー、ブタクサだらけやぞう」  ——一面が、そういった雑草の野原であった。 「これ知っとうか? 花粉症の原因やねんでー」  土門くんは、いかにも嫌そうに、まるで都会人のようにいう。 「そんなことより、洞窟はどこにあるのよ?」  想像していたよりもさらに敷地は広く、サッカーグラウンドを優に超えていそうだ。 「そやけど、よう見たら汚いなあ……」  土門くんが顔をしかめているのは、フェンスのすぐ内側のあたりのことで、誰かが投げ入れたゴミが、錆《さ》びた自転車や、車のタイヤや、さらには勉強机のような粗大ゴミまでもが、数多く散乱している。 「まさに現代のニッポンの縮図やな。見えへんから思《おも》てみんな捨てるんや。日本人の恥の文化はどこへいってしもたんやろか」 「そんなことより! こんな草|茫々《ぼうぼう》なとこ歩けないでしょう。洞窟はどこにあるのか、土門くんの方が見晴らしがきくんだから、ちゃんと探してよ——」 「いや、自分はもう見つけとうぞう」  土門くんが、右手奥の、フェンスの角のあたりを指さしながら、 「あそこだけ、ちょっと山になってるやんか。それにさっきの神社は、そのフェンスを越えたあっち側にあったやろ。その引っ越しから考えても」  へ、へ、へー……と自慢げにいう。 「そうかもしれないわね。じゃ、その土門くんの推理をいただいて」  ふたりは、ほぼフェンスに沿って、ゴミをよけながら歩き始めた。  近くに行くと、板囲いの残骸《ざんがい》らしものも見えてきたので、もう間違いなさそうだった。 「……ふーん、土ちごうて、ここだけ岩やねんな。その上に神社を建てとったんか」 「そのトタン板のところが、入口なんでしょう」  まな美が、鼻にかかった声でいう。 「それを、自分が動かせいうてるわけやな」  土門くんは察していい、 「そやけど、こんなんをどけると、変なんがいっぱい出てくるんやでえ」  ことさら、おどろおどろしくいう。 「なにがよ?」 「まずコウモリやろ。それに洞窟に入ったら、奇妙な虫がうじゃうじゃおるぞう。蛇もおるにちがいない。それに幽霊も……」  そんな冗談めいたことをいいながらも、土門くんが、そのトタン板を横にずらした。 「あら、けっこう大きな入口じゃない」 「それは姫にとっては。自分にはきつそうや」  ふたりは、もってきていた懐中電灯を用意して、洞窟探検への一歩を踏み出した。 [#改ページ]  19  竜介と由希靉は、とり急ぎ帰路について、午後の四時すぎには、高尾の尾沼病院にまいもどって来ていた。  竜介もここに来ていたのは、再度、神さまと対峙《たいじ》すべき——とそう考えたからである。  帰路の途中、中西から何度か連絡があって、最新の情報がもたらされた。  ——斎藤邸で殺害されたのは二名に増え、斎藤信介、そして氏名不詳の三十歳ぐらいの女性。  ——犯人の名前は神鷹彪。二十五歳。  ——犯人は逃走中。  ——犯人は特殊な武道の達人で、素手で人を殺すことができ、極めて危険。  さらには、こんな話も聞こえてきた。  ——犯人・神鷹彪は、斎藤が身辺警護のために、数日前から雇っていた人間。  その話に、竜介は大いに疑問を感じたのだ。  理屈にあわないからである。  物事には原因があって、そして結果があるのだ。  けれども、この場合は、神さまの予言という結果が先にあって、そして原因を生じせしめている。つまり因果律《いんがりつ》が狂っているではないか!?  さらには、斎藤の死には、自身が大いに関与していることにも気づいた。  もし料亭に竜介が行っていなければ、由希靉だけでは、彼を説得して警護をつけさせるのはまず無理だったろう。そんな神さまの戯言《たわごと》など、誰が信じるものか。  つまり竜介は、神さまの予言の片棒をかつがされたことにもなる。  おかしい!? 何かが狂っている。  その狂いの原因は——彼以外には考えられないからである。  由希靉は、帰路の列車の中ではずーっと泣きじゃくっていたが、もはやその涙も涸《か》れてしまったようで、萎《しお》れたきった蒼白《そうはく》の顔を竜介に向けて、 「彼に会って、どうなさるおつもりですか?」  弱い声で、なおさら不安そうに聞いてくる。 「いや、たずねたいことがあるので」  竜介は強い口調でいった。 「ですが……彼に、怒りだけはぶつけないでくださいね。彼が何かしたとか、直接に手をくだしたわけではありませんから」  由希靉は、精一杯の冷静な声でいう。 「もちろん」  竜介も、その彼女の言葉は真摯《しんし》にうけとめた。 「では、ドアを開けますね……」  彼は、以前とおなじように、空色のガウンをはおって、安楽椅子に体をあずけている。  ふたりが部屋に入っていっても、目線ひとつ動かさない。そして、あくまでも無表情だ。  下界で何がおこっていようが関心はない、そんな神さま然とした態度にも、竜介には見える。 「神さま——」  竜介は声をかけた。 「いや、きちんとしたお名前があったんですよね。アマノマヒトツノミコト。それが神さまの本当のお名前では、ありませんか?」 「…………」  まったく反応がない。 「うーん、おかしいなあ、そのはずなんですけどね。今日ね、桑名の方に行ってきたんですよ。地元の人たちがお多度さんと呼んでいる、多度大社にも寄ってきましたよ」 「…………」 「そこに、アマノマヒトツノミコトが祀られていて、その神が、ふっと人にも降りるそうです。それが、あなた、ではありませんか? もしくは、まわりの人たちからそう教えられていた。そんなことはありませんか?」 「…………」 「そうそう、あなたのお名前は、桑名裕也さんでしたっけ。その裕也さんのお家にも、行ってきたんですよ。すると、お家の人は、あなたのことなんか知らないっていうんだな。はてさて、これはいったいどういうことなんでしょうかね?」  竜介がやや強い口調でいったのか、彼が、竜介の方に顔を向けると、 「いいたいことあれば、申せばいい」  ゆったりとした口調でいった。 「うん?」  竜介は少し戸惑《とまど》いながらも、 「じゃ、お言葉に甘えて、つい先日、神さまが黄泉《よみ》の国へ、といった男の人がいたでしょう。ぼくがここに写真をもってきた人ね。その人が、ついさっき、死んだのね。きみの言葉どおりにさ」 「…………」 「ところが、これはどう考えたって、変なんだよ。あなたが、黄泉の国へ、といったものだから、それを防ごうと、護衛の人を雇ったのね。そしたら、その護衛の人が、彼を殺しちゃったんだ。つまり、あなたが、そんなことをいわなければ、彼は殺されたりなんかはしてないよね。すべて、きみが原因だ。あなたは生死|与奪《よだつ》をつかさどる神だそうだけど、そういったやり方をするの?」 「…………」 「先生……」  由希靉が、声をかけていった。  彼女に事前にいわれた注意事項を、竜介は忘れかけていたようだ。 「それとも、黄泉の国へ、そういったあなたの言葉を、防ごうとしたこと自体が、そもそも間違いだったのかな?」  竜介は、意識してソフトな声でいい、 「これは、しっぺ返しなの? 神さまに逆らった、しっぺ返しなの?」 「…………」 「けど、かりに逆らわなくっても、けっきょくは死んじゃうんだろう? じゃ、ぼくたちはどうすればいいの? 悪あがきをした方がいいの? 何もしない方がいいの? それとも、どちらであっても、神さまにとっては、意味がないの?」 「… … … …」  彼の唇が動いたようにも見えので、 「うん? 何をいったの?」  竜介は聞いてみる。 「よ…み…が…え…り」  彼は、生まれて初めてその言葉を使うかのように、ひと文字ずつ探るようにいった。 「黄泉返りか——」  竜介は、朗らかな声でいい、 「それはいい言葉だよな。そんな言葉があったなんて、すっかり忘れていたよ」  本心を吐露《とろ》していった。 「……望むか?」  彼が、素《そ》っ気《け》なくいった。 「うん?」 「黄泉返りを、望むか?」  竜介の顔をのぞき込むようにして彼は聞いてくる。 「そりゃできれば、望むけど」  そう苦笑ぎみに竜介がいうと、彼はすっくと前を見据えて、パチパチと瞬《まばた》きを始めた。  ……いったい何をしているのだろう?  ……何か絵でも見えているのだろうか?  竜介がそんなことを思っていると、やおら顔を向けなおして、 「おまえの願いは、かなえられよう」  透きとおった声で、朗々と彼はいった。 「ええ?」 「ど、どういうことなんですか、神さま?」  由希靉も驚いて、うろたえぎみにたずねる。 「ふたりの願いは、かなえられよう」  彼は、いっそう澄みきった声で、そういった。 「どういう意味です? 彼が——斎藤信介さんが、生き返ってくるの? とでもいうんですか?」  竜介は、急に馬鹿らしくなってきて、語気を強めていった。 「神さま、それはどういう意味なんですか?」  由希靉が、やさしい声で問いなおす。 「…………」  けれど、彼は、最前にいった言葉などはもう忘れてしまったかのように、無表情な顔にもどって、黙りこんでいるだけだ。 「あー……」  竜介は、長い嘆息《ためいき》をついた。 「神さま……?」  由希靉はなおも、懇願《こんがん》するような表情で、彼に問いかける。 「……ふむ?」  どうしたものでしょう、そんな当惑の意味をこめて、竜介は由希靉の顔を見やった。 「ですが、きっと深い意味があるんですよ、先生」  由希靉は、それに一縷《いちる》の望みでもあるかのように、目に希望の光を輝かせて、ささやいた。 「まあ……何かあるのかもしれませんね」  その光を消すのも残酷《ざんこく》な気がして、竜介はいった。      ※  それ以上の進展はなく、病室から退去しようかと、ベッドの縁に座っていた由希靉が、手をついて腰を浮かしかけたときであった。  彼が、突如、椅子からすっくと立ち上がるや、 「われは、——ンーラミョウジンなり」  竜介にはそう聞こえた。ミョウジン、それならばあてはまる神の名称が頭に浮かんだ。だが—— 「かの、麻生まな美を」 「——なんだって!」  つぎの言葉をいわせまいと、竜介は怒鳴った。  飛びかかって首をしめてやろうかとも思ったが、言葉が先に出た。 「何をいいやがるんだテメエ! ふざけるのもたいがいにしろ! 何さまだと思ってんだ! 神をきどりやがって! 人の命をなんだと思ってる! きさまのオモチャにされてたまるかー!」  おなじことを再度いうクセがある彼に、そのスキを与えまいと、竜介はまくし立てた。  彼が、すとーんと椅子に座った。  いや、彼が椅子に座るまで、竜介は絶叫しつづけたのである。 「その女性は、先生の……?」  由希靉の質問には答えず、竜介は仕事鞄《ブリーフケース》の中から携帯電話をとり出した。 「ここは携帯はダメなんです」 「そんなこといってる場合じゃ」 「いえ、そうじゃなくって、壁が分厚くて通じないんですよ」  病室を出て、電波が届くところへと由希靉に先導してもらい、そこは中庭に面したステンドグラスの階段で、ここでなら何とかと彼女がいうので、竜介は、まな美の携帯電話を呼び出した。  ——が、何度かけなおしても、電波の届かないところに、まな美はいるようだった。 [#改ページ]  20 「姫が入れて入れてー」  洞窟の中に、土門くんの声が響き渡っていた。 「やだー、やだやだー」  まな美の嬌声《きょうせい》も木霊《こだま》している。 「こわいんちごうて、これは純粋に物理的な問題や。自分の手は大きすぎて入らへんのや。そんなん見たらわかるやんか」  ふたりが懐中電灯で照らしている先は、石の祭壇の上部の岩壁にある竜の彫りものの、その手がワシづかみにしているかのような、丸い空洞である。 「うーん、仕方ないわね。土門くんのその巨大な手は、ここぞというときには役に立たないんだからー、ピアノも満足に弾《ひ》けないくせにー」  まな美は、たらたら不満をいいながら、おそるおそる右手をさし入れていく。 「……ガチャーン」  土門くんがわざとらしくいうが、まな美は、真実の口などこわくも何ともないのだ。虫もぎりぎり耐えられる。けれど、もしや蛞蝓《ナメクジ》などがいたらと思うと、総毛立ってしまうのだ。 「あらっ、何かあるわよ」  まな美はビクッと体を震わせて、 「……固いわ」  安心したようにいってから、 「つまみ出せそうよ」  そして、その丸い空洞の奥からまな美がとり出したのは、 「ありゃ、木の箱やんか」  土門くんが懐中電灯で照らしながらいった。 「何か入ってるみたいよ」  その細長い木箱を、まな美が手でゆすりながら、 「それにしても、意外なものが出てきたわよね。ここで開ける。それとも外にいったん出る?」 「どっちでもええんやけど、お宝っぽいやんか。この箱は時代あるぞう」  さっそく目利《めき》きをして、土門くんはいう。 「じゃ、室町はある?」 「それはなんともゆえへんけど、まちがいなく江戸はあるで」 「それに、この丸い空洞は、宝珠《ほうじゅ》のところだから、いかにも宝物を隠していそうよね」 「それこそドラゴンボールやもんな。何個か集めたら願い事をかなえてくれるという……」 「じゃ、あける?」  まな美が唆《そそのか》していい、 「あけましょあけましょ」  ふたりは外に持ち出すまで我慢できず、その場で開けることに意見の一致をみた。  まな美は、ひとまず石の祭壇の上に、その小箱を置いた。空中で手にもって開けて、もし中のものをバラけさせてしまうと収拾がつかないからだ。懐中電灯で照らしている、光の輪の中しか見えないのである。ふたりとも、こんな真っ暗闇の洞窟などに来たのは、たぶん初めてのことだ。  そして、まな美が木箱の蓋《ふた》をはずした。 「あっ、上等そうな布やぞ」  いち早く土門くんはいう。 「懐中電灯やと、色がいまいちようわからへんけど、たぶん紫ちゃうか。ちょっとやそっとでは使われへん最上等の色やでえ」 「それに、何かがくるまれているみたいよ……」  まな美が、慎重に布をひらいていく。 「あら、これだわ……」  その細長い金属棒を、まな美が手でつまみ上げると、 「あー、いわゆる五寸釘やんか」  即座に土門くんがいった。 「これ、古い釘なんでしょう?」 「もちろんもちろん、たぶん江戸時代やろな。昔は一本一本手作りやったから、釘も貴重品やねんで」 「ふーん、なんなのかしら」  まな美は、最前までの宝物探し気分はどこへやら、なげやりにいう。 「そうやけど、こんな後生大事に仕舞《しも》てるんやから、なんかよっぽどの由来があるんちゃうやろか」 「あら、そう……」  まな美の声が、ちょっと生き返った。 「なんか書き付けとか入ってへんのん?」  そう土門くんにうながされ、まな美は、箱の中や、そして布の間などを探してみる。 「けど、何もなさそうよ……」  土門くんは木箱の蓋を手にとって、懐中電灯で照らし見ながら、 「うーん、なんも書かれてへんなあ……」  ふたりで分担して、さらにしばらく探してはみたが、これといって由緒伝来を教えてくれそうなものは見あたらない。布も無地で、紋様などは入っていないのだ。 「そやけど、これは気になるな……」  土門くんが、珍しく真剣な口調でいった。 「気になるって?」 「自分、なんかこういうん見た記憶があるんや。あれなんやったんやろうか……」  大首をかしげながら、土門くんはいう。 「それって、どこで見たの?」 「それが思い出されへんねん。そやけど、全身がサビでおおわれとって、大事に仕舞われとった古い五寸釘、それを誰かに見せられるねん。そういう状況設定みたいなのはおんなじなんや。さらに、その五寸釘には、奥深い物語がついとったみたいなんや」 「どんな物語なの?」 「それも思い出されへんねん。くっそー」  土門くんは、いかにももどかしげにいい、 「あれはどこで見たんやろか? いったいなんやったんやろう……?」  よほどにそれが気になるらしく、なおも考え込んでいる。 「既視感《デジャブ》じゃないの? いわゆる」 「でじゃぶ? そんなハイカラな言葉、骨董屋の坊には似合わへんわい」  土門くんは、なかば自棄《やけ》になっていった。  まな美が、その五寸釘を手にもってしげしげと見つめながら、 「けど、これどうしようかしら……」  微妙なニュアンスでいう。 「どうするって? 姫はどないしたいんや?」 「もとあった場所に返すのはもちろんだけど、何日間か借りちゃっても大丈夫かしら? とそういった意味ね」 「借りてどないしはるん?」 「だから鑑《み》てもらおうかと思って。専門家に」 「あっ、そういう意味な。どうせ自分は釘の専門家とはちゃうし」  土門くんは、すねぎみにいってから、 「そやけど、この祭壇のところを見たら、ロウソクの燃えかすがあるやんか。ほかのとこにもあったけど、わりと最近の燃えかすっぱいで」 「ということは、最近、ここに誰かが出入りしているのよね?」 「この五寸釘の持ち主かもしれへんでえ」 「じゃ、勝手に持ち出したら、怒られるかしらね」 「そんなことよりも、これは藁人形《わらにんぎょう》と一緒に使う、呪いの五寸釘とちゃうやろか。そんなん持ち出さん方がええ思うぞう」 「さっきの話とちがうじゃない土門くん」  ……と、そのときであった。 「今、何か変な音しなかった?」 「うん、自分にも何か聞こえたぞう」  ふたりして身をすくめて、ささやきあった。 [#改ページ]  21  ……こころの奥底にまだかすかに残っている真実のかけら……それを探し求めるかのように、神鷹はようやっとのことで、洞窟の入口まで来ていた。  あの後、悪魔退治のチャンスは、すぐにおとずれた。水野師範が離れの方に去り、斎藤がひとりで、ヒメノサヤコがいる和室へと入っていくのが見えたからだ。  神鷹も後を追うようにして部屋に入るや、斎藤の腕をとって畳にねじ伏せ、そして凶器の指先で突き刺そうとすると、斎藤が、すべてを悟ったかのような悲しい目をしたので、神鷹はわずかに驚いた。だが、彼の手は勢いを止めなかった。  ヒメノサヤコは布団の中で眠ったままだったので、いとも簡単だった。  そして神鷹は、誰に見とがめられることもなく、思惑どおりに庭に出たのであった。  少し歩き廻ってもみたのだけど、そこに洞窟はなかった。  だから生け垣の隙間から、道路に這《は》い出るしかなかった。  神鷹は、混乱している頭の中から、記憶の断片を何とかつなぎあわせて……電車を乗り継いで……駅からは歩いて……お寺の敷地までたどりつき……フェンスのひん曲がったところから中へと入って、ようやっとのことで、この洞窟の入口の前までたどりついたのだった。  その道すがら、あの『この世とあの世とをつなぐカギ』の使い途が、よりはっきりと神鷹にはわかってきていた。その尖《とが》った先端で、自身の心臓を突き刺せばよいのである。そうすれば、あの世に行けるはずだった。  それが、神鷹が、彼のこころの奥底から探し見つけた、真実のかけらでもあったようだ。  洞窟の入口のトタン板が、横にどけてあった。  けど、そんなことは気にはならずに、神鷹は石の階段を下へと降りていった。  すると、ほのかな明かりに照れされて女性が立っていた。  あー……あなたもマリアさま?  彼女はやさしく微笑みかけている。そう神鷹には見えた。 「すいません。この五寸釘は、あなたがここに仕舞われていたものですか?」  手にもって示しながら、彼女はいった。  あっ……それを自分に!  神鷹がうけとろうと、片手をさしだしかけたときであった。  暗闇に足元がおぼつかなく、何かにつんのめって、神鷹は彼女にもたれかかってしまった。 「キャー……」  まな美の悲鳴とともに、ふたりはもつれるようにして、岩の床に倒れこんだ。 「——姫! ——姫! 大丈夫? そっちの人も」  土門くんの叫び声が、洞窟に響き渡った。 [#改ページ]  22  電話連絡をうけた竜介が、慌てふためいて浦和市の病院にかけつけると、病室の前の廊下で、土門くんが悲壮な顔をして棒立ちしていて、 「すいません、自分がついておりながら……」  頭を下げながらいった。 「まな美は?」  竜介は急《せ》いていった。 「手にもっていた釘で、ほんのちょっと怪我をして、今は、中でお母さんが……」  竜介は、ドアを開けて病室に飛び込んだ。  ベッドの脇には紀子が座っている。  まな美が、入ってきた竜介に顔を向けた。  竜介は、つい一時間ほど前に尾沼病院で、神さまが、麻生まな美を……と名前を出したことでもあって、最悪のことが頭をよぎったのだったが、ひとまず安堵《あんど》のため息をついていると、 「えー、こんなとこに顔を出していいの?」  まな美が、妙なことをいい出した。 「いいも悪いも、電話をうけて、とるものもとりあえず、すっ飛んで来たんじゃないか」 「だって、わたしたちは……」  まな美は、もじもじしながら、 「付き合っていることは誰も知らない、土門くんや歴史部は別だけど、秘密の兄妹じゃない。それに、ここにいるママは……」  おにいさんのかつての恋人で、けどおにいさんを袖にして、こともあろうにその父親と結婚した女性である。それはわかりきったことなので、まな美はあえていわなかったが。 「何いってんだまな美?」  竜介は当惑しきった顔で、 「何いってるの? まな美?」  ママ——紀子までもが同調していう。 「あれ? わたしとおにいさんが付き合ってること、ママは知ってたの?」  まな美は訝《いぶか》っていった。 「え? 何いってるの? 誰がおにいさんなの?」  紀子が、逆に、訝しげに聞いてくる。 「頭でも打ったの?」  竜介が、紀子に耳打ちした。 「——頭は打ったかもしんないけど!」  まな美にも聞こえたようで、 「おにいさんはおにいさんじゃない。何変な芝居してるのよ? ふたりして——」  怪我人とは思えない、声を張り上げていう。 「うん? ぼくがまな美のおにいさんなの?」 「そうよ。歳《とし》は随分と離れてるけど、それに母親はちがうけど、名前も火鳥《かとり》でちがうけど、実の兄貴じゃない。わたし何か変なこといってる?」  噛みつかんばりに、まな美はいう。 「火鳥? それはぼくの母方の姓じゃないか。ぼくは麻生竜介だよ」 「まな美、ここにいるのは、わたしの夫よ。だからあなたのお父さんじゃない……」  紀子も、真顔で、ことのほか心配そうにいう。 「えー! 何わけのわからないこといってるのよ。土門くーん! 土門くんちょっと来てー、このふたりにいってやってよー」  そのまな美の絶叫ぶりに、何事かと病室に入ってきた土門くんであったが、 「ねえ、土門くん。これはママよね」  まな美は指さしていい、 「じゃ、これは誰?」  つづいて竜介を指さし、問い詰めていった。 「そっ……そんなこといわれたって」  土門くんは狼狽《うろたえ》ぎみに、 「こちらにおわしますは、姫のパパさまですよう。それ以外に、誰さまやというんですか?」 「…………」 「自分、こないだ面白い話したでしょう。夢に出てきはって、ピアノを弾けとすすめてくれた、そのお父さまですよう」 「……何いってるのよ? 土門くんまでもが?」  まな美は、そのような夢の話などは、今、初めて聞いた。  それに、さっきから疑問に思っていたのだが、天目《あまのめ》マサトくんや水野|弥生《やよい》さんは、どこに消えてしまったのだろう?  洞窟に入ったときは歴史部の四人が一緒だったのに、まな美が、何かのはずみで気を失って(そのときの経緯《いきさつ》は、まな美はよく覚えていないけど)、そして洞窟からかつぎ出されたときには、土門くんとふたりっきりになっていたのだ。  おかしい?  何かが狂っていた—— [#改ページ]  〈参考文献〉 『分裂病がわかる本』E・フラー・トーリー/日本評論社 『分裂病』飯田真、風祭元/有斐閣選書 『精神分析学辞典』チャールズ・ライクロフト/河出書房新社 『なぜ記憶が消えるのか』ハロルド・クローアンズ/白揚社 『タイムマシンの話』都筑卓司/講談社 [#改ページ] 底本 徳間書店 TOKUMA NOVELS  神の系譜 竜の時間 亡国  著者 西風隆介《ならいりゅうすけ》  2003年6月30日  初刷  発行者——松下武義  発行所——徳間書店 [#地付き]2008年5月1日作成 hj [#改ページ] 底本のまま ・もっぺらペンキ塗り 置き換え文字 箪《※》 ※[#「竹かんむり/單」、第3水準1-89-73]「竹かんむり/單」、第3水準1-89-73 頬《※》 ※[#「夾+頁」、第3水準1-93-90]「夾+頁」、第3水準1-93-90 蝋《※》 ※[#「虫+鑞のつくり」、第3水準1-91-71]「虫+鑞のつくり」、第3水準1-91-71 噛《※》 ※[#「口+齒」、第3水準1-15-26]「口+齒」、第3水準1-15-26 唖《※》 ※[#「口+亞」、第3水準1-15-8]「口+亞」、第3水準1-15-8